※竹久々前提の鉢→←久々。



水気を含んだ重い木戸を押せば、きぃ、と俺の存在を思ったよりも大きく告げた。そ、っと覗くだけのつもりだった。もし他の客がいなかったら、そのまま帰ろう、そう思っていた。けど、カウンターにいた三郎はその音に顔を上げてしまって、俺はその場で木偶の坊のように突っ立っていることしかできなかった。いらっしゃいませ、と動き掛けた彼の唇は、少しだけ息を呑んで、すぐに代わりに別の言葉を送り出した。

「どうしたんだ? こんな雪の日に来て」
「ちょっと、寒かったから、な」
「どうせ、すぐアパートなんだから、帰って風呂にでも浸かりゃぁ早いのに」
「そのつもりだったんだけど、」

本当はそのまま真っ直ぐに帰るつもりだったのだ。三郎と棲むアパートに。いつものように静かな夜を過ごすつもりだった。けれど、昼頃に降り出した雪はだんだんと酷くなり、帰る頃には交通機関の一部に影響が出るくらいの降りようになってきた。どんどんと降り積もる雪に、そのまま音のない世界に閉じこめられそうな気がして、俺はどうしてもあのアパートに帰る気にはなれなかった。淡い光が俺を出迎えてくれる、あの部屋で、たったひとりになるのは嫌だった。

(ひとりでいるには、あまりに淋しい)

路地裏のバーを独りで切り盛りしている三郎と単なる会社勤めの俺とでは生活の時間帯が真逆だった。俺が朝に家を出る頃に三郎は眠りに就き、俺が帰る頃には三郎はとっくにバーに出ている。すれ違うだけの毎日の中で、それでも、俺は三郎の不器用な優しさを感じていた。

(あまりに不器用すぎて、分かりづらいけど)

たとえば、その一つが、玄関の灯りで。いつも俺が帰宅すると必ず玄関の中の灯りは付いていた。けれど三郎がいるわけじゃない。三郎が部屋を出るときに、俺のために必ず点けていってくれるのだ。電気代がもったいないと主張した俺に「光が灯っているとほっとするだろ」そう口にしたっきりそっぽを向いてしまった三郎の耳は赤くなっていて、その時になってようやく三郎が照れてるんだ、って気が付いた。

(本当に分かりづらいよな、三郎は)

そんな風に、あのアパートには、三郎の不器用な優しさの欠片があちらこちらに転がっていて、そこに、今、ひとりで帰ることができるほど、俺は強靭くはなかった。

「まぁ、いいけど。座ったら」

俺が口ごもったことは分かっても、その理由までは悟られていないはずだ。そう思いながら、俺は三郎の勧めに従って中へと一歩踏み込んだ。照明が絞られた店は、けれども、温かみのある橙色の光によって優しく照らし出されていた。耳を掠めるほどの音量で流れているのは、ジャズだろうか。あまり詳しくはないけれど、名も知らぬ女性歌手は謳い上げる旋律は、どこか泣いているように聞こえた。

「雪、ひどかったのか?」
「あぁ」
「中からじゃ、全然、分からねぇものだな」

店には窓はあるが、中の温かさですっかりと曇ってしまっているようだった。

「雨と違うしな」

そうやりとりしながら、今更、コートに雪を乗せたまま入ってきたことに気が付いた。中の様子を窺うだけのつもりが三郎に見つかってしまって、入り口のところで雪を払ってくるのを忘れたのだ。このままでは溶けて床が濡れてしまう、と入り口の所に戻ろうとした俺を三郎が「どうせ、もう店じまいだから」と手で制した。

「けど、」
「いいさ。どうせ、今日は雪で床がべたべただからな」

そうやって言われて足下を見れば、確かにこびり付いた泥で描かれている靴型の模様がいくつかある。俺が歩けば、きゅ、っと床が鳴った。すっと伸びる水跡。こんなにも乾いていないということは、つい、さっきまで誰か別の客がいたということなのだろうか。

(だとしたら、タイミングがいいと言うべきなのか、悪いと言うべきなのか)

