\せーんせっ/



「ひばりくん」


先生の心地の良い低音が耳に届いた。目を走らせていた本から視線を上げれば、思いの外先生が近くまで来ていて知らず肩がビクリと跳ねた。先生はそんな私を茶化したりはしなかった。


「どーしたんですか?」

「明日、私がずっと欲していた本が宗達の店に入る。先程連絡があった。そこで君に取りに行って貰いたい」

「何で私なんです?」


先生が行けば良い…と云うか、いつもなら枯島さんが持ってきてくれるような気がしたけど、どうしたんだろう?
疑問をそのまま口に出せば、先生はむすっとした表情になった。え、何でそこで怒るんですか?


「私は締切が近いから取りに行く暇は無い」


確かに締切は近いけど、言うほど暇が無いわけでは無いように見てると思う。


「先生…外に出たくないだけですよね?」

「そして宗達自身が来ないのは、明日は店を一日開ける訳にはいかない事情があるらしい。私にはそんなこと微だにも関係無いし、客の為なんだから今すぐにでも持ってこさせたいくらいだが、私もそこまで鬼ではない」


話を逸らした!図星だ!しかも私は先生が其れくらい鬼だと思ってましたよ!
思ってることが顔に出てたのか、例の如くおさげを引っ張られた。痛い痛い、引っ張んないで下さい!


「兎にも角にも、此れは重大な任務だ。もし持ち帰る最中に蟻粒だろうと汚したりしたら――」

「な、なんですか」

「そうだな…手始めに、探偵ごっこをいい加減辞めて貰おうか」


いつだかの勝負時にも同じことを聞いた気がして、今度は“探偵役”として平和に逃がしては貰えないだろうと瞬時に悟る。…っていうか!


「“手始め”って何ですか!何個要求する心算なんです!?」

「阿ッ破ッ破ッ!気が済むまでだ!私が長年欲した本だからなぁ…其の場合は、覚悟しておけ」


急に声音があからさまに変わって、念を圧されまくった。「まあまた探偵ごっこ取り止めじゃ詰まらないか。何か別のことにしよう」と完全に私が本を汚す前提で話を進める先生。

絶対に汚したりしないもん!
斯くして、私は明日の学校帰りにお遣いをしなければいけないことになった。



――――――――――
――――――――――――…



ゆへちゃんに手を振って別れて、見慣れた景色から外れた方向へと歩き出す。穀雨堂までの道を辺りを少し見渡しながら歩く。
見覚えのある看板を見付け、少し小走りで寄ると、中から聞き知った優しい声音が聞こえた。――枯島さんだ。


「ごめんくださーい!」


お店に「ごめんください」もおかしな話だが、どちらかと云うとお店に買い物に来たと云うよりは、知り合いの人の家に遊びに来た感覚なのだ。私の声に気付いた枯島さんは、いつもの柔らかな雰囲気をそのままにゆったりした足取りで入り口までやってきてくれた。ひらりひらりと肩に掛けた羽織が波打つ。


「いらっしゃいませ、可愛い女学生探偵さん」

「何で突然そんな呼称―――…」
「あーーーっ!ひばりさんだ!」


枯島さんが名前で呼ばずに茶化しながらそんな言い方をしたので、疑問符を浮かべてそのまま問い返せば、店の奥から聞き覚えがあるような声がした。ばたばたと騒がしく此方にやって来たのは、


「あ、刑事さん!」

「覚えててくれたんですね!」


パァッと顔を輝かせるのは、両国での事件の際に知り合った刑事さんだった。けど何で此処に居るんだろう?
刑事さんは私と話したそうにしていたが、もう一人の――確か員南さんと言ったか――刑事さんに「此処はもう終わりだ」と耳を引っ張られて、泣きべそかきながら店を出ていった。子供か。


「さて、今日はどうしたんです?」

「あれ?先生から聞いてませんか?先生が欲しがってた本を、枯島さんが手に入れたからって、私が取りに行くことになったんです」

「えっ…先輩…」


聞いてないよ…と枯島さんが困ったような顔をする。私が取りに来てはいけなかったのだろうか?私の顔に出た不安げな様子を見た枯島さんが周章てて取り繕うように話し出す。


「別に必ず先輩が取りに来なきゃいけない訳では無かったんだけど…なるべくなら先輩のが安全だったかなと…」

「“安全”?」


うん、と枯島さんが一つ頷いた。何か曰く付きの本なのだろうか。其れとも盗み出した本だとか…考えはどんどん悪い方へ進み、眉根を寄せて難しい顔で考えていると、枯島さんがくすり、と小さく笑った。


「何です?」

「いや…此の本実はね、希覯本も希覯本なんだ」

「つまり凄く珍しいんですね!?」


私がわっと乗り出してそう詰め寄ると、一気にキラキラ輝かせた目に変わった私に枯島さんがまたもや笑う。笑い過ぎだよ。


「そうなんだ。――だからこそ、コレクターはとても欲しがる」


急に空気を変えた枯島さんに背筋がざわわと鳴いた。周りの温度も少しだけ下がった気がした。


「此れを仕入れたことはいの一番に先輩に知らせて、先輩にしか言わなかったのに、一体どこから漏れたのか、厄介な輩に“売って欲しい”と言われちゃってね…もう先輩に連絡した後だったし、そもそも先輩が探してたのを知ってたから今回少し値が張ったけど仕入れたんだ。“先約がある”って断ったんだけど…」


