尾鉢1(現代)





「……そういえば、煙草変えたんだな」

指先に挟んだ白筒を軽く揺らした勘右衛門は「そうだっけ?」と首を傾げた。あぁ、と頷けば、勘右衛門のやつはそれを咥えると口の端に垂らしながら目を細めた。

「よく覚えているな」

揶揄めいた嗤いが腹立たしくて、俺は指先の力を緩めた。かち、っと鈍い音が手元のライターから響く。寄越そうとした火を引っ込めた私を見て、悪かった、と彼が目礼をしたのは、からかったという自覚があるからだろう。けど、その眼差しにはまだ愉しそうな色が潜んでいて。ちっとも謝る気などないのだから質が悪い。

「……前のやつの匂いは、嫌いだからな」

嘘、だった。-------あの頃、彼が吸っていた煙草が嫌いだ、だなんて話をしたことは一度たりともないのだから。そうと知っているからだろう、ちらり、とこちらを見上げた勘右衛門の眉が上がっていた。

(まぁ、けど完全に嘘とは言い切れないけれどな)

煙草三本分の別れ話の後、あの銘柄の煙草の匂いが駄目になったのは事実で-------そして、当然、そのことを勘右衛門は知らない。

溜まりに溜まった灰は勘右衛門の長い指が紙巻の背を叩くよりも先に、その場に落ちた。その先にあるのは、どこぞの一点物だと勘右衛門が自慢していたテーブルだった。だが、彼は微動だにしかった。こちらの別れの言葉などまるで聞えていないかのようにだった。
どれくらいそうしていただろう、再び灰が塊となり、紙巻の白を大きく浸食した頃、勘右衛門は挟んでいた煙草を灰皿に押しつけた。沈黙ごとすりつぶすように、ぐっと。---------それが、さよならの代わりだった。

そう、さよならをしたはずなのに。

「今のは?」
「え?」
「この煙草の匂いさ」

唇の端で咥えた白筒が揺れた。小さく嗤った勘右衛門は私の手からライターを奪った。火を奪った彼が燻らした煙は、全く知らない物だった。あの頃から割と重めのものを好んでいたのは知っていたが、

「……もっと嫌いだ」

最初から答えを知っている、とでも言いたげな面立ちで彼はますますその瞳を細めた。沈黙を旨く味わえるほどの余裕は自分にはなくて。手持ちぶさたの指先は、自然と己のケツポケットに向かっていた。若干、潰れかけているパッケージの底を叩こうとした瞬間、

「鉢屋は相変わらずそれなんだな」

あの頃を引きずっている、と言われたような気がして。変えるのが面倒だったから、と断りを入れようかと思ったが、それすら言い訳じみている気がして。----------わざわざ別の銘柄にするのが面倒だった、というのは嘘じゃない。けれど、真実でもない。

(っ)

やつへの未練だなんて、まるで煙草の煙みたいにあっさりと消えてしまった、そう思っていたはずなのに。これ以上勘右衛門と話していると、ずっと奥深くに閉じこめられたものを暴かれてしまいそうな、そんな気がして。

「ちょ、何するんだよ、鉢屋」

気が付けば、彼の口にぶら下がっていた煙草を奪い取っていた。紙巻だけを掴んだつもりだったが、ちり、っと指腹の膚が熱を掠めたのが分かった。だが、そんなことどうだっていい。一刻も早く、勘右衛門から離れたかった。これ以上、かき乱される前に追い払うべきだ、そう分かっていたのに。

「……外で吸ってこい」

私の口から吐いて出たのは、ひどく中途半端な言葉だった。

「いいじゃん、別に」
「……部屋に匂いが移るだろうが」
「今更だろ? この部屋」
「だから、その匂いが移る」

偶々、だった。偶々、家の近くで再会して。「今、どこに住んでるの?」「へぇ、この近くじゃん」「なぁ、今から家行ってもいい?」みたいな、まるであの頃の延長みたいなノリで勘右衛門はこの部屋に上がり込んだのだ。きっと、この部屋から去る時も時もそんな軽さだろう。「じゃぁ、俺帰るな」みたいな。

(馬鹿だな……本当に馬鹿だ)

煙草の煙みてぇに、簡単にやつへの想いが消えてくれるなら構わない。けど、そうじゃねぇ、と分かっていたはずだ。部屋に染み着いた煙草の脂みたいに、なかなか消えてはくれないのだ、やつへの想いは。
もう御免だ。-------あんな風にやつの吸っていた銘柄の匂いを嗅ぐ度に、胸を軋ませるだなんて。ただただ消えていくしかねぇその匂いに縋りつくしかねぇだなんて。

「部屋に移っちゃうと困る相手でもいるわけ?」

あからさまにからかってきた勘右衛門を突っぱねるように「あぁ」と頷けば、ふーん、とやつは急に真顔を浮かべた。それから私の手の先で閑かに熱を灯し続けていた煙草を取り返すと、勘右衛門は煙草を灰皿に押しつけた。沈黙ごとすりつぶすように、ぐっと。------まるであの日のように。
あの日と違ったのは、立ち上がったのは私ではなく勘右衛門であり、そしてその行き先が玄関ではなくベランダだった、ということだろうか。

(本当に馬鹿だな)

気が付けば、すでに残されたやつの煙草の匂いが私を満たしていた。




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