神様、一生のお願いです。もう、泣かないから、絶対、泣かないから。どんなに辛いことが待ち受けていても、平気だから。----------------------だから、もう一度だけ、ハチに会わせてください。




L o v e s i c k n e s s
〜恋をすると、死んでしまう〜

「は…ち……?」

あの日と同じ、大きな背中。見間違うことのない、愛しき人。けれども、まるで幻を見ているみたいだった。唇が震えて、うまく綴ることのできない、彼の名前。それでも、なんとか口にすれば、目の前の肩が、ぴくり、小さく揺れて。まるで時の流れに逆らうように。ゆっくり、ゆっくり、彼が振り向いた。


(……夢じゃ、ない)

「兵助……」

久しぶりに聞いた彼の声は静謐な湖に描かれた波紋のように。いくえにもいくえにも広がり、俺を揺さぶった。さざなみ立った心は、どんなに押さえても治まらなくて。もう一度会ったら言おうと思っていた言葉が自分の中に溢れかえって、ぐちゃぐちゃになって、結局、他愛のないものに逃げてしまった。

「勘ちゃんにメールもらったんだ」

手の中の折りたたみ携帯を、ハチとおそろいのストラップを、ぎゅ、っと、きつく握りしめる。掌に食い込む感覚が、これは夢じゃない、知らしめる。何も言ってくれないハチに、さっきまで再会の希望に高鳴っていた鼓動を不安が蝕していく。<それを押し込めるように、俺は一歩だけ近づいた。

「……会いたかった、ハチ」

会いたかった。ハチに会いたかった。ただ、それだけだった。たくさん言いたいことはあって、たくさん聞きたいこともあって、たくさん文句もあって。けれど、どれもこれも、もう、どうでもよくなっていた。ただ、会いたかった、その一言に全てが行き着く。---------けれど、ハチは、黙ったまま俺を見ていた。


「なぁ、ハチ。嘘だよな?」

誰か、嘘だと言ってほしかった。誰か、これは夢だと言ってほしかった。あの日から、ずっとずっと、祈っていた。本当は、わかっていた。今にも消えそうな、明け方の星のような祈りだと。そこにあったはずなのに、気が付けば、光に失われていく明星のようなものなのだと。それでも、それでも……俺はその祈りに縋りついていたかった。

「なぁ、何か言ってくれよ。なぁ、ハチっ」

喉が裂けそうなほど痛い。叫ぶようにして言っても、それでも、ハチは黙り込んだまま、そこに佇んでいて。思わず、彼の胸に飛び込んで拳を打ち付けていた。どんどん、と力の加減もせずに叩き続けるけれど、押し返す力もなく、彼の胸板の反動だけがむなしく響き続ける。たまらなくなって、見上げればハチの輪郭が滲み、周りの世界へと溶けていった。泣いて泣いて、目が溶けるくらい泣き続けて、もうとっくに涸れきったと思っていた、涙。

「なぁ、ハ」

一瞬の、永遠。唇とともに、塞がれた言葉。伝わってくるハチの温もりが告げていた。

-------------------------「さようなら」と。

その瞬間、世界が膨れ上がり、糸が切れたように崩潰した。


「    」

靄がかっていく意識の向こうに見えた、ハチの泣きそうな笑顔が俺に烙きついた。



***

「っ……三郎……? 雷蔵に勘ちゃんも」

廊下に倒れてた、そう呟く三郎の瞳が揺れていた。いつもの彼とは違う、鋭さを失った色。周りを囲む勘ちゃんは俺と目を合わさないように下に視線を逃がしていて、雷蔵は困ったようにあやふやな表情を浮かべていた。辺りを探っても、そこにハチの気配はなくて。

