※幽霊話(not死ネタ)。薄暗いですが倖ある方向で終わります。

どれぐらいの間、私と雷蔵は互いを見つめ合っていたのだろうか。私が発した台詞は、とっくの昔に過去へと飛び去るようにして消え、耳に痛いほどの静寂が私たちの間に佇んでいた。彼の唇が何度も何度も空気を孕み、そして何度も何度も音なく解けていくのを私は見ていた。彼は口にする言葉を迷っているようだった。彼の表情が、この空気が、やけに知っているようなものな気がして記憶を辿る。あぁ、と今度はすぐに思い当たった。そういえば、半年前に彼がこの家を出て行った時も、今と同じように、にゃぁにゃぁとクロが雷蔵にすり寄っていた。

***

じいさんの初盆以来、ずっと会っていなかった雷蔵と偶然再会したのは、やはり、春の嵐の夜だった。

昼過ぎから降り出した雨は刻一刻と雨脚が強くなっていき、闇が深まっていくにつれて風も酷くなってきた。なぎ倒すように吹き抜ける暴風に傘は使い物にならず、滝のような豪雨に叩かれた私はそれこそ川を泳いできたのか、というくらいずぶ濡れだった。

「もしかして、三郎?」

かき消す勢いの雨音の中で、はっきりと、その声だけが耳に飛び込んできた。今にも折れそうな傘を必死に押さえている雷蔵が、そこにいた。その後の会話は覚えていない。気が付けば、私は自分のアパートのソファに雷蔵を組敷いていた。

「台風みたいな雨と風だな」
「台風といえば、小さい頃、台風が来るとさ、何かドキドキしなかった?」

笑っているかのような楽しそうな声が闇に揺れた。真っ暗なのは台風の時みたいに電線が切れて停電しているわけじゃない。故意に、消したのだ。その証拠に、部屋には一点だけが青白く光を放っていた。季節外れの暴風雨はあちらこちらに甚大な被害を与えているらしく、唯一の光源のテレビからはアナウンサーの声高な叫びが聞こえてくる。それは、この部屋の外で、現実に起こっていることなのに--------世界から隔離されているみたいに、遠かった。

「あー、私は、休校を楽しみにしてたな。暴風警報出てろ、って思いながら朝、テレビを付けてた」
「僕は街の様子が変わる感じにドキドキしたな。なんか、怖いもの見たさっていうか」
「まぁ、分からないはないけどな」
「今思えば、不謹慎なんだけどね」

くすくすと笑うようにして彼が喋るたびに吐息がもろ肌に触れて、くすぐったい気持ちになる。繰り返し繰り返し同じようなニュースにいい加減、飽きてきて、私は床に投げ出してあるはずのテレビのリモコンを探った。もう片手が彼の温もりを追っていたせいか、床に指先が着いた途端、ひやり、と冷たさが走った。適当に腕を動かしていれば、ようやく硬い物が触れ、持ち上げれば目当てのものだった。ボタンを押せば、ぷすん、とマヌケな音と共に、完全な暗がりが生まれた。発光するテレビとは違う、うっすらとした仄白い雷蔵の肌が闇に馴染んでいた。

「今だって、不謹慎だろ?」

雷蔵の手が、暗がりに蠢いた。指が、唇が、お互いを求め合いだす。吹き荒れる風雨に、獣の咆哮に似た嬌声は隠されて------------嵐の底へと、引きずりこまれていった。最初からそうと決まり切っていることのように、ごくごく自然に。もしも運命というものがあるのならば、それはこの夜のことなのだろう、と。



***

雷蔵との日々は、一言でいうならば『倖せ』だった。

雷蔵は、全てを柔らかく包み込み、そして受け入れるだけの深さがあった。彼にかかれば、どんな些細なことも、全てが幸福なことに思えたのだ。雨上がりの空の美しさ、土手を渡る風の匂い、子どもたちの笑い声。今までだって当たり前のように存在していたものなのに、雷蔵が隣にいるだけでまるで魔法がかかったみたいに、きらきらと輝いて見えた。私が知らなかったこともたくさんあった。カーテンを開けて朝の挨拶をすること、温かなご飯の甘やかな匂い、一緒に買い物に出かけること、雨上がりの空の美しさ、水たまりを手を繋いで飛び越えること、「ただいま」と「おかえり」の温かさ、隣から届く安らかな寝息。

