愛してる。----------------------だから、さよなら、だ。



L o v e s i c k n e s s
〜恋をすると、死んでしまう〜



「っ……兵助、」

息をすることすら、忘れた。白昼夢よりも確かに、現実よりも危うい場所にあいつがいた。兵助が。もう、二度と会わない、そう決めていた。この身が朽ちる瞬間までこの地からひっそりと想い続けていこうと、そう決めていたはずの兵助が、今、俺の前にいる。けれど、駆け寄って抱きしめることも、冷たく無視することもできなかった。向こうもこっちに気付いたのだろう、彼の唇が小さく俺の名を綴るのが分かった。

「ハチはん、どちら様?」

抗いようのない力に動けずにいた俺たちの沈黙を、投げつけられた凶言が切り裂いていく。は、っと顔をそちらに向けば、彼女の瞳は獲物を見つけた時のように獰猛な輝きを湛えていた。こいつに兵助の存在を知られるわけにはいかない、と「……あっちの同級生」とできるだけ淡々と答える。まるで、その言葉を俺に言わしたかったかのように、満足げに、彼女が喉を鳴らしたのが分かった。

「そう……あら、ご挨拶を忘れていたわね。初めまして。ウチはハチはんの婚約者ですの」

艶めかしい笑みを刻みこむと、それから、しばらく、兵助たちへと視線を穿ち続けていた。爬虫類のように乾いているくせに、ぎらりと脂ぎる光が宿る目。それは、まるで獲物を前に舌なめずりをしているかのようだった。舐めるように兵助たちを見回していた彼女は、声に出さずに、哂った。そして、俺の腕に絡みつかせた手を放し、兵助に一歩近づく。

(な、んで……?)

戦慄が、ぞわり、と這い上った。具体的に兵助の名を彼女の前で出したことはない。こいつから隠し通さなければ、と必死にその痕跡を消し去ったはずだった。それがせめてもの、償いだった。俺が兵助にできる数少ないことだった。なのに嗅ぎつけられた。ぐるぐるとその事が回っている俺を無視して告げる。

「ハチはん、うち、先行きますわ。何や、積もる話もありますやろし」

ほな、と彼女は四人に頭を下げると気持ち悪いくらいの笑顔で俺に近づいて、耳を食むような距離で、「あっちに行きたいなら、何やご自由に」と俺に囁きかけてきた。哂った、瞳。絡みつく、息。背中を這う、指先。ぐらぐらと揺れる脳髄に楔のように打ち込まれる言葉。

「けど、ハチはんは、絶対、ウチの傍に戻ってくるで」

予言、極上の笑みを残して、彼女は立ち去った。



***

つむじ風のごとく勢いのある彼女が立ち去り、とたんに気まずさが沈澱する。

「僕たちも、先行ってようか」

硬化していく空気を何とか打ち止めようと微笑む雷蔵に兵助が「ごめん、三人とも。ありがとう」と続けた。それを見ていた勘右衛門は感情の色を浮かべることなく頷き、さっきからずっと俺を睨みつけてきている三郎の肩を雷蔵が宥めるように叩く。すると、「……分かったよ」と三郎は嫌々呟いた。

「さっきのタクシーを降りた所で待ってるから」
「あぁ」

俺と兵助を残して立ち去ろうとしていた勘右衛門が、突然踵を返したかと思うと、俺の名を呼んだ。

「ハチ」
「……何だよ」

掴みかかられた、と思った瞬間には、乾いて色の失われた宙が見えて。そのまま、地面に叩きつけられていた。痛みよりも先に熱さが走る。兵助の悲鳴が劈くのを、そうして彼が俺の方へと駆け寄ってくるのを、どこか遠くのことのように感じていた。

「お前、最低だよ。あの時の約束、忘れたって言わせない」

今にも切れてしまいそうなほど深く噛みしめた勘右衛門の唇は怒りに震えていた。俺は何も言えなかった。言い返すことなんて、できなかった。殴られて当然だ。俺はそれ以上のことを兵助に強いているのだから。俺の事を想い、必死に勘右衛門のことを止めようとしている兵助をあんなにも傷つけてしまった。あんなにも泣かせてしまった。不幸せにしてしまった。-------これくらいの報いは、当然だ。

「雷蔵っ、」
「悪いけど、今回は僕もそう思うよ」
「勘右衛門が殴らなければ、殴る所だった」

殴ってくれればよかった。酷い言葉を浴びせてくればよかった。勘右衛門や雷蔵や三郎だけじゃなく、兵助も。そうしたら、俺はもう何も未練なくこの場を去ることができた。兵助が俺の事を恨んで、嫌いになってくれれば、それでよかった。そうして俺の事なんか忘れて倖せになってくれれば、それで。