俺はできるだけ雪を含んだ面が内側になるようにしてコートを畳み、空いている隣の椅子に掛けさせてもらった。それから、カウンター前に座る。ウィスキー用のグラスを用意しつつ「何、呑む?」と訊ねてきた三郎に、「悪ぃ。今日は呑まない」と断りを入れる。バーなのだから何か言ってくるかと思ったけれど、ヤツは肩眉を上げただけでなにも言わなかった。そのまま奥に向かい、コンロのヤカンに火を掛け、スツールを開けるとインスタントココアを手にした。------------それは、あの日とそっくりな光景で。思わず俺は「三郎」と呼び止めた。ココアを入れようと棚からマグカップを下ろそうとしていたその背中に「話があって来たんだ」と告げる。振り向いた三郎は、ひどく静かな目差しを俺に向けていた。

「……別れよう、そう言いに来たんだろ」

三郎と付き合うきっかけとなった日も、こんな風に雪の深い日だった。



***

びっしりと結露で埋まったグラスを傾ければ、ぐるり、と薄まった琥珀が僅かに色めいた。すっかりと溶けてしまった氷は救助待ちのボートみたいに頼りなさそうにアルコールの湖面を漂っている。そのままグラスを少しだけ呷れば、仄かに蕩けるような香り付いた水が喉を通り抜けていった。

「お前、そんな不味そうな飲み方するなよ」

グラスをコースターに戻せば、呆れたようにも不機嫌のようにも取れる面持ちの三郎に文句を言われた。もう味なんて分からなくなった舌で「どう呑もうと俺の勝手だろ」と言い返す。グラスの周りに着いていた水滴が指を濡らしていて、ひどく、寒かった。

「ちゃんと呑まれない酒が可哀想だ」
「あそ。なら、もう一杯、同じのくれ」

絡んでいる、という自覚はあったけれど、それを止めることができなかった。三郎は俺をちらりと見遣っただけで、グラスを引き下げた。しばらくすると、さっきよりも、ずっと深い密色が満たされたグラスが戻ってきた。何も言わずに俺の前にそれを奥と、ヤツは横の扉からカウンターの外に出てきた。

「兵助、もう店、閉めるぞ」

それで最後にしろ、ということなんだろうか。最後。このまま最後にできたら、どれだけ楽だろうか。一気に呷る。喉咽がアルコールの熱に噎せた。きゅ、っと絞られる視界が、ぐらり、と揺れる。俺にそう言い残すした三郎は、入り口のドアから外に出て行った。外にある看板でも片付けにいったんだろう。コンセントで繋いである看板を中に入れるのが、閉店の合図だった。カウンターテーブルに転がてあった携帯を手にする。少し触れれば、薄暗い店内にぼんやりと数字が浮かび上がった。2:34。もう電車もとっくの前に終わっている時間。このまま待っていても、ハチが来るとは思えなかった。

(けど、『行けない』とは言ってなかった。だから……)

***

馬鹿がつくほど正直すぎるハチと別れて一ヶ月。彼から「三郎の店で待ってる」というメールが入ったのは昨日のことだった。雪が降り出して、天気予報が夜遅くまで降り続ければ交通網が麻痺するかもしれない、と伝えていた。数日前の、とある県で車が立ち往生したり電車で閉じこめられた人たちの映像が使われ、同じような可能性がある、とアナウンサーが告げていた。それでも、迷いもなくこの店に来たのは、ハチへの未練が残っていたからだ。ハチが歩み寄ってくれるなら、もう一度やり直したい、そう思っていた。

(なのに……)

ハチは来なかった。いや、正確に言えばまだ来てなかった。約束の時間は8時。その15分前には俺は店に入って、カウンターの一番隅の席を陣取った。ここからなら、一番、通りが見える窓に近いから、歩いてくるハチが見えるだろう、そう思って。けれど、結局、そのうちに風によって雪が窓に吹き付るのと中との気温差で窓が結露して曇ってしまい、あまり見えなくなってしまって、俺は窓に背を向けると身体を捻り、入り口に向けて待った。それでも、ハチは来なかった。

(ハチ……来るよ、な?)

