昇降口に潜む闇に溶け込むような影に俺は迷わず声を掛けた。

「兵助」
「ハチ。今帰り?」
「おぉ」

さっと兵助の元に駆け寄ってみれば、丁度出るところだったのかすでに靴に履き替えてあった。シューズを脱ぐのももどかしく乱雑に踏みしめ、下駄箱の中の靴を放り投げる。誰もいないせいか、響き渡った音がやけに煩かった。破裂音に、ふ、と記憶が重なる。

「こうやってしてっと、何か、初めて会った時のこと思い出すよなー」
「初めてって転校してきた時?」
「違げぇし」
「嘘。分かってるって」

俺がふくれっ面を晒したのが面白かったらしく、笑いを洩らし続けながら歩を進める兵助を軽くど突く。兵助に押し返されれば、凍った地面に「危ねっ」と滑りかけた。横に退かされた大量の白と踏み固められた雪道。雪間に晴れた夜。何もかもがあの日とそっくりだった。ただ違うのは、互いの距離。顔だけ振り返れば、あの日、交わることのなかった俺たちの足跡は寄り添っていた。

「こうやって歩くの久々じゃねぇ」
「確かに。というよりもさ、こんな時間に帰るのが久しぶりかも」
「ってか、こんな時間まで、何やってたんだ?」
「……んー、図書館にいた」

言葉を濁した兵助に聞いてもいいんだろうかって少しだけ躊躇った。彼がここを出ていくのは、ずっと前から明白だった。兵助は事あるごとに外の世界への憧れを口にしていたから。俺と兵助は仲良くなったが、この狭い田舎は、やっぱり兵助親子を『余所者』として扱った。ずんずんと降り積もっていく雪のように静かな重圧は相当のもんだと思う。兵助がこの町を嫌っても、この町から出ていきたいと思っても、おかしくなかった。けれど、俺は本当は目を逸らしていたかったのだ。できることなら、ずっと、傍にいたかった。引きとめておきたかった。彼の口から聞きたくなかった。この町から出ていく、と。そのために勉強してきたのだ、と。けど、兵助に気遣わせるのも嫌で、結局、俺の方から尋ねた。

「受験勉強?」
「や、手紙、書いてた」
「手紙?」
「ほら、卒業記念のさ、5年後の自分に手紙を書くってやつ」

そう言われて、思いだした。5年後、つまり20歳の自分に向けて手紙を書くのが、俺たちの中学の伝統行事になっていた。生徒会で保存して、20歳の成人式を前に、その年の中2によって配達される。去年は配る側で、正月早々から寒い中駆けずり回って面倒だなって思っていたけど、こうやっていざ書く側に回ると、結構気恥かしさがするもんだ。

「げっ、すっかり忘れてた」
「明日提出だぞ。けど、意外だな」
「何が?」
「こういう、いかにも青春、って感じの行事をハチが忘れるなんて」
「うるせぇ」

何を書けばいいか悩みに悩んでいるうちに、すっかりとその存在が彼方に行ってしまっていたのだ。明日提出、と言われ、俺の頭はそのことでいっぱいになった。何にも思いつかねぇ。縋りつくように兵助に「兵助は、何、書いたんだよ?」と尋ねれば、少しだけ考え込むようにして、それからきっぱりと告げた。「内緒」と。それでも「えーちょっとぐれぇ教えてくれたっていいじゃないか」と俺は食らいついて、腕を首に絡みつかせてプロレスの技みたいに体を揺さぶりかければ、兵助は「ちょ、ギブギブ」と俺の腕を叩いた。放せば、はぁ、と小さくため息を零して、それから真っすぐに俺を見た。

「5年後に分かるから」
「へっ?」
「俺、5年後のお前に手紙を書いた」

嬉しいと思うよりも驚きの方が大きくて「……けど、一人一通だろ? 封筒だし」なんて間抜けなことを言ってしまっていた。しまったな、というこっちの思いとは関係なく淡々と兵助は話を続ける。

「ほら、俺、卒業行事委員だろ」
「あ、そうだったな」
「ん。で、集めたら俺らが、今の生徒会に渡す手はずになってんだ。だからさ、俺のやつ、ハチの名前でハチの住所宛にしておくよ。担任、けっこうずぼらだから枚数があれば名前までチェックしないと思うし」