「勘ちゃんっ」

(なのに、なんで、俺の事を庇うんだよ)

俺へと叩きつけられた勘右衛門の拳に兵助の悲鳴が重なる。もう一発、火花が散るのを覚悟した。けれど、寸での所で空気を破っただけだった。そのまま、ふわり、と優しく咲いた掌は兵助の頭を包み込んだ。泣いているような声だった。

「兵助、言いたいこと、ちゃんと全部言ってきなよ」



***

「ハチ、大丈夫か?」

駆け寄ってくる兵助に勘右衛門の言葉が重なる。最低だ。頭の中で、何度も何度も反復させる。俺は、最低だ。最低だ。最低だ。最低だ。近づいてきた指先を、避ける。…兵助に優しくされる資格なんて、俺にはない。そう、思いこまなければ、そのまま甘えてしまいそうだった。温かく差しのべられた兵助の優しさに。

(頼むから、もう、放っておいてくれ)

軋む胸に押しつぶされ粉々になってしまいそうな叫びを、それでも、何とか口にする。精一杯、冷たく聞こえるように、と兵助から目を逸らし低い声で拒絶の言葉を。「……何で、来たんだよ」と。口にした途端、ひんやりとした哀しみに痺れる。哀しむ資格すらないってわかっているのに、それでも、なお。

「何でって…」
「俺ら、別れたんだろ」

愛している。--------------------------だから、別れたい。これ以上、一緒にいた所で、俺は兵助を倖せにすることはできない。きっと傷つけ泣かせるだけだろう。どれほど愛していても、俺の存在が兵助を不幸にしてしまう。それだけは嫌だった。兵助には笑っていてほしい、倖せになってほしい。だから、さようなら、だ。

「俺は、別れたくない」

真っすぐに向けられた兵助の言葉に心が叫ぶ。本当は別れたくない、離れたくない、と。けど、俺は知ってる。この恋の結末を。あの日、黒と白で構成された世界。『かげろう』という禍々しさ。そして、独り取り残された母の背中。---------こんなにも愛しい兵助を、不幸にすることなどできない。

「なら、嫌いになったって言ってくれ。大嫌いだって。そうでないと、別れられない」

今の俺に唯一できること。兵助のために、俺が最後にできる、たった一つのこと。俺の事を嫌いになって、憎んで--------忘れてほしい。竹谷八左ヱ門という男のことなど。そうして、倖せにしてくれる奴と共に生きていってほしい。ただそのことだけを希い、俺はその言葉を口にした。

「嫌い」

背けられた兵助の背中が、泣いていた。--------それを見た瞬間、何もかもが、頭から吹っ飛んでいた。母の言葉も、彼女の忠告も。過去も、未来も……現実すら、なかった。あれほど心に刻みつけた『俺以外の奴と倖せに』そのたった一つの願いでさえも。

「……じゃない」

ただ、愛しさだけが、そこにあった。

「は…ち…?」
「嫌いになんか、なれるはずないだろ」

ぎゅ、と兵助を抱きしめる。愛しさに震える胸に兵助の呟きが落ちた。「……なら、どうして? さっきの人と関係あるのか?」と。どう伝えれば兵助を傷つけずにすむだろうか、と、ただただ迷いの中で蘇るのは、まだ、何も知らなかった頃のことだった。『ずっと二人で生きてく』そう無邪気に信じていた、ほんの少し前の頃のことを。



***

「将来の夢、なぁ」

薄い青のラインが入った薄い小さな紙の上に、さっきから迷っていたシャーペンを放りだした兵助は、そのままトントン、と指で机にリズムを刻んでいた。彼の溜息でいっぱいになった紙を何につかうのか(というか、そもそも自分に関係あるのかすら分からねぇし)と、顔を上げた兵助に、問う。

「何だっけ、これ?」

「ハチ、ホームルーム、寝てただろ。将来の夢について、書くんだって。来週、提出だとさ」
「進路のじゃねぇのか?」
「あぁ、文集に載せるやつだって」

1年生で初めて作った時は「今時文集なんて」となんて叩いていた連中もいたけれど、実際、出来上がったものを見れば、皆、照れくさそうに「悪くないな」とごちた。思い出話だけじゃなく、ランキングや青春の叫びコーナーみたいなのがあって。そのくだらなさが、どこか、よかった。懐かしむのは年老いたものだけがするものだ、と自分の性分には合わねぇが、きっと、心のどこかで感じているのだ。繰り返しの毎日の中にある今という一瞬の尊さを。だから、

