42-1

「尾形チャン…」と囁く声とともに、ピトっと背中に何かがくっつく感触がして、ビクッと振り返ると、そこには営業の白石がいた。

「…気持ちわりいな…くっつくなよ」
「ひどーい。だって、尾形チャン機嫌悪そうだったからさあ」
「だったら余計にだろ…」

シッシッと白石を手で追い払う俺に、口を尖らせて抗議した白石は、それでもまとわりついてくるので、俺は呆れた目線で口を開いた。

「なんだよ。また借金かよ」
「えーっなんで分かったの…」
「それしかねえだろ。また競馬でスッたのか?貸さねえぞ」
「お願い!1万円でいいから!」

両手を擦り合わせて懇願する白石を冷たい目線で見遣ってから、ハア…とため息をついた俺は、「…お前また彼女にバレて死ぬほど怒られるぞ」と忠告してやった。

これは本当の話だ。以前も似たような失敗をして、結局自分の女にケツを拭かせているのだからどうしようもない。
白石と付き合うとかどんな能天気な女なんだ、と思っていたが、ある時、俺が迷惑被った白石のドジの尻ぬぐいに、丁重な謝罪とともにお詫びの品を寄越してきたので、なるほど、これだけしっかりしてれば白石の面倒くらいみてやれるんだな、と思ったりなどして。

「…ハア。別にいいけどたまには別のヤツにも借りろよ。お前俺に何回借りてるんだよ…」
「だって尾形チャンしか貸してくれないんだもん」
「……」
「尾形チャンってなんだかんだ言って貸してくれるから優しいよネっ!」
「……人を都合よく扱うなよ。利子高いからな…」

財布から1万円札を出して白石にぴらっと渡すと、「ありがとう!!ありがとう!助かる〜!」と小躍りする白石が、ふとその動きをストップして、ニヤリと思い出したように悪く微笑んだ。

「…そうだ。お礼あげるね」
「別にいらねえよ。その代わりちゃんと返せよ」

「じゃあコレはサービス!」とニヤニヤ怪しい笑顔で俺を見る白石に、こっそり手渡されたのは、紅茶のティーバッグのようなものだった。薄い水色の包み紙に包まれて、真ん中には何かの動物の顔のシルエットが描かれている。

「…ナニコレ。いらねえ」
「まあまあ……コレさ、尾形チャンの彼女に飲ませてみな?」
「…彼女なんていない」
「またまた〜〜〜!!俺知ってるんだからね??」
「…何のことだよ」
「まあそう言いはるならいいケド、これはあげる」

そうして、俺の耳元に顔を近づけてきた白石は、「コレね、いわゆる『媚薬』ってヤツなんだ」と上擦った声でヒソヒソと囁いてきた。

「…は?」
「なんかね、昔からそういう成分ってあるんだって。中世ヨーロッパの…とか、アイヌの…とか」
「……」
「もう!カマトトぶっちゃってさ!だからあ、これを飲ませれば、尾形チャンの彼女がグズグズに乱れるところ見れるってわけ!」

目をギンギンに輝かせてそんなことをプレゼンしてくる白石に、呆れた俺は「…くだらねえ。そんなの使わなくても問題ねえよ」と呟いてから、今度は一層ニヤニヤと悪い顔で微笑む白石にギョッとする。

「…やっぱりいるじゃん彼女!…まあ使ってよね!じゃあね!」
「……ッ」

思わずムキになって飛び出た言葉に自分でも後悔しながら、手のひらに乗ったティーバッグひとつを眺めてみる。まあ普通のお茶にしか見えないが。
だが、裏表とひっくり返して調べてみるけれど、製造元や販売元など一切記載が無くて、怪しさは満点だ。

まあ、興味がなくは無いが、いかんせん白石が情報源では怪しすぎる。
後で適当に捨てておくか、と考えて、さりげなくジャケットの内ポケットに放りこんでから、そのままそのことなんてすっかり忘れてしまっていたのだった。







玄関のカギを開けて家の中に入ると、名前の靴が置かれているのを見て、なんだアイツもう来てたのか、と思いながら、ネクタイを緩めてリビングへ向かう。

すると、キッチンのほうで踏み台に乗った名前が右往左往しているのが目に入り、怪訝な顔になってしまった。さっき俺の家に来たばかりなのか、まだ名前はスーツ姿だ。

「尾形さーん…」
「何だよ。何やってんだ」

引き抜いたネクタイとジャケットをソファの背もたれに掛けて名前のほうに近づくと、「キッチンの電球が切れちゃってたんで替えようと思ったんですけど、なんかうまくつかなくて…」と眉を下げている。
「貸してみろ」と電球を受け取って、代わりに手を伸ばしてつけてみるが、確かに何故かうまくはまらない。

「アレ、なんかズレてるな、これ。やっといてやるから着替えて来いよ」
「はーい…」

素直に引き下がってジャケットを脱ぎ始めた名前を横目に見ながら、なんだか複雑なキッチンの照明と格闘すること約10分。シンクの上あたりの照明で位置も悪く、見づらい配線部分を気にしながら何度かはめて外してを繰り返したところ、ようやくキッチンの灯りがピカッと点灯したのだった。