二通届いても不思議がるなよ、ってさっさと歩きだした兵助の背中に「じゃぁ」とすぐさま声を掛ける。

「俺は、兵助に出すよ。5年後の、兵助に」
「楽しみにしてるよ」

振り返った兵助の笑顔が綺麗で-----------あまりに、綺麗すぎて俺は視線を宙へと寄せた。じわり。視界が滲んで、瞬いている星たちが何重にも見える。ぼやけるのは開いている目が寒風に曝されたせいだ。きっと、そのせいだ。俺は熱い瞼の中に兵助の笑みを閉じ込めた。



***

そうして届いた5年前からの手紙。悴んでいた指先に血が巡り出す感覚がようやくし、俺は懐にしまった封筒を取り出した。正月に届いてから、何度も何度も、読み直したそれは、ボロボロになりつつあった。あの夜、俺が何度も何度も書きなおした兵助宛への手紙みたいに。



   兵助へ。------------兵助に会いたい。
   5年後に待ってます。



瞼に浮かぶ、その言葉。迷いに迷って、書いては消し、書いては消しを繰り返し、俺は一方的に約束を取り付けた。20歳の成人式が行われる前日の今日、この駅で待っていると。未来への、小さな希望だった。

「兵助」

返事があるわけでもないのに、誰もいない闇に呼びかける。彼の名を口にするのも、何年振りだろうか。その響きがあまりに綺麗で---綺麗すぎて、幻のようだった。忘れていたわけじゃない。消し去ろうとしたわけじゃない。むしろ逆だった。けど、思い返せば思い返すだけ、あやふやになっていくのだ。彼と過ごした日々が。まるで、春の雪のように、触れてしまえば消えてしまうように。そんな頼りなさがだんだんと怖くなって、しまいには声に出すのすら躊躇って、できなくなってしまっていた。

(けど、今、言葉にすると、こんなにも温かい)

ふわりと柔らかな橙が足元から這いあがり、舐めるようにして壁を横切った。駅前の通りを車が通って行ったのだろうか。雪に吸い込まれてしまった排気音の籠ったそれが微かに耳に届く。俺が室内にいるせいか、すっかり曇ってしまったガラス窓の向こうは何も見えない。の壁の高いところに備え付けられた時計は、さっきから遅々として進まない。音を閉ざしていく雪は、まだ、降り続けているのだろうか。

「まもなく、2番ホーム…」

不意に静寂をガサガサとした音が割った。到着を告げるアナウンスに、早鐘を打つ心臓を堪えて俺は待合室の扉を開ける。出迎えたのは銀世界。けれど、もう、雪は降っていなかった。あの夜と同じ、満天の星空。無人改札を通り抜け、しんと冷え切ったホームに立つ。この時間ともなればワンマンだろう。車両の先頭が降車口になるだろうから、そこへと体を向ける。乗車口の方には、当然、誰もいなかった。遠くにあった黄色の明かりが、雪煙を巻き上げながらも、どんどんと近づいてくる。

(来るだろうか、来ないだろうか。もしかしたら手紙すら読んでないかもしれねぇ)

そんな事をうだうだ考えていると、ふしゅぅ、と白い息を零しながら電車が俺の前で止まった。乗客の温もりに窓は曇っていて何も見えない。もう一度、呼吸の音のような音と共に、温かな空気が流れだした。ぽつり、ぽつりと俺のよく知った顔が降りてきた。俺を不思議そうに見ながらも、くたびれているのか、何も言わずに俺の横をすり抜けていく。兵助はいなかった。

(来なかった、か)

ピィィッ。落胆する俺の耳を劈く、出立の音。扉によって空気が閉じらると、車体の振動が激しくなった。軋みと共に、車両が動き出す。足元を切り抜くような窓の形の明かりが、だんだんと速くなっていき、やがて消えて完全な闇が落ちた。

(兵助は、来なかった。来なかったんだ)

馬鹿みたいに、心の中でその言葉を繰り返す。俯いてしまえば涙がこぼれそうで、俺は宙を見上げた。痛いくらい、さんざめく星。兵助は、来なかった。その事実を何度も噛みしめ噛みしめ、俺はその場に凍りついてしまった足を何とか引きはがし、駅舎へと体を向けて-------------夢を見てるのかと思った。

「ハチ……」
「へぇ…すけ? 何で?」
「乗る所と降りるドア、違うのな」

切符渡せなかった、と告げる兵助の顔が、くしゃりと歪んだ。泣いていた。俺も、兵助も。

「俺も、ハチに会いたかった」

------------俺は、兵助を、その手にある幼い筆跡ごと抱きしめた。5年分の思いを込めて。






(拝啓、5年後の自分へ。-------改め、5年後のハチへ。この町に来て良かったと思うことが二つあります。一つ目は星空。二つ目は、ハチと出会えたことです。)




積もるのは恋というもの

title by カカリア

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