→ ターニング・ポイント 4





「ないねぇ」
「ここまで、確かに持ってたんだよな?」
「そうなんだけど…」
 放課後の、いつも生徒でごったがえす廊下でヒムは友人と探し物をしていた。ヒムがいつも右手に持っている白杖は、床を叩いて段差や角の位置を把握するための歩行を補助する杖だ。それを6限目の教室へ移動中のひとごみの中でいつの間にか手放してしまった。普段は歩行に必ず使うため手放さないものだが、授業に遅れそうで友人に手を引っ張ってもらった。そして、帰る頃になって白杖をなくしたのに気づいたという事だ。
「6時なのに、夕陽がまぶしいわ」
「もう4月も終わりだからな…」



 ヒムの部屋にあるおんぼろのオルガンとは、かれこれ9年の付き合いになる。
 唐突に思い出したのには理由がある。ヒムは5月の終わりに誕生日を迎える。
 以前住んでいた部屋はとても狭くこのオルガンで精一杯だったが、今の部屋は広く余裕もあると言っていた。来月の誕生日にグランドピアノを買ってくれるそうだ。ヒムの家は裕福とは言い難く、両親は障害の無いヒムの弟に期待をして習い事をさせていたためヒムに施しをする事は一度しかなかった。それは、弟と一緒にピアノを弾いている所を見られた5歳の時だった。両親に才能を見いだされ中古のオルガンをもらったのが最初で最後の誕生日プレゼントだった。
 4年前のある日、家の階段を一番上からまっさかさまに落ちて大けがをした。
 盲目のためか家のどこでもぶつかったりひっかけてしょっちゅう怪我をしていたので、普段通りいつもかかっている近所の大学病院へ母親に連れられた時の事だった。
 処置が終わり簡単な説明の後、看護師が母親に声をかけてどこか行ってしまう。背後で扉の閉まる音がした。
 ねぇヒム、と底なしの優しい声で主治医のゴードン先生は話しかけてきた。
「この病院はね、色んな病気や怪我を研究する施設もあるんだ」
 ヒムは首を傾げた。先生は自分が持てる優しさ全てを使って、ヒムの肩に手を添える。
「ここならめったな事で怪我もしない。病気になってもすぐに診れる」
 病院なんだから当たり前だけどね、と先生は笑った。この後なんと言われるのだろう。ヒムは不安になって一緒に笑う余裕を持てなかった。
「ここで暮らさないかい?芸術学校の音楽科に通えるよう援助するし、君の生活もサポートするよ。とても広い部屋もあげられる」
 先生の優しい声に、ヒムは戸惑った。まともに返事をできず、顔を振って辺りの様子をうかがった。
「お母さんはどこ?一緒に住めなくなるの?」
「ここにはいないよ。ご家族とは離れて暮らす事にはなるけど…」
「先生、ひとりじゃ決められないよ」
 9歳の子どもなんかに決められるわけがなかった。みっともなく階段から落ちても怒らせてしまうのに、こんな事を勝手に決めてしまってはまた両親を怒らせる。両親を不機嫌にさせてしまう事はどうしても避けたかった。
「ご両親を怒らせるのは嫌かい?喜んでもらえると嬉しい?」
「そうだけど…いつも怒らせてる」
「ヒム。それは君が悪い子だからじゃない」
 ゆっくりと先生は語りかける。深く息を吸う音が聞こえた。
「目が見えないとうまくいかないことだってある。ここでは、目が見えない人が安全に生活できるような仕組みを考えたり、どうすれば目が見えるようになるか研究をしているんだ」
「目が、見える…?」
「ご両親は、君の目が治る事を望んでいる。ヒムス…わかるよね?」
 考えがまとまらないまま、ヒムは次の日、オルガンと少しばかりの荷物と一緒に研究棟にある個室へ引っ越した。
 毎年誕生日が近くなると、先生と看護師からグランドピアノを買おうかと訊かれる。音楽に打ち込むなら本番同様のグランドピアノが断然いいだろう。しかしヒムの答えは毎年ノーだった。今年もきっとノーと返すだろう。ヒムの部屋にあるおんぼろのオルガンとは、そろそろ10年の付き合いになる。彼が今の住まいに移ってから、一度も会っていない両親と自分をつなぐ唯一の「思い出」だった。
 


「…ん?」
 友人がふと声を出した。ヒム達はそちらに顔を向ける。コツン、とブーツで床を蹴る控えめな音が廊下に響いた。
「ランド、どうしたの…あ」
「君は…」
 他の友人も黙ってしまった。ヒムは状況がわからず首を傾げる。
「この前、地震があった時にヒムといた女の子だねぇ」
「あの子が、杖を持ってボクらの前にいるんだよ」
 ヒムは確信した。やはりあの子とは、あれっきりの出会いなんかじゃなかったのだ。
 校舎の外から、下校している生徒の笑い声だけが遠くで聞こえた。

 








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