※幽霊話(not死ネタ)。薄暗いですが倖ある方向で終わります。


夢を、見た。

あぁ、これは夢だ、と分かっているのだけれど、いや、だからか、絡め取られていく。足掻いても無駄なのだ、と体中の力が抜ける。あのシーンを見るまでは、絶対に醒めないということは分かっていた。何度も何度も、繰り返し見る夢。川底に降り積もった泥の中にずぶりずぶりと堕ちていくような、ゆっくりと息が詰まっていく感覚を、どこか遠いところで傍観している。

「っ…三郎っ!」

耳元で弾けた声に、一気に引き戻された。じくじくと瞼の裏に孕む熱とこめかみを締め付けるような鈍い痛み、頬がすうすうと一筋だけ冷たい。曖昧に曇った視界の向こう側で、雷蔵が心配そうに私を覗きこんでいた。とっさに普段のような飄々とした表情を貼りつけようとしたけれど、上手くいった気がしない。憂いを含む眼差しを彼にさせてしまったことが辛くて、何でもない、と誤魔化そうと「…雷蔵」と呼んだけど、その声は、掠れきっていた。

「うなされてたね」
「…すまない」
「何で謝るのさ」

私の謝罪を聞いて雷蔵はくしゃりと顔を歪めた。怒ってるのか、悲しんでるのか、そのどちらもなのか、それ以外なのかよく分からなかった。ただ、酷く痛そうな顔をしていた。そんな顔をさせたいわけじゃないのに、という言葉を呑みこんで「起こしてしまっただろ」なんて繕えば、覗き込む彼の目の色がは小さく揺らぎに耐えていた。一息後に「…そんなことない」と小さく呟いた彼は瞼を下ろして、次の瞬間には、昨日と変わらぬ雷蔵だった。

「怖い夢でも見た?」
「怖い…ってわけではないんだがな」
「どんな夢?」

一瞬だけ、答えるのを躊躇った。一度だけ、ずいぶん前に夢のことをばあさんに話したことがある。その時、ばあちゃんは、すごく嫌な顔をして。子ども心にも口にしてはいけないことなんだ-------おそらくは両親に関係することなのだ、と分かった。

「……蒼い世界と押し込めようとする手」

は、っと雷蔵が息を詰めたのが分かった。その表情にもしかしたら雷蔵は知っていたのかもしれない、と思う。ばあちゃんが死んだ時にその断片を口にしたのは、そういえば、雷蔵の母親だった。じいちゃんもばあちゃんも教えてくれなかった両親の死の理由を察して、私は図書館に保存されている新聞を漁った。そして、見つけた。片隅に載っていた、自ら水泡に還っていった父母の名を。そして、その中で独り生き残った自分の名を。けれど、私には全然記憶になくて。自分のことなのだという実感は沸かなかった。だからだろうか、あの夢は私の中では必ずしも怖い夢、というワケではなかった。

ゆら、ゆら、揺れて。気持ちがよくて、温かい、夢だった。なのに、必ず涙を流して、目を醒ますのだ。

「私はいつも置いていかれるなぁ、」

父さんや母さん、じいさんにばあさん、それから雷蔵まで。あの蒼い世界に引きずり込まれていくのに私だけが取り残されてしまった。思わず口を突いた言葉に雷蔵が、ぎゅ、っと腕を抱えるのが分かった。今にも泣き出しそうな面持ちで「三郎……」と呼ばれ、は、っと気付いた。

「すまない……君を責めるつもりじゃないんだ。そんな顔しないでくれ」
「うん」

遠くでクロが、にゃぁにゃぁ、とせわしく鳴いていた。カリカリカリカリという音もそこに混じる。戸棚を引っ掻いて、餌を催促してるのだろう。クロは相当雷蔵に懐いてしまったようだ。昨日も私にそっぽを向いて、一日中、雷蔵に甘えっぱなしだった。そう思い、雷蔵にお願いする。

「雷蔵、クロに餌をやってくれるか」
「うん。分かった」
「今朝は私が料理の腕を振ってしんぜよう」

芝居がかった声音に雷蔵が小さく吹き出した。今日、初めて見た笑顔に、心が緩む。

(このまま、雷蔵といられたらなら)

ずっと、これほど確かなことはない、そう思って生きてきた。この家の前にある川のように、人々は終焉に向かって流れていくしかないと。老いも若いも男も女も善人も極悪人も、どんな人も避けて通ることのできないのだと。そう分かり切っていたから、全てに未練などなかった。けれど、私は初めてその事実に抗いたいと思った。--------雷蔵と共に生きたい、そう思った。



***

「ちょっと、出かけてくるね」

美味しい美味しいと、こちらが照れるくらい雷蔵が連発した朝食を食べ終わって。「じゃぁ片付けは僕ね」としばらく水音を響かせていた雷蔵が皿洗いを終えるとそう言ってきた。幽霊が出かけるって、と頭の中は疑問に満ちていたけれど、それはすぐにかき消された。もしかしたら、やっぱり、家族に逢いたいのかもしれない。私に気を遣わせているのかもしれない、と思い「あぁ」と相槌を打った。

「いってきます」

クロと二人(いや、一人と一匹か)で雷蔵を見送る。すっかりと雷蔵の虜になってしまったクロは甘えんばかりに喉を鳴らしていた。彼が玄関のドアを開けた途端、さぁぁ、と外から白い光が部屋に差し込んだ。それが彼を呑みこんで、一瞬、消えてしまったような気がして、