俺たちのことをよく知っている三郎の店だ。顔を出したときに嬉しさのあまり「ハチもそのうち来るから」と告げてしまったがために三郎は俺がこの店に来た理由を悟ったのだろう。グラスを出すときに「うまく話がまとまったら、私に奢れよ」なんて言われた。

(それが、今じゃ遠い昔のようだ)

三郎が「もう来ないんじゃねぇの」と言い出したのは9時を回った頃だった。雪が酷くなってきたのだろう、俺が店にいた頃は数人いた他の客もそそくさと引き上げていき、バーの中には俺のグラスの氷が溶けて崩れる音とスイングする音色だけが響いていた。

「来るだろ。きっと、雪か何かで遅れているだけだ」
「電話かメールで遅れる、って連絡が来たのか?」
「……いや」

恐かった。連絡を取るのが。これで、もし『やっぱり会うのを止めておこう』とか言われたら、どうすればいいのか分からなくなってしまうから。ハチの言葉は正直だ。それが絶対になってしまう。そうなってしまうかもしれない、と思うと、どうしても携帯を手にすることができず、俺はポケットに機器を眠らせていた。俺の態度に不満を持った三郎に言われる。

「すればいいのに」
「まぁ、けど、雪以外に理由、考えられないし」

雪で来るのが遅れているだけだ。そう信じて待っていたかった俺は、室温に溶けてしまった一杯目のグラスに口を付けた。そして、そのまま一気に、傾けた。アルコールごと、余計なことを考えてしまう感情を灼き尽くしてしまいたかったけど、もうそれは水っぽくなってしまっていた。

(ハチ、来るよな……)

***

どれくらい時間が経ったのだろう、ぼんやりとした頭では時間の概念が曖昧になっていた。けれど、それほどは経っていないのだろう。氷がまだしっかりと残っている二杯目のグラスを持て余していると、不意に、携帯が震えた。メールの受信。もしかして、という不安とも期待とも言い難い感情が、まるで息巻くアルコールのようにぐるぐると俺の頭をかき混ぜる。恐る恐る開いてみれば、それはハチからで----------あぁ、と俺は声を漏らしていた。聞きつけた三郎が視線を寄越す。

「ハチから?」
「あぁ」
「何て?」
「やっぱり雪のせいだった」

メールには、雪のせいで電車が止まってしまったことと遅くなってしまったことを詫びる文面が並んでいた。実直なハチらしく、たくさんの謝罪が綴られていた。けれど、俺の気持ちはそこじゃなくて、最後まで読んでも一言も書かれていないことにあった。『行けない』という文字は、一回もでてこなかった。

(実直なハチのことだ。『行けない』と書いていない、ということは、きっと来てくれるのだろう)

そう信じて俺は「もう少しだけ、ここで待たせてくれないか」と三郎に告げた。彼は少しだけ昏い目差しを俺に向けて「別にいいけど」と呟き、それから踵を返した。その背中に俺は「ありがとう」と礼を述べた。三郎は黙ったままだった。

***

(もう、それからずいぶんと経つのにな……)

外から戻ってきた三郎の冷たそうに赤黒くなった手には看板はなかった。俺が「店、閉めないのか?」と訊ねたけれど、三郎は何も言わなかった。そのまま、また俺の隣を通り抜け、カウンターの中に入ってしまった。そのまま三郎が奥のスツールを開ければ、インスタントのココアが出てきた。アルコール用のグラスばかりが並ぶ棚から数少ないコーヒーカップを降ろすのを見て、相当寒かったからココアでも飲むんだろうか、なんてぼんやりと見送り、俺は空になってしまったグラスを三郎がいるキッチン側に少しだけ押した。

(数分だけであんな冷えるだなんて、ハチは、大丈夫なんだろうか)

