全部、君だった。俺を心から愛してくれたのも。人を愛することを教えてくれたのも。------------------------------全部、兵助だった。




L o v e s i c k n e s s
〜恋をすると、死んでしまう〜



初めてその話を聞いたとき、たちの悪い冗談だと思った。

「何、言ってんだよ、」

懐かしい存在へと変わっていたイントネーションで告げられたものは音でしかなく、意味を成すのにしばらく時間がかかった。いや、実際は音が言葉にすぐはなったけれど、そこにある含意が分からなかった。久しぶりに交わした親子の会話は、くだらないジョークのようだった。嘘だろ、って。驚愕とか絶望とかよりも先に、しゃれだろう、という感情が沸いた。それくらい、現実からかけ離れていた。

「なに、そのドッキリ。久しぶりに会ったかと思ったら」
「冗談やないんよ」
「冗談じゃないって」

乾いた笑いを飛ばしたけれど、母親は伏せられた目の翳りはどうしようもなく暗がりに転がっていく。周りが息をするのをやめた。

「……もう永くないんよ」

ただ、それだけを繰り返す母親は、真っ赤に目を腫らしていた。

***

「……どういうことだよ?」

ようやく振り絞った言葉は酷くへしゃげていた。口が、喉が、まるで自分のものじゃねぇようだった。潤んでいたはずのそこは、からからと乾燥していき、呼吸をするたびに何かがつっかえたような息苦しさを覚える。母親は俺の方に気を払うこともなく、視線を畳の目に落としたまま、囁くような小さな声で呟いた。

「竹谷の男は、蜻蛉って言葉、聞いたことあるやろ?」

俺にある一番最初の記憶は、今思えば、葬式だった。漆黒の葬列に、ぼた雪の白さ。意味も分からず、俺はぽつねんとその場で座っていた。無理やりさせられた正座が痛くて嫌だった。ぼそぼそ、這い登る戦慄。白と黒で構成された世界。


「可哀想になぁ。呪いは、拭えんのやろか?」
「血が濃すぎるんや。竹谷は」
「子どもも、男やろ? あの子もきっと蜻蛉やで」


(かげろう)

幼心にも、その禍々しさだけは伝わってきて、その四文字が楔となり打ち込まれた。

「そん意味はな、短命ってことなんや。竹谷の男は、20歳を超えることは、めったにあらへん」
「どういうことだよ……」

目の奥が冥み、闇に誘われそうになるのを必死に押しとどめるのは、知りたい、という渇望だけだった。

「……お前の父さんが事故で死んだんてのも、嘘や。この病気で死んだんや」

慟哭に冴えぬ空。蛞蝓がのたうちまわるみたいな嫌な感じ。白と黒の先、冷たい皮膚。かげろう。

---------------記憶残る葬列は、父親のものだったんだろうか。

何を言えばいいのか分からず、ただただ、耳を通り抜けそうになっていく母親の言葉を僅かに残る思考が繋ぎとめ、音を意味に変換させていく。全てが幻よりも、ずっと、ぐらぐらと揺れている。指と指の隙間から零れ落ちる砂みたいに、掴もうとすればするほど、俺から離れていく。けれど、心のどこかで冷たく見つめる自分がいるのにも気付いていた。

(あぁ、これはたちのわる冗談でもジョークでも嘘でもねぇんだ)

母親は涙にくれた目尻を拭い、鼻を啜りながら続けた。「お前が男の子やと知った時、ほんまに、運命を呪た。何で、って」と。不意に、母さんの泣き顔に兵助のそれが重なった。そうだ、兵助は。俺は兵助にあんな顔をさせてしまうのか、と。

「……何で、俺を生んだ?」

気が付けば、叫んでいた。母さんも父さんを失った。それぐれぇ、分かってた。けど、俺は母さんを思いやる余裕なんてなかった。呪われた運命に抗おうとするので、精一杯だった。俺が生まれてこなかったら、兵助に、そんな辛い思いをすることなんてなかった。俺が生まれてこなかったら。兵助に。

「何で、俺を生んだんだよっ。なぁ、何で!? 何で、」

目の窩が、かっ、っと赤くなった。昇りつめた血が沸騰して血管が破裂しそうだ。怒りなのか悲しみなのか、全く分からなかった。どうしようもないやるせなさが行き場もなく、ぐるぐると俺の中で渦巻いている。襟ぐりを掴んで、引き倒す。殴りつけようと、ぐっ、と拳を振り上げた。そんな俺の仕打ちにも、母さんは顔色一つ変えずにいた。