-------------ずっと、ずっと、欲しかったもの。

じいさんやばあさんに不満があったわけじゃない。じいさんやばあさんは、自分を大切にしてくれていたと思う。けど、どこかで引け目を感じていたのは事実だ。腫れものにさわるような、どこか痛ましい眼差しの二人を見るたびに、心に洞が空いたようなどうしようもない淋しさが吹き抜けた。だから、雷蔵との毎日は眩しいばかりに美しく、そして優しかった。

けど、私は知っている。光を感じることができるのは、闇があるからだ、と。

きっかけは、何だったのだろう。それこそ、本当に他愛もない言い争いだったのだと思う。私も頑固者だが、雷蔵もある種のこだわりがある所ではなかなか曲げれない性格をしていて、その時にはお互い引くに引けない状態まできていて。自分の中にあった酷く卑屈で醜い部分を雷蔵にぶちまけ、雷蔵もまたそれまで私が一切知らない罵倒の言葉を私にぶつけ-------そうして、彼は、玄関に立っていた。

「じゃぁ、行くね」

私は雷蔵の顔を見ることができず、彼の足にまとわりついてなかなか離れようとしないクロの尻尾を目で追っていた。私からの返事が期待できないと分かっていたのだろう、雷蔵は体を屈めて一度だけクロの頭を撫でると、何も言わずに出て行った。私は独り取り残された。また。



***

「ありがとう」

は、と雷に打たれたかのように雷蔵が私を見ていた。まだ、クロは雷蔵の足もとにすり寄って甘えた声を上げている。あの日、雷蔵がこの部屋を出て行った時のように。気の遠くなるぐらいの時間、今までのことを思い出していたような気がしたけれど、もしかしたら、ほんの一瞬のことだったのかもしれない。それまで、困ったような面持ちだった雷蔵の表情が深く抉れ、苦しそうに歪んだ。

「何でそんなこと言うのさ、僕はお前にあんなにも酷いことをしたのに」
「けど、それ以上に私に『倖せ』をくれたよ」

もし雷蔵とあの時に出会うことがなければ、私は知らなかっただろう。常に、何かを呑みこみ、そして何事もなかったかのように流れていくように、この世にはどうにもならないことがたくさんある、そう諦めて色のない世界を怠惰に生きていって終わっただろう。けれど、雷蔵が教えてくれた。倖せを。

「だから、この世にもう悔いはない」
「三郎……」
「あぁ、でも、ただ一つあるとするならば、もう一度雷蔵を抱きしめたい」

今、消えてしまってもいい。雷蔵に触れることができるなら、雷蔵の温もりを感じることができるなら、もう一度、雷蔵を抱きしめることができるなら、もう何も後悔はなかった。未練一つなくこの場所から離れ、どこか遠くで雷蔵の倖せを祈ることができるだろう。

「違うんだ、三郎っ」

それまで静かに私の話を聞いていた雷蔵が、不意に叫んだ。

「何が?」
「お前は死んでないよ」
「いいんだ、気休めなんか言わなくても」
「三郎、お前は今もまだ病院で眠っているんだよ」
「まだ死んでないって?」

思わぬ言葉に、早鐘を打ち出す。心臓が耳に付いてるんじゃないか、ってくらいその拍動が煩かった。彼の一言も聞き逃すまいと、全神経が彼の唇に縛り付けられる。雷蔵は、一つ一つを順に追うようにして考えながら、言葉を絞り出しているようだった。