「面白いものを期待してるって」
「え?」
「去年のお前のさ、爆笑ものだったろ。文集委員が言ってた。俺も楽しみだ」
「うわ、ハードル上げるなよ」
「そう言いつつ、唇が緩んでますけど。本当は好きなくせに。いいよなぁ。俺は苦手だ、こういうの。夢かぁ」

真面目に書きすぎるのもなぁ、とぼやく兵助から俺は彼の用紙を奪って「夢なんて決まってるだろ」と転がってたシャーペンを掴むと、兵助に止める暇の与えずに書き込んだ。『ハチと結婚』って。すぐさま、焦った声が突き刺さった。

「おぃ、ハチ!?」

慌ててペンケースを漁る兵助に、きっと消しゴムを探してるのだろうと、彼の手首を掴んで「そんなに嫌がらなくてもいいだろ?」とわざと嘆きを強調するような声音を投げかければ、彼は抵抗することもなく動きを止めた。けれどその問いに答える仕草もなく黙ってしまった兵助に、さらに問いを重ねる。

「兵助は俺と一緒にいたくないんだ?」
「そ、そうじゃなくて」
「じゃぁ、それでいいだろ? 俺は兵助とずっといることが夢なんだけど。兵助の夢は?」
「俺は……俺は、温かで倖せな家庭を気付くことかな。平凡だけどさ、朝、目が覚めたら隣に大切な人がいて、一緒にご飯を食べて、くだらないことで笑ったりしてさ、時には喧嘩もしたりして、そういう家庭を作りたい……もし、それがハチとだったら、一番倖せだけど」

途中からぼそぼそと早口に呟いた兵助は、照れているのか耳の辺りまで薄紅に染まっていて、あまりの愛しさに俺は「ならさ、一緒に叶えよう」と口づけを零した。



***

結局、その年の文集に、それはそのまま載った。周りにははやし立てられ「このバカップルが」って三郎らには呆れられたけど。まだ、何も知らない俺たちは無邪気に笑って過ごしてた。---------------涙が出るほど、倖せすぎる過去。あの時は、こんな日が来るとは思ってもいなかった。

(兵助、ごめんな。その夢、叶えることができなくなってしまって)

す、っと吸いこんだ空気が含む冷たさの礫でさえ誤魔化すことのできない痛みが胸に広がっていた。

「……俺、もう、永くないんだとさ」

ずっと兵助の傍にいたい。本当は、別れたくなんかない。できるなら、死の、その瞬間まで、一緒にいたい。この瞬間、俺は、どんだけ兵助を傷つけているのだろうか。きっと、痕が残るくらい、大きく深く、兵助の心を抉っている自覚はあった。けど、ここで、もし別れなかったら、この先、今以上に兵助を傷つけてしまう。

(-----兵助を不幸にしてしまう。きっと)

「もうじき、死ぬんだって」

冗談にすら聞こえる言葉を、兵助は黙ったまま聞いていた。さっきまで俺に深く食い込むほど真っすぐに向けられていた瞳は、僅かに逸らされて。それに、俺の選択が正しいことを知る。これでいいんだ、と。後悔なんて、とっくの昔にしていた。けれど、それ以外に方法がなかった。ずっと笑っていてほしい。夢をかなえて、倖せになってほしい。

(愛してる。------------だから、さよなら、だ)

そう、思っていた。

「……絶対に、死ぬの、か?」

兵助の瞳が、俺を捕らえていた。さっきのとは、逸らされたものとは、全く違う視線。

「十中八九な」
「じゃぁ、俺は残りの一ニを信じる」

靭い意志の灯った、瞳。息が止まる。何も言えなくなってしまった俺に視線をぶつけたまま兵助は続けた。

「ハチの病気がどんなのかは分からないけど、けど、1パーセントでも生きる可能性があるのなら、それに掛けたい。ハチの代わりに死ぬことはできないし、全ての辛さを分かることはできないかもしれない。けど、俺は、ハチの支えになりたい。お前の辛さを分かち合いたいんだ」

「もっと辛い思いをさせるんだぞ。きっと傷つくだけだ」
「構わない。傷つくのも、苦しむのも怖くないよ。ハチと離れる方が、ずっと辛い」

真っ直ぐに透いた瞳が、俺を見つめていた。兵助にずっと笑っていてほしい。夢をかなえて、倖せになってほしい。あの日、自分が長く生きれないと知った日から、ずっとそれだけを希っていた。もう俺の手で兵助を倖せにできないのならば、せめて、この手で不幸にすることのないように、と愛しさを断ち切る覚悟をした。愛してる。------------だから、さよなら、だ。それが最善の方法だと思っていた。けど……

「ハチと一緒にいたい。一緒に倖せになりたい。ハチといることが、俺の一番の倖せなんだ」


 


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