本当は、この手を離したくなんかないのに……。




L o v e s i c k n e s s
〜恋をすると、死んでしまう〜

「ハチさん? どこへ行かれるん?」

掴まれた腕に突き立った爪。きゅ、と皮膚が切れるような感覚に、ざわり、と背中が粟立った。艶やかな極彩色を纏ったのは蝶か蜘蛛か。自分と変わらない年齢の、しかも、女だというのに、怖かった。得体の知れない懼れに呑みこまれそうになる。

「……兵助の所に行ってくる」

辛うじて口を開けば、『行って』という、その言葉に、玄関で彼は唇の端を緩やかに上げた。空っぽのビー玉が収まっているかのような瞳は爬虫類を想起させる。くつくつ、と喉奥の中に閉じられた笑い声。心底、可笑しいとでもいうような、その妖艶な笑みが、告げていた。

------もうあそこは、兵助のいるところは、俺の帰るところじゃねぇ、と。



***

「なんか、すげぇ、懐かしい……」

きゅ、と上靴がリノリウムの床に音を滑らす。授業も終わり、だいぶ時間が経っているせいか、しん、と静まり返った廊下に伸びる影は自分のものだけだった。みんな帰宅したか部活に励んでいるのだろう。広がりきった吹奏楽の響きが耳に届く。その音色は、どこか、哀愁を帯びていた。

(そんな事、思った事もなかったのにな)

たった、1ヶ月だというのに。全てが変わってしまった、あの日から、まだ、1ヶ月しか経っていないのに。ずいぶん昔のことのようだった。

------------兵助と過ごした日々が、瞼裏で鮮やかに、揺らめいている。


「な、ハチ?」

驚きに満ちた声は、俺のよく知る人物のそれで。ゆっくりと振り返れば、想像通り、勘右衛門が唖然とした面持ちで俺を見つめていた。いつものように「おぅ、勘右衛門」と片手を茶化しながら上げれば、さっきまで見開いていた目が、途端に鋭くなる。責めるような顔つきのまま、勘右衛門は俺との距離を詰めた。

「おぅって……何やってんだよ?」
「何って、荷物取りにな。おきっぱなしだったからさ」

腹に力を入れつつ、口元をへらへらと緩ませて答えれば、これ以上ない、ってくらい勘右衛門の顔が歪んだ。

「そうじゃなくって、兵助はずっと休んでるんだぞ。お前、本当に学校をやめるのかよ」
「あぁ。手続きはまだだけどな。あっちでもできるからさ」
「兵助はどうなるんだよ。お前なら安心して任せれる、って思ったのに。約束しだだろうが、兵助を絶対泣かせないって」

食って掛かってきた勘右衛門に、ぐっ、と襟元を掴まれた。怒りに溢れた口調で詰られる。それでも、まだ俺を信じている瞳が、俺を突き刺して。じくりじくりと痛みだした胸を、おどけてごまかす。そうでもしないと、本当のことを言ってしまいそうだった。

「何かそんなん約束したか? 悪ぃ、忘れた」

ぎちり、と音が聞こえてきそうなほど勘右衛門が歯を噛みしめているのが分かった。

「ハチ……俺は……俺は、お前を許さない」

俺から離れた、手。だらり、と垂れ下がったそれは怒りに震えていた。そのまま、視線が二度と重なることはなく、走り去っていく勘右衛門のシューズの音を聞いていた。ようやくその残響が途切れ---------俺は、廊下にもたれかかり、ずるずると座りこんだ。涙は出なかった。

(泣く資格なんか、俺にはない)

自分の両の手を組ませ、きつく爪を立てる。ぎちぎちとした痛みが心のそれよりも大きくなるように。誤魔化すために。だんだんと奪われていく血流の感覚。紫色の爪痕。生きている、そう痛感すればするほど、これは夢じゃないのだ、と突きつけられる。

(兵助も俺を許さないだろうか? そうであればいい。憎んで、嫌いになってくれたなら)



***

「ハ…チ……?」

どれくらいそうしていたのか、ようやく、のろのろと立ち上がって教室に向かおうとすると、聞きなれたトーンが背後から降りかかった。振り向かなくても誰か分かる。愛しき、人。

(振り向くな。振り向いたら駄目だ。絶対、振り向くな)

そう何度も自分に言い聞かせる。振り向いたら、駄目だ。呪文のように何度も何度も心の中で唱える。顔を見たら、決心が崩れてしまう。そう思いながらも、俺は振り向かずにはいられなかった。円らな瞳が揺れていて、その双黒に水が溜まっていて、今にも泣き出しそうだった。

「兵助……」
「メールもらったんだ。ハチが来てるって」

震える胸。重なる眼差し。そんな資格ねぇ、って分かってるのに、こっちまで、泣きたくなる。

「……会いたかった、ハチ」

震える唇から漏れる、か細い声。俺も、って言えたらどれだけいいだろう。俺も会いたかった、って言えたら、どれだけ楽だろう。開きそうになる唇を噛んで、必死に堰き止めていれば、兵助が俺の元へと更に近づいた。すぐさま抱きしめることのできる距離。ぐ、っと拳を握り、その衝動に耐える。

「なぁ、ハチ、嘘だよな?」

祈るような眼差しが俺に縋りつく。そのまま、ぎゅ、っと抱きしめてしまいたかった。嘘だったらどれだけよかったか。俺だって、これが嘘だったら、って何度思ったか。けど、これは、紛れもない現実で。俺は、こたえることができず、ただただ、兵助の軋むような視線を受け続けることしかできなかった。

「なぁ、何か言ってくれよ。なぁ、ハチっ」

ドンドン、と痛みが胸に響く。堪え切れなくなった兵助が俺の胸部を拳で殴りつけていた。力加減のないそれに、ぐっと息が詰まる感覚が苦しい。けれど、今は耐えなければならなかった。俺は、もっと、酷いことをするのだから。募り広がっていく疼きに俺は大きく、息を吸い込んだ。

「なぁ、」

彼の言葉を唇で塞いだ。一瞬の、永遠。さようならの、口づけ。このまま時が止まってしまえばいいのに-----------ふ、と糸が切れたように兵助が倒れこんできた。腕に落ちてくる、彼の温もり。まなじりに残る、涙の痕。それを、そっと指先で拭う。

「愛してる」

この言葉が、届いただろうか?
届いてほしい。
いや、届いてほしくない。

「……ごめんな、兵助」

本当は、この手を離したくない。けど……。



 


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