ゼノンの逆説(竹久々前提鉢→←久々・現代)の竹谷視点の話


復旧の目処が立たないことを告げるアナウンスは、耳が馬鹿になるんじゃねぇか、ってくらい、繰り返し繰り返しされている。イライラを通り越した乗客たちからはもう声が上がることはない。疲れにそのままどろどろと座席に崩れ落ちているような状況だ。俺も似たようなもので、ボックス席の向かいに誰もいないことをいいことに、足を投げ出していた。零した溜息が曇ったガラスにさらに白を重ねる。中の人息のせいではっきりとは分からなかったが、窓の向こうはまだ雪が降り続けているのだろう。

(兵助は、待ってるだろうか)

待っててほしい。帰っていてほしい。--------------相反する気持ちが鬩ぎ合っているのは、きっと、まだ俺の中で答えがでていないからだ。



***

「兵助と別れるって?」

まだ閉店の時間じゃねぇってのに外の看板を仕舞ってくるなり、自分のグラスにアルコールを注いでいた三郎は、唐突に俺の方を見た。店を閉めたのは傷心の客をひとりにしておくというマスターとしての配慮ではなく、単に友人としての出歯亀精神でか、と俺は苦く笑った。溶けかけた氷に置き去りにされたアルコールが、てらり、と嘲笑う。

「何でお前が知ってるんだ?」
「この前、兵助が呑みに来たから」

あぁそれでか、と独りごちたけれど、不思議な感じだった。俺と兵助との問題なのだから俺が言わない限り情報元は兵助でしかあり得ないのに、どうしてだか、兵助の口から漏れたと思えなかったのだ。そういうことを自ら言って辺りの同情を買うよりも、感情を押し殺して押し殺して飼い慣らすイメージがあるからだ。ただ、三郎は別なんだろう、という思いもあった。

(きっと、俺の知らない兵助をこいつはたくさん知ってるのだろう)

俺よりもずっと長い付き合いだ、ともう必要もねぇのに言い聞かせる。学生時代から友人だという二人に、時に、立ち入ることの出来ない、独特の空気を醸し出されることもあって、疎外感を覚えることもあった。三郎に嫉妬したこともあったし、本当は何かあるんじゃねぇか、って勘ぐったこともあった。

(まぁ、馬鹿じゃねぇの、で終わっちまったけど……)

兵助には「三郎に恋愛感情なんてあり得ない」と呆れた面持ちを向けられ、三郎には「そんなのあるわけねぇだろ」と鼻で笑われたのも、今じゃ懐かしい思い出だ。---------------そして、もう、今の俺には関係のなくなってしまったことでもあった。俺は残されたグラスを呷った。尖った冷たさが手を突き刺し、爛れるような熱さが喉を灼いていく。

「兵助、泣いてたか?」

そう問えば、逆に「……あいつが泣くと思うか?」と三郎に聞かれた。泣く。俺は兵助の泣き顔を一度も見たことがなかった。生理的な涙は何度か見たことがあったけれど、いつも、それは薄暗い中だったし、それすら恥じるようにすぐに手で覆い隠してしまって。こっちも切羽詰まってるってのもあって、あまり覚えていなかった。だからだろう、泣く、と言われてもその表情は思い浮かばず、俺は「いや」と首を振った。

「……そうか、ならそれが答えだ」

そう言うと三郎は自らのグラスに手をつけた。ぐ、っと上下するヤツの喉仏に影が蠢いた。カウンターに転がしてあった煙草の箱を手にする。底を叩けば、円筒形の白が飛び出した。俺の行動に気づいた三郎がグラスを抱えながら、もう一方の手でポケットからライターを取り出し、俺の方に火を寄越した。

「どーも」

先端を近づければあっという間に火に呑まれた煙草に巻かれた煙を吸い込む。じり、と喉の裏が痺れた。満ちていくのは滑稽さばかりで、出るのは泣き言ばかりになりそうで。声の代わりに煙を押し出す。寄越せ、と手を出してきた三郎に俺は黙ったまま差しだした。

「で、何でまた、別れようって話になったんだ?」
「何で、って。……つうか、まだ別れてないし」
「そうなのか? 兵助は『別れよう』って言われた、って言ってたけど」
「言ってねぇし」