「雷蔵っ、」

思わず引きとめていた。もう、このまま、二度と逢えなくなってしまうんじゃないか。どうしようもない淋しさに覆われる。伸ばしかけた手は、けれど、温もりを掴むことはできなかった。触ったら消えてしまう、ちくりと脳裏に浮かんだ警告が辛うじてブレーキを掛けていた。そのまま冷たい空気を指先で閉じる。振り向いて不思議そうな顔をしている雷蔵に「いや。……いってらっしゃい」と誤魔化す。けれど、やっぱり雷蔵にはお見通しのようで。

「夕方には帰るから」

困ったように微笑んで、それから、「いい子にしてるんだよ」とクロの頭をそっと撫でるとドアの向こうに出て行った。いつまでも扉に向かって鳴き続けているクロの声は、どこか哀愁帯びていて、胸の奥がぎゅっと軋んだ。その身に雷蔵の温もりを宿してないだろうか、なんて馬鹿なことを考えて「お前はいいな。雷蔵に触れれて」とクロに手を伸ばそうとしたら、毛を逆立てられて逃げられた。

「なんだ、ケチだな」

悪態を吐きつつ、これから何をしようか、とぼんやり考える。雷蔵がいないと、世界が急に息を潜めた。

とりあえず付けたテレビはまだ砂嵐状態だった。近所の電気屋に問い合わせしないとな、と思いつつ、電話帳なんてものもなく、調べる方法を考えるのが億劫になって、リモコンを切った。次に触ったのはミシンだった。くるくると回してみるけど、あいにく、今は仕事が入ってなかった。

(と、いうか、前に仕事したのいつだ?)

もともと納期とか契約に無頓着だったからだろうけれど、ちっとも、思い出せない。必死に記憶を手繰ろうとすれば、脳裏がざらついた舌に舐められたかのような、嫌な感覚に襲われる。ざわざわと、心が騒いだ。昨日も同じことがあった。本能が、叫んでいた。触るな、と。それに従うことにする。

(何も考えずにできるってなると……掃除ぐらいか)

しかたなく、その辺に積んであった本を数冊抱えて移動し始めた。頭の中を真っ白にしたかった。



***

「夢、か」

味気ない昼食を終えた後、掃除をすることに飽きた私は、じいさんのソファで本を読むことにした。ぴったりと私に体がはまるそこは、ここ二日雷蔵に貸していただけなのに、すごく懐かしい気がして、すっかりと寝入っていた。そして、また、あの夢を見た。蒼の世界と、手を。そして、初めてその続きを。

(来ちゃいけない、か)

いつもなら醒めるそのシーンに来ても、目覚めることがなかった。だから、好奇に任せてそのまま沈み込んでいこうとした。その私を押しとどめたのは、あの手だった。ゆらゆらと揺れる蒼の中で、あの手は私を水底に押し込めるのではなく、私を追いやった。水面へと押し出した。耳に残る、反響。来ちゃいけない。その声は聞いたことがないけれど、どこか、雷蔵に似ているような気がした。

-------------------------そうして、私は、分かった。分かってしまった。

「遅いな、雷蔵」

ゆるやかに、けれども、止まることなく夜の帳が降りてきていた。ソファから身を起こし、窓辺へと体を寄せる。電気を付ける気力はなかった。覗きこんだ先にはすっかりと闇に塗りつぶされていて、昼はまだ濁りの取れない川面だったそこも何が流れているのか全く分からなくなっていた。それどころか、川の存在自体が見えないほど深い冥さが辺りに広がっていて、途切れることのない水音だけが辛うじてその存在を知らせていた。

独りだった。世界から、置いてかれてしまった、そんな気がした。

それからどれだけ時間が経ったのだろうか、扉がガチャガチャと音を立てて。私は弾かれるように玄関へと急いだ。こちらがドアを押しあけるのと彼が引くのと同時だったせいか、ノブが妙に軽くて、勢い余って雷蔵にぶつかりそうになる。

「っと、三郎?」
「おかえり」
「ただいま。ごめんね、遅くなっちゃって」

アパートの廊下の電灯がついてるせいか、ほんのりと雷蔵の頬はオレンジ色の影が落ちていた。あまり明るいとはいえない灯りの中で、はっきりと分かった。雷蔵が泣いて帰ってきたことが。

「雷蔵、目が真っ赤」
「あ、うん。花粉症かな。幽霊でもなるんだね」

それでも、まだ誤魔化そうとする雷蔵の優しさが痛いほど伝わってきた。その姿が愛しくて愛しくてたまらなかった。一歩近づいて、そっと、手を雷蔵の方に伸ばす。彼は泣き腫らした目で私を見つめていた。にゃぁ、とクロが私の体をすり抜け、雷蔵に飛びついた。このまま、ずっと、いたかった。できることなら、雷蔵と永遠に一緒にいたかった。黙っていれば、触れれなければ、きっとこのまま雷蔵と共に長い時間を過ごすことができるだろう。ずっと、一緒にいることができる。このまま、ずっと、一緒にいたかった。

「雷蔵、もう、いいんだ」

けど、それ以上に、愛しい人をこの手で抱きしめたかった。雷蔵を、この手で。

「死んだのは私の方なんだろ?」



温もりまであと少し


title by 春を待っています


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