「伯母様を責めるのはお止めなさい」

凛とした声が、俺を母親から引き離した。すとん、手から力が一気に抜ける。母親が崩れ落ちた。

「……っ、お前には関係ねぇだろ」

突然現れてた、着物に引き締められた従姉妹は、俺の罵倒にも顔色一つ変えずに続けた。「これが竹谷の家なんどす。血を守る義務が伯母様にはあるんです。それは、ハチはんにも」と。まるで祝詞のようで、決められた定めのごとく粛々と語られる。

「ハチはんには、私と結婚してもらいます」

彼女は、宣旨した。

「はぁ? どういうことだよっ、」
「ハチはん、あなたには、子どもを産んで竹谷の血を守る義務があります」
「こんな呪われた血なんて、守ってどうするんだよ」

そう吐き捨て部屋から出ていこうと、彼女の隣を擦り抜けた瞬間、ぎちり、と軋む音が俺の骨に響いた。掴まれた手を払おうとして、でも予想外にきつく握られて、すぐに振り解けなかった。いったいこんな力どこにあるだ、ってぐれぇ、の握力。見遣れば、その艶やかな唇は緩やかな弧を上げていたが、す、っと細くなった目の奥に宿る光は全く笑ってなかった。

「東京に、恋人の元に戻る気ですやろか?」
「当たり前だろ」
「本当に、戻れるんですか? 遅かれ早かれ、ハチはん、あなたは死にます。いづれ、その人も知ることになりますやろ。重荷を、後悔を、罪苦をその人にに背負わせる気ですか?」

重荷。後悔。罪苦。-------------それが、兵助の笑顔を奪う。


「ハチ、…好き、だ」


照れたような笑顔が、瞼裏に浮かぶ。声が、温もりが、蘇る。愛しさが込上げる。それを俺は奪うのだ。

「今のうちに別れた方が、その人のためやと思いますけど」

黙りこくったのを答えと取ったのか、彼女は満足そうに、今度は目から微笑んだ。やっと、振り払うことのできた手には、くっきり、残っていた。紫色の、蝶のような痣が。彼女の握った痕が。-----------その後、散々悩んで、俺は兵助の留守録にメッセージを残した。「……もう、兵助に逢えない。別れてほしい。……俺のことは、忘れてくれ」と。

***

「ただいま」

兵助の涙が、灼きついている。その唇には、兵助の温もりがまだ残っていて。東京へ兵助との思い出を片付けに行ったはずなのに。-------------逆に、鮮明になってしまっていた。

「おかえりなさい、ハチはん。東京は、どうでした?」

俺を見て、全てを解したようで、彼女は満面の笑みをを浮かべ、俺に近づいて。俺の頬を取り、静かに、その鋭い爪で、撫で上げた。鱗粉を撒き散らし、誘撹する艶やかな蝶。甘ったるい匂いに気が遠くなりそうになる。まるで、痺れ薬を盛られてしまったかのように、俺はその場から動くことができなかった。

「っ」

唇は、死に口付けたように、冷たく。

「っ……何するんだよ」
「あら、婚約者ですもの、口付けくらい、ええんやないです?」

唇に残っている兵助の温もりをかき消されたような気がして、化粧臭いそれを拭いとる。

「何があったって、俺は、あいつ以外を好きにならねぇし」
「あら、えらい決め付けてもろて、ええんですの? ウチらは、これから結婚もして、子どもをもうけるんですのに」
「籍はやるよ。体もな。……けど、心だけは、お前にあげれねぇよ。愛しているのはあいつだけだ」
「まだ、そんなこと、言っとるんですの?」
「俺は、そう言い続ける。ずっとだ。一生、そう言い続ける」

俺の言葉に、彼女はその赤く塗りたくられた唇を、ぐっと噛みしめた。それから何も言わずに、鋭い閃光でこっちを一睨みし、着物を翻した勢いで立ち去った。パタパタと遠ざかっていく白い足袋。そんな姿を見つめながら、俺は自分に言い聞かせるように呟いた。

「愛してるのは、兵助だけだ」

全部、兵助だった。俺を心から愛してくれたのも。人を愛することを教えてくれたのも。初めてだった。こんなにも誰かを愛おしいと思った事も、守ってやりたいと思った事も。こんなにも、笑ってほしいと思ったのも、倖せになってほしいと思ったのも。なぁ、兵助。お前を好きになって、愛したのがお前で本当によかった。ずっと、ずっと、愛してる。

(だから、ごめん。もう、泣くなよ。頼むから笑って生きていってほしい。そして倖せに-------)



 


 main top