つい声を荒げたせいで指に挟んでいた煙草から灰がぼとりとそのままカウンターに落ちてしまった。眉を潜めた三郎に「悪ぃ」と言葉面だけで謝っておく。ふん、と鼻を鳴らした三郎はそれ以上は何も言わなかったが、次はないだろう、と同じ事を繰り返さないために俺はまだほとんど残っている煙草を灰皿に突っ込んだ。

「別れようっていうか、距離を置こうって言っただけだ」

じわ、っと熱が白い円筒をすり潰し、けれども広がることなく、持て余った煙だけがそこから細く立ち上っていた。まだ店には暖かさが残っていたが、店を閉めると同時に空調設備を三郎が切ったためだろう、乾いた冷たさが足下から滲み入ってくる。

「けど、兵助はそうは取らなかったわけだ」
「あぁ」

冷静に話しているつもりがいつの間にか言い争いになってしまった。別れるつもりなんて毛頭なかった。ただ、ちょっと、迷ったのだ。このまま、自分が兵助を倖せにすることができるかどうか、と。それを思ったとき、全身全霊を捧げてできると言えない自分がいて。そんな自分が嫌で。だから、兵助から離れて考えたかったのだ。

(ただ、それだけだったのにな)

気が付けば「別れればいいんだろ」なんて兵助の自棄になった声が飛んできて、もう収拾の付かないところにまで来てしまった。一度決めたことだ。それを覆すのは並大抵のことじゃできねぇ。兵助の意志の固さは、誰よりも俺が一番よく知っている。

「別れたいのか?」
「まさか。……けど、頑固だからな、あいつ。話をしようにもろくに聞いてくれねぇし」
「で、お前は、何もせずにこうやって呑みに来たってとこか」

全くその通りで皮肉を受けて立つ気にもならなかった。どうしたって兵助の意志を変えることはできない。だったら、諦めるしかなくって。本当は何度も携帯に指が伸びた。けど、いざ連絡しよう、と思うと指は寒さで固まってしまったみたいに、全く動かなくて。ずるずると、日だけが経ってしまっていた。呆れた目差しを向ける三郎に「じゃぁ、どうしろって言うんだよ」と問いかける。

「馬鹿なお前が考えすぎるから、そんなことになるんだろ」

煙草をふかしていたヤツは問には答えることなく、唇から煙草を外すとそんなことを呟いた。それから俺の手近にあった灰皿の上で煙草を叩き、長くなった灰を落とし、また銜える。空いた手には、懐古色が詰められた角瓶があった。口が空いていたそれを斜めに傾け、俺のグラスに向ける。ぶわ、っと粘度の高いアルコールの匂いが俺の呼気を奪った。高いところから注がれたせいで、カッティンググラスにぶつかった琥珀はそのまま外へと飛だし、カウンターを濡らした。ぎゅ、っと木の地が濃くなる。

「お前、もうちょっと、ちゃんと注げよ。もったいねぇ」

そう言っている間にも、テーブルで開いた枯れ花は、じわじわと花弁の境が滲んで分からなくなっていく。かなりの量がグラスに入らずに零れたことに文句を付ければ、三郎は軽く眉を潜め鼻を鳴らし、明らかに不機嫌な面持ちを作って、傾けていた瓶の角度を正した。

「いいだろうが。別に今は客相手じゃねぇんだし」
「じゃぁ、奢りか?」
「んな訳ねぇだろ」

ばーか、と嗤った三郎は瓶を今度は彼のグラスに向けた。今度も乱暴に注がれたために、残っていた氷の上で琥珀が弾け飛んだ。原酒の灼くような匂いに噎せそうだ。ぐらり、と眩暈うのは、瞼裏に溜まっていた熱源の均衡が崩れそうなのは、アルコールのせいだろうか。

「兵助は、お前のこと待ってるんだよ、馬鹿」



***

悩みに悩んでできた文章は『三郎の店で待ってる』というものだった。どちらかの家で会えば、また、同じ事の繰り返しのような気がしたのだ。外であれば少しは冷静に話をすることができる、そう思ったのだが、他に会う場所が思いつかなかった。兵助から了解の返信が来た頃には、始発の電車が動き出す頃だった。店から出るときに「明日は店、開いてなくても文句言うなよ」と、眠たそうにしている三郎に言われて「悪ぃ」なんて頭を下げた。