今ごろ、まだ、どこかの電車に閉じこめられているのだろうか。だとしたら寒くないのだろうか。心配で心配でたまらない。状況を知りたかった。今すぐにでも会いに行きたかった。けれど俺の指は携帯に触れた瞬間に凍り付いてしまって動かなくなり、身体は吸い付いたみたいに席から離れることができなかった。ハチと連絡を取るのが、会うのが、恐かった。できるのは、ただただ、カウンターに置いてある携帯電話を眺めることだけだった。

「ん」

ふ、と甘ったるい香りがして、俺は顔を上げた。さっきのコーヒーカップを携えていた三郎がそこにいて。カップをそっとカウンターに降ろすと「ハチを待つんだろ」と俺の方にそれを寄越した。俺を見遣る三郎の目は哀れみとも馬鹿にするのともからかうのとも違った。白が降り積もった雪原のようなとても静かな目をしていた。

「好きなだけいれば」

そっとカップに手を伸ばす。凍っていた指が、心が、解けていく。泣きそうになったのは、ココアのせいだ。ココアから昇る淡い淡い湯気が俺の目に当たって、潤していくからだ。こぼれ落ちそうになる涙を、ぐ、っと堪える。-----------泣きたくなんか、なかった。

「雪だから仕方ないよな」
「雪じゃなかったら、あいつは来たのか?」
「っ」

一番痛いところを、突かれた気がした。ぐ、っと、息の底を押し込められる。言葉が出ない。苦しい。辛い。俺の息の根を止めたまま、三郎はまだ言葉を投げつけてきた。抉ってくる。「私だったら、雪が降ろうが何をしようが絶対に来るけどな」と。息が絶え絶えになりながらも「けど、ハチだって雪の中を向かってるかもしれない」と反論する。すると、くしゃり、と顔を歪めている三郎は今にも泣き出しそうだった。泣きたいのは俺の方なのに。

「もう雪は止んでいた。そんなに積もってない……それでもハチは、来なかった」

それがどういうことか分かるか、と三郎に問われているような気がした。事実が、感情が追いつかない。狂い荒れた吹雪だ。雪は止んでいた。積もってない。ハチは来なかった。ハチはハチの意志で来なかった。分かる。痛いほど分かっている。けど、分かりたくない。だから、もう止めてくれ。これ以上、言わないでくれ。そう叫びたい、

「ハチは来なかったんだよ、兵助」
「……何で、そんな事言うんだよ」

何で。何で。何で。その言葉だけが俺の頭の中をぐるぐる回っていた。

「お前が馬鹿だからだよ」
「そんなこと分かってるっ」

拳ごと打ち付けた感情。テーブルのカップが跳ね、がしゃん、と音を立てた。けど、それはどこか遠かった。ぐるぐると気持ち悪い。アルコールのせいだ、きっと。泣きたくなったのも、全部全部。ぐ、っと瞼と腹に力を入れる。喉が震えた。本当は、心のどこかで分かっていた。もうハチは来ないだろう、って。雪のせいじゃない。雪が降らなかったとしても、きっと、ハチは来なかった。三郎に指摘されなくても、分かっていた。けど、でも、

「……そんなこと、分かってるさ」

けど、それでも待っていたかった、そう言おうした瞬間、

「っ」

唇に押しつけられた、灼けるような熱。----------三郎にキスをされていた。ぼろり。涙が頬を濡らす。

「な、にすんだよ」

頭の中がぐしゃぐしゃだった。気が付けば、パン、と切り裂くような音が耳元で跳ねていて。頬を赤くした三郎が、そこに立ち尽くしていた。叩いてしまった。その掌がひりひりと、痛い。それよりも、もっと、俺の中の奥深くが軋み瓦解していく痛みに引きちぎられそうだった。

(何で、ここにハチはいないんだろう。何で傍にいるのは三郎なんだろう)

「悪ぃ……けど、頼むから、ひとりで泣くなよ」
「っ」

手を、そっと重ねられた。温かい。さっき、淹れてくれたココアみたいだ。心が、緩んでいく。ぼろり。あんなにも堪えていたはずなのに。このままじゃ、涙腺を壊されそうだった。ぼろり。ぼろり。ずっと抑え込んでいた感情が、想いが、ぐしゃぐしゃのまま溢れかえってしまっていた。ぼろり。ぼろり。ぼろり。ハチと別れ話をした時ですら、一回も涙は出なかったというのに。

