架虹 2


 ハルトは、エウリーの元に通いつめた。彼女の涙が原因で下界の雨が止まないのだ。全知全能の神たる主神は、ハルトに命令を下し続けた。エウリーの側にいるようにという主神の言葉は容易に逆らえるものではない。だからこそ、それに甘えてしまう。
 季節は春を迎えている。下界に降る雨は静かだ。それはそのまま、彼女の悲しみと直結している。
「何故かしら」
 はらりと涙しながら、エウリーは囁いた。ハルトは腕の中の彼女を抱え直して、続きを促した。けれど、彼女からは応えが返らなかった。ハルトの胸に沈むように背を預けて瞳を閉ざす。頬を伝う涙が鈍く光った。
 エウリーの部屋には薄く光が差している。揺り椅子が窓辺にあり、そこから光が注がれてぼんやりとした影を作っている。寝台の天蓋が光を遮り、二人はその薄暗い中でじっと息をひそめていた。誰かに見咎められるのではないかというよりも、この穏やかな世界を壊さないようにという思いからだ。
 エウリーの涙は次第に止まりつつある。日中泣き続け、泣きやんだ後、一夜明ければまた泣き濡れるのを繰り返してきた。それも、もう終わりが近づいているのだ。
 ハルトは声もなく泣いているエウリーの顔を覗き込んだ。流れる涙を宝石に触れるような心地で拭っていく。沈黙を守っていたエウリーは、その指に己の指を絡ませた。
 不意に彼女が目を開けた。存外、冷静な目をしてハルトを射抜く。そうして、いつもとは別の感情を見せて涙をこぼした。それは悲しみには違いないがこれまでとは異質である。
 ハルトは動揺した。その悲しみは自分に向けられたものだった。
 エウリーはハルトの手に絡ませた自分の手に力を込めた。
「何故なのかしらね」
 彼女の問いだけが静かに響いた。

***

「やめないんだね」
 真摯な目をしてリューケは言った。
「あの人のこと、そんなに好きなんだ」
「うん……大事だよ」
 リューケの言葉を別の意味にすり替えて、ハルトは答える。それがとても大切なことのように。
 リューケは、そう、と一つ頷く。やがて、諦めたように深呼吸をして小さく笑った。
「虹、架けに行くんでしょう? 途中までついていく」
「止めないんだ?」
「止めたい」
 真剣な横顔を、ハルトは見下ろす。じっと前を見つめる瞳は揺れている。
 悲しみにくれているというのに彼女の内側からは輝きが溢れている。隠しきれない存在感にハルトは感動を覚える。だが、それが恋情ではないことはどうしようもない事実だ。
 ハルトは霞む視界に耐えながら口を開いた。
「あの人を、疎まないでいてくれ」
 隣の気配が、強張るのを感じた。それでも、ハルトは続ける。
「彼女のことを恨まないでいてくれ」
「ハルト」
「例え俺がいなくなっても」
 足元がぐにゃりと歪んで一瞬体が思うように動かなくなった。周りの景色だけがめまぐるしく回転している。平衡感覚がなくなりよろめくハルトをリューケが抱き留めた。だが支えきれずにそのまま、ずるずると座り込んだ。
「ハルト、ハルト!」
「……リューケ」
「しっかりして、ハルト」
 ハルトは嘔吐感と必死に戦った。
 震える指先を握りしめ、背中をさすりながらリューケは声をかける。
「ハルト、無理しないで吐いていいよ」
 ハルトは緩く首を横に振ったが、耐えきれず少し吐いた。生理的な涙が流れる。
 幾分、はっきりしてきた思考にリューケの声が滑り込んできた。
「どうして」
 掠れて途切れた問いをリューケは繰り返す。
「どうして、ハルトはやめないの? ハルトが命を削らなきゃいけないなんておかしいよ」
 涙声に紛れる言葉をハルトは静かに聞いた。それでも、言わずにはいられなかった。
「あの人が、泣くから」
 リューケの涙が自分の頬に降るのを、ハルトはどこか遠くで感じた。

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