(……それから、まだ、一日も経ってないなんて、な)

俺は雪で立ち往生した列車に閉じこめられていた。一旦、三郎の店から電車で帰って、とりあえず眠って、起きてシャワー浴びて着替えて。家を出た瞬間に、ちょっとまずいな、とは思ったのだ。ばかすかと降る雪で、数メートル先もまともに見えなかった。それでも、掻き分けるようにして、なんとか駅まで辿り着けば、電車は遅れながらも動いていて。

(間に合うと思ったんだけどな……)

動いては止まり動いては止まりを繰り返していた電車は、道中で完全に停車してしまった。線路が風雪で埋まってしまったというようなアナウンスが流れてきた。抗議する他の乗客と車掌とのやりとりに耳をそばだてたが、どうやら当面動く見込みはないらしい。

(兵助に連絡しねぇと)

ぱ、っと、そのことが頭に浮かんだ。兵助の方が三郎の店に家は近い。まだ出てないはずだ。今、連絡すれば、兵助をこの寒い雪の中、歩かせないですむ、と。そう思う一方で、別の考えも過ぎった。-----------------この雪なら、兵助も来ないんじゃねぇか、と。

(そもそも、兵助が来るかどうか、わからねぇしな)

確かに朝方に兵助からは了解のメールが届いた。ただ、そこに書かれていたのは『分かった』という文字だけで。『行く』なんてことは一言も書かれてなかった。俺が待っていることは伝わったという意味での『分かった』なのかもしれねぇ。そう思ったら、また、俺の指はくじけてしまった。

(……こういう、運命なのかもな)

中の暖かさで完全に結露してしまった窓を、手で拭う。ぽっかりと開いた穴の向こうに広がるのは闇ばかりだ。このまま、全部が吸い込まれそうな、そんな深い深い闇。このまま、ここで朝を迎える羽目になって、約束をすっぽかした、って兵助に完全に嫌われるのを待つしかなかった。

(ばちが当たったのかもしれねぇな)

もう一度やり直す覚悟も決まってねぇのに、兵助を倖せにできるかっていう答えも見つかってねぇのに、兵助を呼び出した俺への罰。ぎゅ、っと目を瞑る。----------このまま、雪に閉じられて、何も考えなくてもすむところにいってしまいたかった。



***

どれくらい時間が経ったのか、不意に来た振動に俺は目を覚ました。さっきと変わらない光景。薄暗い蛍光灯の下にあるのは疲れ切った乗客の顔ばかり。その間も震え続けている物。携帯。兵助だろうか、と慌てて、取る。名前も何も確かめずに「もしもし」と受話口に向かえば、は、っと詰めた息が届く。

「お前、今どこだ?」

三郎、だった。今更、切ることができず、俺は「……電車。閉じこめられた」と現状の報告だけをした。本当は兵助のことが聞きたかった。けど、恐くて聞けなかった。今すぐにでも電話を切りたかった。だが、三郎がそうは赦してくれるわけもなく「兵助には連絡したのか?」と訊ねてきた。

(っ)

携帯を握る指先に自然と力がこもって、通話を打ち切ることもできねぇ。携帯を押しつけた耳に熱が溜まっていく。痛い。喉は細々と空気を取り込むばかりで、言葉どころか声さえ送り出すことができなかった。黙ったままの俺に答えを知ったのだろう。やがて、耳に罵声が雪崩れ込んできた。

「なら、さっさと、連絡しろ。この馬鹿」
「……兵助、待ってるのか?」
「当たり前だろうが」
「だって、来るって一言も」
「お前、兵助と何年付き合ってるんだ。兵助の性格を考えろ」

俺の台詞に被せてきた三郎は、なぜか泣き出しそうな声をしていた。どうしてお前がそんな必死なんだよ、って疑問は、すぐに霧散した。三郎の悲痛な声が、じんじんと俺を痺れさせる。通話が途切れた後も、俺の中では吹雪く咆吼に混じるようにしてその声が響いていた。それが答えだった。

「お前が来ないなら、兵助は私のものにする。いいな、だから早く来い」



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