俺の存在が、お前を苦しめていたのかな?



L o v e s i c k n e s s
〜恋をすると、死んでしまう〜



見慣れない景色が車窓の向こうを流れていく。タクシーの中は暖房が効いているはずなのに、すごく寒い。馴染みのない風景をずっと眺めていたせいか、見えているもの全てが思考の中に入ってきて、溢れんばかりの情報に目が回り、頭が痛い。ひどい圧迫感を感じるのは、どんよりとした鈍色の雲がすぐ頭上を覆っているからだろうか。今にも、そこから雪が剥がれ落ちてきそうな、暗い暗い空。

(ここがハチの育った場所、か)

話にしか聞いたことのない情景は、確かに前にハチが教えてくれたものと輪郭は変わらない。けど、そこに付けられた色は、なんだか違うような気がした。全てのものが息を潜めてこちらを見ているような、そんな居心地の悪さを覚える。

「兵助、お前、顔色悪いぞ」

前に座っていた三郎とミラー越しに視線が重なる。隣に座っていた雷蔵が俺の顔を心配そうに覗き込み「大丈夫?」と問うてきた。その反対側、勘ちゃんは俺の方に手を伸ばし、何も言わず、ぎゅ、と俺の手をきつく握りしめた。答えるように、握り返す。大丈夫、と。



***

「お客はんの言ってる住所だと、ここになりますね」

運転手のおじはんの白手袋が差した先には、俺の身長よりも高い壁とさらにその奥から木立がにょきりと顔を出していて用がなければ絶対に近づきたくない、そんな鬱蒼とした雰囲気を漂わせていた。人が住んでいるはずなのに、誰の気配も感じさせない屋敷だった。

「ありがとうございました」

車から降り立った瞬間、冷たい風が俺を出迎えた。刺されたとか切られたとか、そういった痛みじゃない。ただ朽ちていく意識の隅っこで、じくじくと居座るような痛みを覚えた。それと同時に、ぞわり、と膚を舐められたかのように浮き立つ粟肌が抱え込む恐怖-------そう、恐れを俺は感じずにはいられなかった。

「兵助、寒くない? 大丈夫?」
「ちょっと……けど、大丈夫。ありがとう、雷蔵」

ほんのわずかな隙間でさえも見つけて入り込む空風はあまりに冷たくて。時々翻るコートの襟をきちんと合わせ、中開きの状態だったボタンを留めなおす。どこから入ればいいのか、とぐるりと辺りを見渡す。そこに閉じ込めるかのように高く聳え立つ壁の中で一カ所だけ、切れている部分があった。他の三人と顔を見合わせ、無言のまま、そこへと足を向ける。どこぞの寺社のような大きな木の扉は頑なにその戸を閉ざしていた。柱の脇に、そこだけ真新しいインターホンをが浮いて見えた。そこに伸ばす指は、音を立てそうなくらい震えていたる。まるで他人のように、指先の感覚がない。

「本当にいいの?」

掠れた声が俺を絡め取った。声の主は、勘ちゃんは、ひどく痛ましげな表情を浮かべて俺の方を見つめている。曇天の空が映り込んだ彼の目に縛り付けられる。ごわごわと引っ掛かる咽喉を宥めながら「……いいって?」となんとかその言葉だけを口にした。

「泣く思いをまたしなくちゃいけないかもしれないよ」

勘ちゃんの言いたいことは痛いほどわかった。けど、

「もう、泣かないって決めた。大丈夫だよ」

正直、会うのは怖かった。けど、あの言葉の真意を確かめなければ、俺はどこにも進めない。それに、ハチを想う気持ちさえあれば、ハチのあの言葉があれば、自分がどんなに辛い思いをしても、苦しんでも、平気だった。

「兵助……」
「兵助が決めた事なら、何も言わないけど。それでも辛かったら、泣いていいんだからね」
「ありがとう、勘ちゃん、雷蔵。心配させて、ごめん、な」

目を閉じて、ゆっくりと息を吸い込む。一つ、二つ、三つ。それから俺は意を決してインターホンのボタンを押した。緊張に凝り固まった指が離れた瞬間に『はい』という割れた音が届いた。その速さに、鋭くてそれでいて重みのある声音に、一瞬、次の言葉が出てこない。話し口でもたもたしている俺を引き離す、手。三郎だった。

「お電話させていただいた、鉢屋です」

機械越しに息継ぐ間もなく、すぐさま『お入りください』という声と共に、ぎぃぃ、と扉が軋みながら、ゆっくり開いた。自分たち四人が横に並んでも、まだ、十分すぎるほどに大きな身幅の戸の向こうに広がる景色が次第に明らかになっていく。手前には美しく整えられた砂利。そこに飛び石が埋められていて、道しるべとなっている。その小道を囲むように、椿か何かだろうか、深緑の垣根が傍まで迫っていた。その経はすぐに曲がってしまって、先が見えず、どうなっているのか全く分からない。とても広い空間であるはずなのに、酷く窮屈なような気がした。

