39-1

目の前に座って、伏し目がちに猪口を持ち上げる名前の顔をこっそり盗み見て、息をひそめる。

頬が少しだけ上気している。いつもよりもペースは遅いはずだが。



名前は、なんてことない仕事先の関係社員。それでも仕事上の付き合いでグループで食事したり酒を飲むうちに、なんとなく目が合うことが多くなり、隣の席に座ることが増えていって、気付いたら割と気さくに話せる関係になっていた。

名前は歳のわりには大人っぽくて、服装も化粧もいつもシンプルだ。最近の若い女みたいに過剰にチャラチャラしていない、という言い方が、多分合っている。
それでも俺より一回りは年下なので、俺から見たらひよっこのガキみたいなもんだが、きっと同年代から見たら「イイ女」の部類なんだろう。

「今度は二人で食事に行きませんか?」なんて言葉に応じて、戸惑いながらも初めて二人きりで食事に行ったのは、もはや数ヶ月前。
彼女から突然そんな誘いがあったときは、思わぬ言葉に枯れて鈍くなった心臓が思わずドキリと音を立てたものだ。

それでも、彼女に言わせると、その言葉を俺に言うのはもう数回目だったということなので、きっとそれまでの俺は、その言葉をどうせ社交辞令だとでも思って完全に聞き流していたのだろう。

社交辞令だと思っていた言葉が、その時は急にハッキリと言葉になって聞こえたのは、他でもない、俺自身にその願望が芽生えていたからだろう、と今になってみると思う。

どうせこんなオッサンが酒に誘ったらセクハラとか言われるのがオチだろうな、と思って揺れていた俺の感情になんて気付かずに、ボーダーを飛び越えてきたのが名前だった。

…正直言って、名前から好意のようなものを感じる時は多々あった。
若くて青いその勇気に、何らかのアクションで応えてやれば、俺だってイイ男の仲間入りなのかもしれない。

それでもその一歩が踏み出せないのは、未だに俺自身もこの状況に疑いを持っているからだ。
だって、こんなに若くてイイ女が、俺のことを本気になるわけがないだろう。




「もう一合くらい、お酒追加しましょうか?」

ボーッとしていた俺の顔を覗き込んで、名前がそう問いかける。

「あ、悪い。そうだな…そうするか。でもお前大丈夫か?」
「大丈夫です。……酔ったら、門倉さんに送ってもらうから」
「え?…ハハ…大丈夫だろ。そんな酒弱くないだろ?名前チャンは…」
「……弱い」

……今のがジャブだったのかどうかも俺の頭では判別不能だ。
いや、きっとそうだったんだろう。でも残念ながら、俺のほうが即座にリング外に出てしまったから、試合は不成立だ。

(ほら、またそうやって…)という切なそうな名前の表情を見るのは何度目か。
それを見る度に少しだけ胸が締め付けられるこんな感情を抱えたままでいるなら、いっそ自分から、と何度も思うが進めない。
世の中には名前に釣り合うイイ男が沢山いるのだから、そっちとくっつくのがいいってもんだろう。

「門倉さん」

…そう、すぐそこで熱く語っているサラリーマンのグループのあの男とか、さっきから一人で杯を傾けている芸術家風の男とか、なんなら隣の席で合コンしている大学生の野郎とか…

「…門倉さん」

大体この店内にいる男はみんな俺よりも名前につり合いそうだ。実際、横の大学生なんてさっきから名前のシャツの胸元をチラチラ盗み見ているしな。ったく、これをネタに友達同士で盛り上がることもせずに静かにチラ見してんのがリアルなんだよ、ガキめ…

「門倉さん!」
「あ…すまん」
「…考え事ですか」

かなり逸れていた思考をなんとか引っ張って元に戻して正面を向くと、膨れ顔の名前がジットリこちらを睨んでいる。普段は大人っぽい名前のそんな表情は少しだけ幼く見えて、今の俺の邪な感情が余計に後ろめたくなるようだった。

「考え事っていうか…まあ、いや、」
「…これ空けたら、お会計しましょうか」
「そうだな」

最後の一滴を飲み干すまでの間を持たせるように、ポツリポツリと交わす会話は、なんてことないものだ。あのメニューがおいしいだとか、今度はあれが食べたいだとか。

お互い、手の内を見せずにいるけれど、捨てずに持っている切り札のカードがあるはずなのは分かっている。それを切るタイミングを見失っているから、どんどんどうでもいい他のカードを切らざるを得ないんだ。

どうってことないカードが手札から引き抜かれて、場に捨てられて落ちていく。

お互い勝ちたくないのか、負けたくないのか。
勝負をつけるのは、どっちだ?





「…少し、飲みすぎたみたいです」

店を出たあと、手にぶら下げていたカバンを肩にかけて持ち直した名前が、チラリとこちらを向いて、歩き出す。その足取りは少しだけふらついているので、慌てて歩みを速めて俺もそこに追いついた。

「夜になるとさみいな…まだ」
「……」

横に並んでゆっくり歩くうちに、ゆらゆら揺れながら歩く名前と腕同士が触れ合ってドキリとした。歩く動きに合わせてそっと腕と腕が触れるくらいの距離感だが、決してそれ以上離れてもいかないその熱は、俺をさっと炙るようにかすめていく。
いつもはポケットに入れて歩く手も、なんとなく今日は出したままでいる自分に気づいて、なんだかこそばゆい気持ちだ。
別に、なんか期待してるわけでもないんだが。

「名前、お前家は…」…どっちだっけ?と言いかけたその時、ぐねっと捻ったヒールに足がもつれてぐらつく名前が、慌てたように俺のほうに手を伸ばしたので、思わずその手を握って引っ張ってしまった。

