架虹 3
「好きだったの?」
彼女は静かに問うた。長い青灰色の髪が同じ色の瞳を隠している。
「好きだったの」
緋色の髪を揺らして首肯する後ろ姿がとても小さい。その瞳には涙が浮かんでいるのかもしれない。
「わたくしのことは」
小首を傾げて問いを重ねる。
「あなたのこと?」
戸惑い俯く。
「嫌い?」
「嫌い」
振り向くと思われた背中は、耐えるように肩を震わせるだけだった。上を見上げて言葉を繋げる。
「でも、もういいの」
明るく発する声は震えている。健気な様子に彼女の微笑は歪んだ。……彼女は今までになく穏やかだった。
「あなたのこと、もう嫌いにはならない……なれない」
「そう」
「あなたは?」
「わたくし?」
「好きだった?」
「……」
問われて、目を見張った。考えたこともなかった。彼女にとっては当たり前の存在になっていたから。
「好きだったのかしら」
こちらを振り返らない背中が張り詰める。
「きっと、好きだったのでしょうね」
息を詰める気配がしてゆっくりと振り向いた。ほんの一瞬、涙に濡れた頬が目に映る。眩い程に光が溢れていた。まばたきをする間にその像が薄れて消えていく。
誰もいなくなった空間をしばらく見つめ、やがて諦めたように目を伏せる。
その頬に、優しく触れる手がある。造形に目を見張るものがあり、いつまでも眺めていたいと思わせる。
彼女は顔を上げた。変わらない眼差しに涙が一つこぼれる。緩く微笑むと、笑い返してくれた。とても、優しく。
***
「好きだったの?」
問いかけは静かだった。けれど、決して振り向くものか、と思った。
「好きだったの」
震えそうになる声を抑えて答える。鼻の奥がつんとする。
「わたくしのことは」
どこか楽しげな様子で訊かれた。
「あなたのこと?」
戸惑い俯く。
「嫌い?」
「嫌い」
反射的に振り向こうとして、なんとか耐える。目に盛り上がった涙が溢れないように上を向いた。
「でも、もういいの」
声が震えるのを抑えきれなかった。
「あなたのこと、もう嫌いにはならない……なれない」
約束したから。ひどい人だった。彼女の気持ちを知っていて、それでもあんな約束を。けれど最後まで愛しかった人。
「そう」
不意に込み上げる疑問を彼女はぶつけた。
「あなたは?」
「わたくし?」
「好きだった?」
「……」
返ってきたのは沈黙だった。どんな答えでも反発してしまいそうだったが、答えが返ってこないのはもっと嫌だった。
「好きだったのかしら」
思わず怒りそうになる。
「きっと、好きだったのでしょうね」
その言葉に、意表をつかれる。本当に、と聞きたくて振り向いた。けれど、言葉になる前に相手の姿が薄れていく。
存外に小さく映る姿があっという間に消えた。
誰もいなくなった空間から視線を外す。ふと、影が差して彼女は顔を上げた。
赤褐色の瞳が自分を写していた。その目が柔らかく笑み、彼女が好きだった手が頭に触れる。
唇が音もなく言葉を紡ぐ。彼女はそれを読みとって笑顔を見せた。
「ハルト」
彼は目を細めて笑い返してくれた。
下界では虹が架かっている。
架虹 了
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