「兵助?」
「……大丈夫」

案ずる雷蔵の方に笑みを刻んでみたけれど、それでも、膝の震えは止まらなくて。今にも、足元から崩れ落ちそうだった。逃げ出したい、そんな弱気な自分を叱咤し、息を呑む。覚悟を決めた。氷が張り付いたような空の下、遮る垣根の向こうにハチがいるのかもしれないから。



***

ようやく行き着いた玄関の前には、お手伝いさんだろうか、着物を着た女性が出てきた。

「こちらへ、どうぞ」

無駄一つない流れるような所作で家の奥をさし示した彼女は、感情の色が全くない、それが隠されている気配もない、そんな面持ちをしていた。俺たちがお互いに視線を交わし会っている間に、お手伝いさんはさっさと中に入っていた。こちらに興味が一切ないのだろうか。とにかくその背中を見失わない様に慌てて追いかけ、いくつもいくつも廊下の角を曲がる。まるで、迷宮に、入り込んだようだった。

「奥様が、中でお待ちしております」

彼女は洗練された動作で床に膝を付けて座った途端、ふすまが、ぱしっ、と乾いた音を立てて開いた。すぐに見えた別の着物姿に、中からふすまが開けられたのだと分かったけれど、その美しさとあまりに時宜を得ていることに、演舞を見ているかのようだった。そのふすまを開け放った別のお手伝いさんからとは違う、真正面から穿つ視線。値踏みするような、あからさまなものが浴びせられる。その糸を辿れば、鶯色の着物を一寸の乱れもなく着こなした女性が、畳の上で正座していた。

「どうぞ、中へ」

びん、と琵琶の弦をはじいたような、凛然とした声に圧せられる。自然と逸らした視線で畳の縁を避けながら、中の座へと進む。強張る空気にぴりぴりと痛む頬を無理やり動かし、なんとか、「初めまして。久々知 兵助といいます」と挨拶を告げる。目の前の女性は「ハチはんから聞いてますわ」と口元を着物の袖で覆った。細められた三日月の目からも微笑んでいる、はずなのに、全くそんな風に感じられない。

「ハチの……ハチさんの、お母様で?」
「いえ。うちは、ハチはんの叔母ですわ。兄が、ハチはんの父親でして。……こんなことお聞きするんは失礼ですけど、久々知はんは、ハチはんの恋人ですやろか?」

“恋人”その言葉に、ハチの声が、笑顔が、温もりがよみがえる。それから、あの日の言葉も。と、やわらかな棘が、思い出したように疼きだした。別れよう、という言葉をまだ俺は了承していない。けれど、ハチの中ではもう別れた事になっているのかもしれない。しばし迷い、それでももしかしたら、と一縷の望みに縋りついている俺は、ためらいの後に小さく頷いた。

「ほなら、悪いことは言いやしませんわ。ハチはんに会わないでやってもらえませんやろか?」
「……え?」
「ハチはんは、今、出かけとります。もうすぐ戻ってきはりますやろけど……。ここまで来て頂いて、申し訳ありませんけど、会わんといたってください」

柔らかい微笑みを浮かべ、まろぶ言葉は謳うように優しい。幼子に向けられた子守唄のような、あやすような口調。けれど、そこに孕むものは、この地を支配する空気に似ていた。----------------拒絶された、冷たさ。言い返すことさえ赦されないような、絶対的な、もの。

「どういうことだよ」

あまりに圧倒的すぎる叔母の言葉に何も言えなくなっていた。そんな俺に圧し掛かった沈黙をなぎはらったのは、今までずっと押し黙っていた三郎だった。ゆっくりと、吐き出したその口調は、どこまでもいつもと変わらない淡々としたもので。けれど、睨め付ける目の虹彩は氷色にまで冷え込んで、髪の一筋一筋まで怒りに満ちているのが分かった。

「ハチはんを想うなら、もう、会わないでほしいとお願いしとるんですわ」

彼女は、ただ、俺だけを見つめていた。声を発した三郎ではなく、俺だけを。不満げに「その理由を教えてくれませんか」と援護する雷蔵や「意味が分からないんですが」と咎める勘ちゃんを一瞥することもなく。ただ、俺だけを見つめていた。

「あなたの存在が、ハチはんを苦しめるんどす」

嘘のない、瞳で。

(……俺の存在が、ハチを苦しめる)

消えてく意識の向こうで囁かれた言葉。「    」そこにあった僅かな希望が、朽ち果てていく。あの日から今日まで、俺を支えてきた言葉。その言葉があったから、どれだけ辛くても苦しくても、それでも、泣かないで頑張ろう、そう思った。どれほど苦しくても、自分のことなら我慢できた。自分が苦しむのは、平気だった。けど、--------なぁ、ハチ。俺の存在がお前に辛い思いをさせていたのか? 俺が、お前を苦しめていたのかな?


 


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