「なぁ、ハチは?」

問いかけに三人は顔を見合わせ、それから三郎が絞り出すような声で「会ったのか?」と尋ねてきた。

「うん。……なぁ、ハチは?」
「さっき、帰っていった。って、おい、兵助っ」

跳ね除けた布団。彼の腕が、俺を引き止める。ハチのとは違う、骨ばった腕が。

「俺、もう一度ハチに会わないと」

三人の戸惑った目が俺を見遣っていた。おずおずと「兵助」と雷蔵が俺の名を呼ぶ。けれど、そんなの構っていられなかった。押さえつけようとする三郎の手を振り払おうとすれば「落ち付けって」と、ぎちりと掴まれる。それでも力の限り、振りほどこうとすれば勘ちゃんが「もう、俺たちの知ってるハチなんかじゃないよ。もう、あいつは戻ってこない」と涙目になりながら言葉を迸らせた。

「……どうしても、会いたいんだ。会って聞きたいことがあるんだ」
「あいつと会っても、兵助、お前が傷つくだけだぞ」
「兵助には悪いけど、僕もそう思う」

肩で息をしている勘ちゃんを抱えた雷蔵が、唇を噛みしめて呟いた三郎の言葉を肯定した。ひしひしと思い詰めた瞳から、三人の気持ちが痛いほど伝わってくる。す、っと昇っていた頭の血が急に冷え、すとん、と体の力が抜けた。それを感じ取ったのか、俺を抑圧していた三郎の拘束が緩む。彼の掌から解放された腕を軽くさすりながらいると、勘ちゃんが「もういいだろ」と小さな声で話しかけてきた。

「なぁ、兵助。もういいだろ、お前は十分傷ついたんだ」
「勘ちゃん……」
「何でまた傷つこうとするんだよ」
きっと、そうなのだろう、と。ハチと連絡がつかなくなって以来、もう、涙が一滴も出ないくらい泣いた。別れを告げられて、どうしようもなく冥く淋しい世界で身が切れるような痛みを覚えた。このまま、ハチのことを忘れてしまった方が、憎んでしまった方が、きっと楽になるのだろうということは、分かっていた。

(けど、そんなの無理だ。俺からハチの手を放すことなんて、考えられない)

「どうしても、ハチに会いたいんだ」
「兵助……」
「どうしても、ハチに会わないといけない」

だって、見てしまった。意識の途切れる向こうで、ハチのあの泣き出しそうな笑みを。

(-------------なぁ、ハチ。何であんな顔したんだ? 何であんなこと言ったんだ?)



***

俺たちの中に溶けた静けさを打ち破ったのは三郎の溜息だった。

「なら、ちょっと待ってろ」

携帯をポケットから取り出す彼を見遣ると、「三郎っ!?」と悲鳴に似た声音を上げた二人を無視した三郎の視線と絡まった。

「お前の気のすむまで付き合ってやるよ」
「ちょ、三郎? お前、何考えてるんだよ」
「雷蔵だって兵助の頑固さはよく分かってるだろ。こうなったら、絶対引かないだろうが」
「けど、」

言い争う二人の間を割るようにして勘ちゃんが静かに俺と向き合った。

「いいんだな、兵助」
「あぁ」
「今よりもっと傷つくかもしれない」
「あぁ……けど、どうしても会いたいんだ」

切り結んだ視線に互いが引き合い-----そうして、ふ、と勘ちゃんは泣き笑いの面持ちで息を吐き出した。

「分かった。そこまで言うなら止めない」
「ありがとう」
「けど、その代わり、俺たちも付いていくから」

思わぬ展開に「え?」と戸惑っていると、三郎が「一発殴らねぇと、気が済まねえもんな」と三郎が茶化し、雷蔵が「またそんなこと言って」と取り成した。それから、ふわりと微笑んだ。「何があっても、僕たちは兵助の味方だからね」と。じわり、と熱く濁る目頭を掌底でぎゅっと押さえつける。もう、泣かないと決めた。

神様、一生のお願いです。もう、泣かないから、絶対、泣かないから。どんなに辛いことが待ち受けていても、平気だから。----------------------だから、もう一度だけ、ハチに会わせてください。



  


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