「わ!…あ!」
「…コラ、酔っ払い」
「すみません…」

空中で掴んだ手を握ったまま下に下ろすと、その手は俺の手の中からスルリと抜け出して、転んでもいないのにスカートのお尻をパタパタはたいて誤魔化している。

…なんだよ。別にそんな意味で握ったわけじゃないんだが、そんなに拒否するこたねえだろ。安全確保だ安全確保。
思わず、自分の行動にこっ恥ずかしくなるような気持ちが湧き出てきて、むきになった俺は名前の手首をむんずと掴んでやって、まるで連行するみたいに引っ張った。

「…え、あ、の」
「…掴んどかないとすっ転ぶだろ?酔っ払い」

半分呆れ顔で名前をにへら…と眺めると、今度はムッとしたような名前は「…ヤダ」と呟いてその手を振り払おうとジタバタしはじめる。俺もさらにムキになって、「なんだよ、大丈夫かよ」なんて言いながらも離されないように必死だ。

…っていうか、抵抗する女の子の腕を掴んでもみ合いになってるこんな場面、見られたら即逮捕なんじゃないか?…なんてことに気づいた俺が一瞬力を弱めた隙に、俺の手から抜け出した名前がその勢いでぐらりと後ろに一歩後ずさる。

「おい、名前…」
「うわ…」

(ほら、言わんこっちゃない…)と眉をひそめた瞬間、華奢なヒールでぐっと踏ん張ったあと、反対に一歩俺に近づいてきた名前が、俺の手に自分の手を絡めてぎゅっと手を繋いできたのでおかしな冷や汗が出てしまった。

…どうした、こいつ。

「…掴んどくなら、こうしててください」
「イヤ…あの、これ見られたらおじさん結構恥ずかしいっていうか」
「…いいじゃん」


いいじゃんって…とタラリと冷や汗を垂らす俺には、名前は気づいていないようだ。

「…お前、結構酔ってるのか?」なんていう軽いパスを出してみると、「…わりと」と呟く声が返ってきてそれ以上の言葉が出ない。仕方なく手を繋いだまま歩き出すと、少しだけ頬を上気させたみたいな名前が嬉しそうに俯くのが見えて、なんだか照れ臭くなって俺もポリポリ頬を掻いた。

…こいつ、本当に酔っぱらうとこんな感じになるのか?別にいいんだが。
ってことは他の男にもこんな感じなのかよ?俺だけこんなことで舞い上がって勘違いしてるとかだったら恥ずかしすぎるだろ…。

…さりげなく、そんな気持ちを呟くように吐き出して、名前の本心を確認だ。

「…大丈夫かよ。…ま、本気で酔っぱらってんのか、酔ったふりしてんのかは知らねえけど…」
「…どっちがいいですか」
「…う、」

…思わずグッと詰まってしまうくらいの、こんな上手な返しをしてくるくらいなら、そこまで酔ってはいないんだろうな。全く。

酔ったふりなんだったら、そういうことなのか?
少しくらい近づいてもいいのか?


「…送っていくか?それとも、どっかで……休んでくか?…お前、やっぱ酔っぱらってるよ、今日」
「えっ…」

…少しだけ、冒険して切ったカードはまだ切り札ではない。

乗るか?乗らないか?
言い訳は用意したから、いつでもそのままお酒のせいにしてくれればいい。じゃないとこんな男についてくる理由なんてないだろう?

「…どういう意味ですか」
「どういう意味も何も、このまま帰らせたらアブナイだろ」
「…それだけ」
「それだけって、まあ俺だって男だけど、もう枯れてるっちゃ枯れてるから別に心配しなくてもいいぞ。ってか、最近の若い子ってやっぱその辺の感覚軽いのか?別に俺は後腐れ無いカンジも平気だからさ、なんていうか別にお前が…」

…もう自分でも何を言ってんのかはよく分からない。
ったくなんでおっさんってたまに勇気を出してアクション起こしてみても、その反応すらまともに見ないうちから言い訳を吐き始めるんだろうな。自分でも情けないけど、そんな心とは裏腹に口は勝手にペラペラ喋り始めるんだから仕方ない。

別に一晩だけでもいいけど?なんて最近の若者に合わせたみたいな感じで頭を掻く俺を見る名前は切なそうだ。っていうか、本当はみっともないって思ってるんだろう。
抱くとも言わず抱かないとも言わず、全てを相手の意思に丸投げの情けない中年だ。

気まずい沈黙に、タハハ…と頭を掻いていると、名前がそっと俺に近寄って、体を寄せてくる。
まっすぐ俺を見上げる瞳は、俺なんかよりずっとしっかりしていて熱い。

…やっぱ、酔っぱらってなんていないだろうが。

「じゃあ、門倉さんとホテルにいきたい」
「…おう」
「…本気です」
「…じゃあ、行っちゃう…?」

コクリと頷く名前が、俺の手をさらに強く握る。
その手の熱さが伝わるかのように、俺の胸の中でパチンと火が着火しそうになるのを、俺の中のさらにヘタレの俺が慌ててフーフー吹き消すのを感じて、こっそりため息をついた。

…情けないけど、ビビっている。

一度火が付いたらきっと戻れない。
でも、その一方で、なかなか火が付けられないのも中年の悲しい性だ。ヘタレな俺よ、そんなに必死になって消火してよかったのか?
火が着くなら今のタイミングだっただろう。
理性と欲望がごった煮でどうしようもない。一体どうしたいんだ。

夜道を手を繋いだまま歩いて行って、細い横道に入ってから歩みを止めたのは、ネオン輝くラブホテルの前。

長い夜が、ここから始まる予感が俺の心を痺れさせていったのだった。


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