「あの日、三郎と別れた後……お前が川に入ったって連絡があって」
「あぁ」

雷蔵が立ち去った後の記憶はとても鈍重なもので、けれども、覚えがある。暗い川。冷たい水。孤独。

「怖くてたまらなかった。川に入っていったのは僕のせいだ、そう思ったら、お前がいる病院に行けなくて」
「……あぁ」
「三郎が一命を取り留めたって聞いた時は、ほ、っとして泣いた。中々目を覚まさないって知っていたけど、どうしても会いに行く勇気がなくて、今日会いに行こう、やっぱり明日……そうやってずるずる後延ばしにして。そしたら、このアパートで誰もいないのに電気が点いたりとか不思議な現象が起こってるって聞いて」

嗚咽にも近い迸るような雷蔵の言葉を引き取って「それで、この部屋に?」と尋ねれば雷蔵は首を縦に振った。「うん。もしかしたら、って思って」と。また、空隙が生まれる。私はあまりの展開にぼんやりとした頭で彼の話した音を言葉にするので精いっぱいで。ようやく追いついた所で雷蔵の方を真っすぐ見据えた。

「じゃぁ、私は生きてるってこと?」
「……うん、今は、ね。……けど、お医者さんはいつ目を覚ますか分からないって言っていた。それに、もし意識が戻っても、後遺症が残るかもしれないって」

そういえば感じている愚鈍な感覚はそのせいだろうか。実体があるわけじゃないが、体中が酷く重たくて軋むように痛む気がする。ざわざわとした冷たさが体中に響く。何かが剥がれ落ちていっている気がして、意味もなく、自分の腕を抱え込む。そんな私を見ていた雷蔵が「ねぇ、三郎」と話しかけてきた。

「三郎がここを望むのなら、それでもいいよ。今のまま、二人でここにいよう」

その瞬間、----------今度こそ、私は全てを悟った。

「私は『まだ』死んでないけど、『もうすぐ』死んでしまうんだろう? それで、君も死のうとしてるんだろ?」

びくっ、と雷蔵の肩が跳ねた。目に浮かんだ動揺の色は深く「っ……そんなこと、」と誤魔化そうとしている雷蔵は塗り重ねた偽りに押しつぶされそうだった。「雷蔵、もう、嘘を吐かないでくれ」と懇願すれば、吐息よりも小さな呟きが戻ってきた。「……昼間、病院に行ってきた。今夜が峠だって」と。彼の腫れきって赤く充血していた目が少しずつ潤んでいく。ゆっくりと盛り上がったそれが瓦解し、彼の頬を伝いだした。あぁ、雷蔵が、泣いている。

(------泣いてほしくないのに、雷蔵にはいつだって笑っていてほしいのに)

「雷蔵、抱きしめてもいいかい?」
「っ、…そしたら……三郎が消えてしまうかもしれない」
「雷蔵、私はね、この三日間、本当に倖せだった。君と、もう一度出会うことができて。もし叶うならば、ここで二人、ずっと生きていく……とは言わないか、死んでしまったのだし。けど、とにかく、君と二人でここにいられるなら、それでもいいって、一瞬、思ってしまった」
「うん。だから、僕も」
「けど、やっぱり駄目だ」

視線だけで「どうして?」と尋ねる雷蔵に少しずつ近づく。だんだんと雷蔵が近くなり、そっと彼の背後に手を回した。力の限り雷蔵を抱きしめる。ふわふわと温かさに包まれていく。こんなにも倖せを感じたことは、なかった。本当に、本当に倖せだった。

「だって、このままじゃ、毎日、君を抱きしめられない」
「……馬鹿だよ、三郎」
「あぁ。けど、絶対、目を覚ますから。だから、待ってて」

雷蔵の手も私の背中に回された。ぎゅ、っと抱きしめられる。私に伝わってくる。彼の温もりが。終わりが近いのが、はっきりと分かった。もうすぐ、私はここからいなくなる。けれども、全然怖くなかった。雷蔵の優しく、そして靭い言葉が私の中に響いていたから。

「待ってる」

ゆっくりと遠ざかっていく雷蔵の温もりを私は刻みつけるようにして、さよならを告げた。

 

さよならとはじめまして


title by 春を待っています


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