(----------何で、俺は、三郎の前でなら泣けるんだろう)



***

しゅんしゅん、と、いつしか聞こえてきた湯が沸く優しい音が、俺たちの沈黙を繋いでいた。三郎に用件を言い当てられてしまった俺は、何も言えなかった。ただただ、その場で、三郎から罵られるのを待つことしか、できなかった。けれど、三郎もまた何も言わなかった。俺をしばらくじっと見ていた三郎は、ふ、と諦観したように笑うと、コンロの火を止めた。

「何で、って----------まぁ、理由は一つだわな」
「ごめん」
「何で兵助が謝るんだ?」
「……三郎の気持ちを分かってて、甘えた。俺はずるい」

あの夜、俺は三郎に手を重ねられながら泣き続けた。涙が涸れてしまうんじゃないか、って思うくらい泣いて泣いて泣いて。そうして、外の雪が朝の光に溶け出す頃、俺は三郎と二度目のキスをしていた。不思議と嫌じゃなくて----------冬が終わる前に、俺は正式に三郎からの告白を受けて付き合いだした。

(けど、どうしてもハチのことを忘れることはできなかった)

いつも心のどこかにはハチがいて、三郎と一緒にいて笑っていても、ふ、とした拍子にハチの面影が浮かび上がる。ハチだったらこう言うだろう、とか、ハチだったらこうするのに、とか。比べるなんて最低だ、と分かっていたけれど、心がハチを求めてしまっていた。

「別に、それは謝る事じゃないだろ。普通のことだ」
「けど、やっぱり、俺はずるい」

ずるずると三郎の優しさに甘えて、流されて。それでもいいかな、と思うこともあって。けれど、今日、この降りしきる雪の中、歩いて三郎の店にたどり着いたとき気づいてしまったのだ。-------------あの夜、私に足りなかったものがなんだったのか、に。

「……ずるいのは、私も一緒さ」

どういうことなのだろう、と見遣れば三郎はくしゃりと顔を歪めた。

「あの日、雪が止んだ、って嘘を吐いた。本当は大雪だったんだ。たぶん、まだ電車は動いてなかった。来なかったんじゃない。ハチは来れなかったんだ。……いや、違うな。やっぱり、来なかった、だな」

ひとり自己完結したように呟くと、三郎はますます苦しげに俺を見ていた。

「ハチから『兵助、まだ店にいるか?』ってメールが来てて、私は『もう帰った』って嘘を吐いたんだ。すまない。何回謝っても謝りきれるものじゃない」

驚いた。あの夜、そんなことがあっただなんて。三郎お得意の冗談なんじゃないだろうか、と思わずにはいられなかった。けれど、それは嘘じゃなく本当のことなんだろう、というのも心のどこかで分かっていた。きっと、三郎がハチにそうメールしたのだろう、と。だからハチはバーに現れなかったのだ。三郎のせいで、俺はハチと会えなかった。----------それなのに、不思議と怒りは沸いてこなかった。黙っていた俺に三郎は、そっと訊ねてきた。

「……あの日、雪が降らなければよかった、って思ってるだろ?」

どうしてだか、俺はその問に答えが見つからなかった。三郎に真実を告白されたというのに。

「……今、雪が降らなければよかった、とは思っている」

俺は考えて考えて、そう答えた。今夜、雪が降らなければ、そうでなければ、きっと、今ごろ俺はあの温かな光が灯る家で静かな夜を過ごしていただろう。ぼんやりと三郎のことを考えながら、穏やかな眠りに就いていただろう。きっと、別れ話にはならなかっただろう。けれど、雪は降ってしまった。----------もう、戻れない。

