古びた駅舎の待合室は、誰もいなかった。垂れ落ちた水滴が凍りついてしまったせいか、いつも以上に重たいガラス戸を悴む手で思いっきり引きあける。その途端、溶けた雪が沁み入った手袋が、ぐちゅり、と水を含ませたような音を立てた。不快感を覚えながらも、外してしまったら寒い気がして、ずっと我慢してきたそれ。さびれた室内の真ん中にぼんやりとした赤が灯るダルマストーブを見つけ、そこに近づくと手袋ごと手をかざした。熱源に当たったせいか失われていた感覚が戻ってくると同時に、じくり、とした痛みが少しずつ拡散していく。

(兵助は、来るだろうか)

朝夕の通勤通学時間を除けば一時間に一本ということも珍しくない単線。都会に住んでる奴らからしたら「あり得ねぇ時間だ」と馬鹿にされる下りの終電はもうすぐ到着する予定だった。電車が駅に来る時間になる度に心臓が馬鹿みたいに爆発しそうになって、そして、ロケット風船みたいにあっという間にしぼんで縮んでいく。期待しては落胆する。今日一日、その繰り返しだった。

(けど、これで最後なんだよ、な)

一方的な約束だった。今、この瞬間も外を白く塗りこめていく新雪のように、世界は美しく柔らかに俺たちを包み込んでくれる、そう信じていたあの頃の。俺は己の無力さをなんとなく感じながらも見ぬふりをしていて、兵助は無限に広がってるんじゃないかっていう外界にあこがれていた、そんな頃の。文面に紛れ込ませた彼との約束を俺はすっかりと忘れていた。一通の手紙が来るまで。



   拝啓、5年後の自分へ。
    -------改め、5年後のハチへ。



頭の中で反芻させすぎてすっかりと覚えてしまったその書き出しで始まる手紙の筆跡を、俺はよく知っている。いや、よく知っていた。あの頃は、大人びてんなぁ、と焦りすら感じていた兵助の細長い文字は、今、こうやって見れば笑えるほど幼い。背伸びしてたのは、きっと、お互いさまなんだろうけど。

(兵助は、どんな気持ちでこの手紙を書いたんだろうな)



***

俺と兵助はこの小さな田舎町(ど、が付くほどの田舎町)で中学校生活を共にした友人だった。単なる友人とは違うけど、友人…以上だったのかどうかは、兵助に改めて聞いたことがないから分からない。少なくとも、俺は兵助を大切に思っていた。それだけは胸を張って言える。

初めて出会ったのは、中1の夏休み明け。テレビでしか知らない大都市からの転校生に俺達は興奮のるつぼだった。ゲーセンどころかコンビニすらなく遊び場が山とか川とかの俺たちの体は真っ黒に日焼けしていて、それとは対称的に兵助は雪みてぇに白かった。いや、その鋭い眼差しは、氷だと思った。

そこからはドラマか漫画によくある話のようだった。よく言えば世話好き、悪く言えば、ずかずかと相手の庭に入っていく奴が、クラスに一人や二人いるわけだが(俺はそんなに面倒見がいい方じゃない。第一、家で飼ってる奴らで手いっぱいだ)、あいにく兵助の方に余裕がなかったんだろう、無愛想に対応した彼はあっという間にクラスの中で浮いてしまった。もちろん、それは兵助の言動だけでなく、彼がこの町に引っ越してきた理由も関係があるんだろう。せまい田舎のことだ。兵助が転校してきた翌日には、うちの母ちゃんまで知っていた。久々知さんところ、女手だけで戻って来たらしいのよって。夕飯の場で母ちゃんが父ちゃんに一方的とにまくしたてる噂話に、ふーん、と相槌を打つくらいで、とりたて、何も思ってなかった。

そんな兵助と親しくなったのは、その年の冬だった。



***

「やべ、もうこんな時間かよ」

部活の屋内練習でしごかれ、くたくたな体に鞭打って片づけを終える頃には、とっぷりと日は暮れていた。俺の家は、鬼のような家訓がいくつかある。その一つが、ご飯時にいねぇ奴は食事抜きってやつだ。急いで帰らねぇと、と、勢いに任せてバタバタと階段を降りている最中で、俺のクラスの下駄箱に人影があるのに気が付いた。辺りはすっかりと闇に飲み込まれていて、唯一点いてる昇降口の外灯が降り積もった雪をぼんやりと照らし出している。

「久々知」

クラスメイトを無視するのも変な気がして声を掛ければ、彼は履き替えようとした靴を片手にゆっくりと振り向いた。俺が影にいるせいで誰か分からなかったのか、眉間に皺を寄せてこちらを覗うような表情の後に「あぁ、竹谷か」と呟く。下駄箱で彼の隣に並び、「今、帰りか?」と話しかけながら、シューズを足で踏んで脱ぐ。同時にしまってあった自分の靴を掴んで、すのこの下に投げた。

「そう。委員会があったから。竹谷は野球部?」

パンっ。鋭い音が破裂した。びっくりしたのは、床に叩きつけられた靴が発した音じゃない。

「……お前、俺の部活、知ってんの?」
「だって、いつも叫んでるだろ。『次期、野球部エースは俺だ』って」

思わず押し黙った俺に勘違いしたのか、久々知は「違った?」と不思議そうに尋ねてきた。慌てて「いや、そうなんだけどよ」と濁す俺に「けど?」と彼は言葉を重ねる。

「なんか真顔で言われると、恥ずかしいっつうか、なんつうか……」

ごにょごにょと誤魔化しながら靴を履く俺に、久々知はそれ以上、何も言わなかった。昇降口を出れば、昼間の内に溶けた雪が再びすっかり凍って、コンクリートのローターリーにある水たまりはつるつると光って見えた。その場所を避けながら歩く。学校の門を出れば雪かきしきれずに残されて、他の奴らによって踏み固められたためにできた白い道が続いていた。ざくざくざく。スキー場のシュプールのような、平行なラインの足跡が俺たちの後ろに続いていく。

「う”ー、寒っ」
「けど、雪、止んでよかった」

彼の言葉に思わず見上げれば、洗われたような澄んだ夜空が俺を出迎えた。昼に覆っていた雪雲は山の方に押しやられ、切り開かれた宙に星が瞬いていた。それに見とれていれば、不意に彼が口を開いた。

「俺さ、この星空を見てさ、この町に来て良かったって初めて思った」
「そっか」
「ん」

その言葉の裏に含まれた彼の状況が、その辛さが、ひしひしと伝わってきた。こっそりと視線を彼の方に忍ばせてみれば、きゅ、っと唇は固く結ばれていたけれど、その目は穏やかだった。凛然として綺麗で、それでいて、どことなく脆くて。その表情に、俺はその感情を抱えた。守ってやりたい、と。



***

その日をきっかけに、少しずつ喋るようになって、いつの間にか俺と兵助との距離は縮まっていて、一緒にいるのが当たり前になった。冬、春、夏、秋、冬。巡る季節は色鮮やかな万華鏡のようだった。今、思い出そうとしても、笑い合った日々の断片しか浮かばず、それはすぐに別の楽しかった記憶を思い起こさせる。くるくると変化して掴みどころがねぇ。とにかく、あっという間に、兵助の隣で過ごす三度目の冬がやってきたのだ。

***


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