よしよし、と汗を拭いながら自分でも満足気にリビングのほうを振り返ると、部屋着でソファに座ってすっかり高見の見物の名前が「あ、つきました?」なんて涼しい顔でカップを傾けている。

「優雅なことだな…」と皮肉まじりに呟いて、ソファに掛けていたジャケットを取りにいこうと一歩踏み出した瞬間、名前の手の中のマグカップに気づいて、ヒヤリと嫌な予感が背中を伝うのを感じてしまった。

ソファにかけていた俺のネクタイとジャケットは、そこにはもう無い。
いつもの癖で適当にそこに放り投げていたそれを、俺が照明の修理に悪戦苦闘している間に、名前が自分のものと一緒にハンガーにかけに行ってくれたに違いない。

…何かまずいものをポケットに入れてはいなかったか。

名前の横に座って、チラリと覗き見たマグカップの中はいつものコーヒーではなくお茶のようなものが入っている。

「…なに飲んでる?」とさり気なく聞くと、「あ、スミマセン、あれ飲んじゃダメでした?」と慌てた様子の名前がカップをテーブルに置いた。

「アレってなんだよ」と上擦りそうな声を抑えて問いただすと、「…尾形さんのジャケットのポケットに入ってたティーバッグ…」と眉を下げて戸惑う名前がゴクリと唾を飲み込んだ。

「さっきジャケットかけに行ったときに、落ちてきて…。このクマのマークってなんか有名なメーカーのやつですよね?あれ?違いましたっけ?」
「…知らねえけど…」

……知らねえけど、大丈夫か、お前。と言いかけて、その言葉をかろうじて飲み込んだ。ただのお茶を淹れて飲んだくらいで体調なんか心配されたら、こいつだって怪しむし、何より、俺が知っていながらどうこうするつもりでこのお茶を手に入れたみたいじゃねえか。
白石の野郎…っていうかこんなことになるなら早く捨てておけば良かった…。

「クマっていうか、ラッコですかね?ホラ、ここに貝の絵がありますよ」
「…へえ…」
「えっ?もしかして尾形さんちょっとガッカリしてます?楽しみにしてました?かわいい…」

そんな風に冗談ぽく笑う名前は、全く普段通りで、『グズグズ』になる気配なんてちっともない。まあ、こういうのって即効性あるかどうかは分からんしな…なんて思わず考えて、頭をブンブン振ってその考えを追い払う。

…あぶねえ。白石の妄言に付き合ってなんだか期待してしまうところだった。

「で、それ美味いの?」

真顔で名前をジロジロ見ながらそう言う俺に、キョトンとした名前は、しばらく考えてから苦笑いして、「ウーン、普通。ていうか、ほぼウーロン茶です」と首を傾げている。

「それより、今日ご飯どうしましょうか。先週来た時にトマト缶の残り冷凍してたから、簡単にトマトのパスタとかでもいいですか?」
「別になんでもいい」
「じゃあそうしようっと。エビもあるし」

名前が立ち上がってキッチンに向かってからも、ついその動きを追って態度を観察してしまう俺は、まるで何か期待しているようだ。いや、まあちょっとは興味はあるっていうか。

それでも、そんな俺の邪な心をすかすように、名前は全くいつも通りで、不審な点も、それを我慢しているような素振りも無かった。

それは、夕飯を一緒に食べている時もそうだし、ソファで並んでテレビを見ている時だってそうだ。
映画の中の主人公とそのヒロインがいい雰囲気になった瞬間に、コテンと俺の肩に名前の頭がもたれてきたときは、思わず怪しいくらいの速さで振り返って名前の表情を覗き見たけれど、当の本人は小さく口を開けてスウスウ眠っていたので、なぜだか頭に来て思わずほっぺたを突っついて起こしてやったくらいだ。

結局、いつもの通り交代で風呂に入って、名前の愚痴話を聞くだけ聞いてやりながら歯を磨き、いつものようにベッドに入って終了だ。

ベッドに入ってからも、『グズグズに乱れる』とは程遠く、むしろいつもよりも眠そうな名前が「なんだかすごくネムイです…」と呟いて、その1分後には実際にスウスウ寝息を立て始めたので、行き過ぎた自分の期待に置いて行かれた俺は、隣で真顔で天井を見つめるしかなく。

しばらく寝顔を観察してから、(ナニやってんだ俺…)と正気に戻ったのはその10分後。

(くだらね。やっぱ白石に金貸すとロクなことになんねえな。まあいつの間にか妙な気分になってた俺も俺だが)と白石のせいにしながらサイドランプを消すと、すぐに眠気がやってきて、俺も目を閉じてすぐに眠りについたのだった。

今日はぐっすり寝れそうだ、と考えて沈下させていったこの意識が、すぐ隣にいる名前の身体の熱さで浮上させられるのは、そこから2時間後のことだったのだが。



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