「私は酷い男なんだぞ。お前を手に入れたくて、最低の嘘を吐いたんだ。怒ってもいいんだぞ、罵っても叩いても。それだけのことをお前にしてしまった。本当にずるい男なんだ」
「知ってる。……けど、優しいってことも、知ってる」

は、っと息を飲んだような面持ちのまま三郎は俺を凝視していた。

「あの夜、最後まで看板の灯りを消さずにいてくれたことも、俺にココアを入れたくれたことも、泣いている俺にずっと胸を貸してくれたことも。……あの夜だけじゃない。朝、起きたら、布団がちゃんと掛けてあったり、帰ってきても不安にならないよう家の灯りを付けて置いてくれたり、寝ている間に手を繋いでくれていたことも、知ってる」

ずっとずっと俺は不器用な優しさに守られていたのだ。それこそ、かまくらのように、すっぽりと包み込んで、吹き荒れる雪の中で凍えないように、三郎は俺を守ってくれていたのだ。-------------それが、どれほど温かく、そして俺に勇気を与えてくれたことか。

「ありがとう、三郎」

俯いた三郎の表情は見えなかった。けど、見たら、また流されそうになる気がして「じゃぁ、もう帰るな。……雪がひどくなって、帰れなくなると困るから」と俺はコートを手に取った。いつの間にか雪は溶けてできた滴は、まるで、涙のようだった。

「……あぁ。気をつけて」
「さようなら」

俺は別れの言葉を告げると、三郎に背を向け、入り口へと向かった。そこで水滴に濡れたコートを羽織る。外は、寒そうだ。木の扉を引けば、ぎぃ、と重たさに軋んだ。下の木枠を見れば、ずいぶんと湿っている。そのまま店から出て顔を上げて、

(あ……止んでる)

この店に来るときにあんなにも降っていた雪は、いつの間にか止んでいた。しん、と全ての音を吸い込んだ白銀の世界は、透き通るような月の光に照らし出され、きらきらと光っていた。綺麗で綺麗で-----------綺麗すぎて、苦しいくらい泣きたくなった。

「三郎」

気が付けば、俺はその場で振り向いていた。三郎は俺を、じ、っと見ていた。今なら、まだ戻れる。別れの言葉を取り消すことができる。そう分かっていた。けれど、俺の口から出てきたのはやり直しを求める言葉ではなく、別のものだった。

「あの日、雪が降らなければよかったか、って三郎、聞いたよな」
「……あぁ」
「あの日、雪が降ってよかった、って今は思う」

半分ずつ、半分ずつ近づいていっているのに、決して辿り着くことができなかったのは、その半分を越える一歩を踏み出すことを恐れていたから。あの夜、ハチを待ち続けずに、自分から会いに行けばよかったのだ。けど、実際は、会いに行くことどころか、ハチにメールも電話もしなかった。何もせず、ただただ待っているだけだった。それだけの勇気が出なかった。------------だから、離れてしまったのだ。

「あの夜のことがあったから、三郎がいてくれたから、俺は一歩を踏み出すことができた」

あの夜、足りなかったのは、一歩を踏み出す勇気。けど、今なら、その半分を越える一歩を踏み出せる気がした。今更かもしれない。ハチにとっては迷惑なことかもしれないし、もう俺の事なんて忘れているかもしれない。けれど、俺はもう一度ハチに会おうと決めていた。---------------まだ、伝えてない想いがあるから。

「ありがとう、三郎」
「……がんばれ」

朝になれば、今、積もっている雪も溶け出すだろう。三郎が帰るその頃には、俺はあの家を出ているだろう。あの、淡く優しい光が灯っているあの家を。ぎゅ、っと涙に押しつぶされそうな胸を抱えながら、俺は祈った。どうか、これから、この不器用で優しい人が、倖せになれますように、と。そうして、俺は一歩を踏み出した。



ゼノンの逆説



+++
ツイッターでかのこさんとはれこさんと盛り上がった竹久々前提鉢久々ネタ。
かのこさんのサイトには、素敵な三郎視点の漫画がありますので、ぜひそちらも^▽^
タイトルもかのこさんより。ありがとうございました!!


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