「愛してる」その言葉さえあれば、頑張れる気がしてた。ハチを想う気持ちがあれば、靭くなれる気がしてた。



L o v e s i c k n e s s
〜恋をすると、死んでしまう〜



「……失礼しました、」

口から含んだ空気の冷たさは、ピリピリと咽喉を掻き切って体中に入り込み、すぐさま広がっていった。寒さのせいだろうか、それとも、ずっと掌に突き立てていたせいだろうか、皮膚に食い込んでいるはずの爪の感覚でさえ、はっきりしない。そのまま泣き崩れてしまいそうな自分を唇を噛みしめることで、ぐ、っと堪える。

「兵助?」

傍らにいた勘ちゃんが怪訝そうに俺を見遣っているのは分かっていた。何か言いたそうな視線を「帰ろう」と封じ込め、辞そうと腰を浮かせた。途端に「おぃ、兵助」と三郎が抗議の声を上げ「ハチに会いに来たんでしょ」と雷蔵がその言葉に追随した。けれど俺は再び「帰ろう」とだけ口にして、俺は勘ちゃんの服を引っ張って彼を立たせた。

「兵助……」
「帰ろう」
「いいのかよ、兵助。何のために、ここまで、」

それでもなお、苛々したように言いがかってきた三郎に「いいんだ」と、つい、怒鳴り声を覆いかぶせてしまった。予想以上に大きな声で、は、っと口を噤む。見ていた。三人とも。怒りを露わにした三郎も、おろおろと困っている雷蔵も、心配そうに眉を潜めた勘ちゃんも。一人ひとりの表情は違うけれど、その目は俺に問うていた。「これでいいのか?」と。だから、もう一度繰り返す。「いいんだ」と。

(だって、俺の存在がハチを苦しめるのだから)

「お騒がせしました、失礼します」

眉ひとつ動かさずにいたハチの叔母を名乗る女性にそれだけを告げ、俺は逃げるようにして部屋を後にした。ハチに会う理由がなくなってしまった今、一刻も早く、この地を去ってしまいたかった。ハチに会う前に、この決意がぐらつかないうちに。襖扉を閉めようとした瞬間、氷よりも冷たく冴えた呟きが、耳を掠めた。

「竹谷の男は蜻蛉」

(------------------------かげろう……?)



***

無言のまま案内に身を任せて歩き、玄関の外に出た。足の底から這い上ってくる冷たさは、あの部屋に、あの叔母の前にいた時と変わらなかった。ただ身を切るような寒風に髪の襟足がさらわれ、俺は首を縮こめた。今にも文句が滔々と零れ落ちそうな顔をした三郎は、ちらり、と背後を振り返った。俺もつられて視線をやれば、そこには深々と腰を曲げたまま一向に顔を上げようとしないお手伝いさんの姿があった。掠れた三郎の「行こう」という声に俺たちは来た道を歩き出した。ざくざくざく。霜柱が砕けた時のような、綺麗に均された砂利を踏みしめる足音だけ俺たちの沈黙を繋いでいた。どれくらい歩いたのか、その反響音が一つ減った。

「お前、どうするんだ?」

ざっ、と砂利を蹴り上げ、俺は立ち止った。顔を上げる。もう、お手伝いさんは影も形も見えない。

「どうするって……帰るよ」
「……本当にそれでいいのか?」
「だって、仕方ないじゃないか」
「けど」
「仕方ない……よ」

刺すような視線に俺は再び視線を落とした。無理矢理、唇の端を引き上げ、笑う。そうじゃなきゃ、崩れ落ちそうだった。現実という、圧し掛かる重みに耐えられなくて。口から零れ続ける息が眼前の景色を白く濁した。生まれては消え、消えてはまた生まれる。消して掴むことのできないそれは、くるり、くるり、と、永遠に終わることのない白昼夢のようだった。

(……いや、夢だったら、どれだけよかったか)

開いた掌には、さっきまできつく握っていたせいだろう、紫の爪痕がくっきりと残っていた。しんしん、と冷たい空気が重なっていく。押しつぶされる息苦しさに埋もれながら、俺たちは、ただ、歩いた。どこまで行っても変わらない深淵の森が、突き刺すように俺を見ていた。

「っ、」

不意に、勘ちゃんの喉が鳴った。目の前で規則的に動いていた雷蔵の靴が停止する。どうしたのか、と意識を浮上させ-------------鼓動が、止まった。白昼夢よりも確かに、現実よりも危うい場所にあいつがいた。ハチが。向こうもこっちに気が付いたのだろう、驚愕にまみえ見開かれた目が俺に向けられていた。

「はち……」

会ったら、絶対、駆け寄ろうと思ってたのに。怒って泣いて、文句の一つでも言ってやろうと思ってたのに。咽喉は何かに塞がれたみたい声を出すどころか、息をするのですら引っ掛かって苦しい。足はその場で影と共に縫いとめられてしまったようだ。------------その存在を見つめることしかできなかった。

「ハチはん、どちら様?」

永遠にも似た刹那、俺たちの凍りついた空気をかち割ったのは三郎でも雷蔵でも勘ちゃんでもなく、ハチの隣にいた女の人だった。俺の全く知らない彼女はハチの腕を絡め取り、艶やかな笑顔を撒き散らしていた。俺から視線を外したハチは、かといって、彼女を見るわけでもなく、目を伏せて呟いた。

「……あっちの同級生」
「そう……あら、ご挨拶を忘れていたわね。初めまして。ウチはハチはんの婚約者ですの」

ふふ、と含むような唇に見とれる俺の頭には彼女の言葉の半分も留まらなかった。『同級生』拒絶を孕んだ物言いが、彼女の『婚約者』って言葉よりも、痛かった。喉を鳴らして鈴のように笑いながら、しばらく俺たち四人の間に視線を行き来させていた彼女は、不意に、一歩だけ俺の方に近づいた。淵よりも遥かに深い、漆黒の双眸が射抜いた。冷血動物に舌を這われたような恐怖。寒気が、脊髄を流れ落ちた。

「ハチはん、うち、先行きますわ。何や、積もる話もありますやろし」

舐めるように俺を見遣った彼女は、妖艶さを深めた笑みを浮かべると身を引いた。それから、ハチに何かを耳打ちをすると去っていった。一瞬、ハチの顔が歪んだ、そう見えたのは気のせいなのだろうか。取り残された俺たちは、再び、沈黙に囚われる。

「僕たちも、先行ってようか」

三郎と勘ちゃんに宥めるような視線を向けた後、雷蔵が小さく微笑みながら提案をしてくれた。俺が「ごめん、三人とも。ありがとう」と礼を述べると、勘ちゃんは無表情のまま頷いた。まだ納得のいかなさそうな三郎の肩を雷蔵が軽く叩くと、ようやく三郎は「……分かったよ」と吐き捨てるように同意した。

「さっきのタクシーを降りた所で待ってるから」
「あぁ」

俺たちを残して背を向けた勘ちゃんが、不意に、振り返った。

「ハチ」
「……何だよ」

がっ、と骨まで響く鈍い音に、遠くで自身の悲鳴を聞いたような気がした。あまりに一瞬の事で、止める間もなく、ハチは殴られ地面に叩きつけられていた。ハチを殴った勘ちゃんは繰りだして赤く擦れた拳を抱え肩で息をしている。もんどり打ったハチに、慌てて駆け寄った。

「ちょ、勘ちゃんっ。……ハチ、大丈夫?」
「お前、最低だよ。あの時の約束、忘れたって言わせない」

まだハチを殴りかかりそうな勢いに慌てて「雷蔵っ、」と止めてもらうように目だけで縋ったけれど、雷蔵は息を詰めたような表情で「悪いけど、今回は僕もそう思うよ」と返される。三郎に至っては眉間を今までにない程に寄せ「勘右衛門が殴らなければ、殴る所だった」と言い出す始末だった。ただ、ハチは殴られた頬をさすることもなく、ただ、三人を見ていた。

「勘ちゃんっ」

またハチへと振り降りてきた拳は、けれど、寸での所で空気を破っただけだった。そのまま、ふわり、と柔らかく開かれた掌は俺の頭へ降りてきた。泣いているような声だった。

「兵助、言いたいこと、ちゃんと全部言ってきなよ」



***

「ハチ、大丈夫か?」

慌てて伸ばした手。指先が、冷たい空を切る。痺れたのは、寒さのせいじゃない。

「……何で、来たんだよ」

ハチは俺の手を使うことなく、立ち上がった。行き場の失った指を、ぎゅ、っと掌の中に押し込む。もう感覚なんてとっくに失われたと思っていたのに、ハチに振り払われた、その事実に痛みが増幅していく。からからに乾いた喉から何とか言葉を振り絞る。

「何でって…」
「俺ら、別れたんだろ」
「俺は、別れたくない」

愛してる。-----------------だから、別れたくない。そう思い、口にしたけれど、必死に縋りついた視線は、す、っと外された。朽ち果てた希望が、ころり、と地へもげ散った。もう俺を見ないハチに、俺は背を向けるしか、できなかった。

「なら、嫌いになったって言ってくれ。大嫌いだって。そうでないと、別れられない」

別れたくないのに。心は、こんなにも叫んでるのに。-----------行かないで、って。けれど、ハチがもう俺の事を想っていないのだとしたら、あの時の「愛してる」という言葉が夢だったのだとしたら、この想いを捨てなければいけないのだ、ということは覚悟していた。耳を手で塞ぎたいのを懸命に堪える。ふ、と背後から空気を食む音がした。

「嫌い」

胸が、軋む。ぎゅ、っと目を瞑った。空虚だけが、俺の中に取り残される。

「……じゃない」

ぎゅ。背中に、温もり。懐かしく愛しいハチの温もり。それがあれば靭くなれる、そう信じれる確かなもの。

「は…ち…?」
「嫌いになんか、なれるはずないだろ」

泣いていた。その言葉が、ハチの温もりが。愛しさに、世界が泣いていた。

「……なら、どうして? さっきの人と関係あるのか?」

抱きしめられた腕の中で振り返ると、視線が切り結ばれた。黙りこくったハチの視線は動いてないけれど、思考に目が彷徨っているのが分かった。降り積もっていく静けさに、耳が痛くなる。呼吸のたびに、冷たさに苛まれる。だんだん激しくなっていく動悸が、苦しい。けれど、そんな痛み以上にハチの表情は苦悶に満ちていた。

「……俺、もう、永くないんだとさ」

嘘、なんて言えなかった。ハチの眼差しは、どこまでも真っ直ぐで。その現実と真向かっている者の瞳をしていたから。噛みしめるように、「もうじき、死ぬんだって」とハチが呟いた。崩れ落ちてくる現実は、俺たちの手で支えるには、あまりに大きくて。俺は、何一つ、想いを言葉にすることができなかった。さよなら、とハチの瞳は告げていた。



「愛してる」
その言葉さえあれば、頑張れる気がしてた。
ハチを想う気持ちがあれば、靭くなれる気がしてた。

-----------------------------けど、それは白昼夢だったのかな?



 


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