枯島さんの顔に暗い影が射す。
どうやら脅されたんだろう。なんだかんだと言いつつ、枯島さんも強いところがあるので完全に断れはしたんだろうけど…


「気を付けて帰るんだよ。出来るなら走ってでも先輩のとこに一秒でも早く向かうんだ」

「枯島さん幾ら何でも心配しすぎじゃ…」

「心配に“しすぎ”は無いよ。君に何かあったら先輩に殺されてしまうよ」

「まっさかぁ!」


余りにも不安そうに枯島さんが言うから、私も怖くなってきちゃったけど、きっと、お遣いを無事出来なかった時の先生の方が怖いから、大丈夫、と言い聞かせて、気丈に振る舞った。
其れに“私”に何かあって先生が怒ることなんて無いと思う。枯島さんは勘違いしている。きっとそうなった場合は“本”に何かあったからだろう。
…言ってて少し悲しくなってきたけどね。

先生の家に着いた頃に連絡を入れる、と枯島さんはそう言いながら私を見送った。枯島さんが店を離れられないのは本当だったようだ。外に出たくないからと私を遣いに出す先生とは大分違う。根性から違う。


てくてくと先生の家の方向へ足を進めていく。しゅうー、背後で液状のモノが何かに掛けられた音がした。
振り向くのと、誰かに羽交い締めされるのは同時だった。


「んーッ!?」


口をハンケチで塞がれる。ふわりと香るは薬品の匂い――さっきの?疑問符が頭に浮かんでも、朦朧とする意識の中じゃろくに考えられなかった。まずい――…
先生の背中が浮かんできたと思ったら、呼ぶ私に気付かず、遠ざかった。

こっちむいて、欲しいのに。



――――――――――
――――――――――――…


「遅い」


女学校は当の昔に終わっている筈だし、其れから多少の用事があったとしても、宗達の店に行って少し世間話をしたとしても、幾ら何でも遅すぎる。


「何処をほっつき歩いてるんだあの莫迦小娘…」


まさか遅くなったからとでも言って、明日本を届ける気では無いだろうな?もやもや苛々しながらそんなことを考えていれば、電話が鳴った。急いで受話器を取ると、掛けてきたのは宗達だった。


「何の用だ」

『先輩、何で怒って―――まさか、ひばりちゃん未だ来てないんですか?』

「其の通りだ。――ん?待て。其の言い方…お前のところにひばりは来たんだな?」


宗達の言葉に違和感を覚えてそう聞き返せば、宗達は何も答えなかった。小さく何かをブツブツ呟いている。嫌な予感がした。心臓がドクドクとやたら早く脈打ち始める。


「宗達!!ひばりは何処だ!」


有らん限りに、じとりと汗かく手で握る受話器に叫んだ。



――――――――――――
――――――――――――――…



薄らと目を開ければ、二人の男の背中が見えた。状況が解らなくて、必死で眠る前の記憶を手繰る。ピン!と突っ掛かった糸が私を現実に引き戻した。
思わず声を上げそうになったが、其の場合ろくなことにはならないと本能が其れを塞き止めた。耳を澄ませば、彼らは何か話し込んでいるようだった。


「やったぞ…手に入れたぞ…」

「けど、女まで連れてきちまいましたぜ?どうすんスか…」

「そんなもんどうとでもなる!本が手に入ったことが重要だ」


やっぱり本を…未だ回りきってない頭で必死に、本を奪還しつつ逃げる方法を模索する。早く先生に届けなきゃ。きっと待ち草臥れてる。


「ていうか、此れ、あの久堂蓮真が買った本なんでしょ?」


久堂先生を知ってるんだ――…


「だから何だってんだ!手に入れなきゃ俺らが殺されるだろ!…しっかし、取りに来たのが女で助かったよなぁ…コイツ其の久堂なんちゃらの何だか知らねぇが、傷の一つでも付ければ、取り返しに来る気も無くなりそーだな」

「えっ、やっちゃいます?」

「みなまで云ーな」


そう言って、二人は此方を振り返る。咄嗟の事に反応出来なかった私はバッチリ目が合ってしまった。ニヤァと下卑た笑みで細められた瞳が私を舐め回すように見下げた。ああ、どうしよう。先生、先生、助けて。早く助けて、先生。

周りの音なんてもう聞こえなかった。
唯伸びてくる手が、私の首に掛けられそうで、久堂先生の手だったら良かったのに、と場違いなことを思った。――そうだ、此の手は、先生じゃないんだ。
バッとスカーフを取られ、ジャケットを剥がれて“傷を付ける”とはそっちのことか、と何故だか冷静に考えていた。ブラウスの前を開けられ、赤黒い舌先が、


「い、やだ…!!先生…!!早く助けて先生!」


恐怖に煽られ喉は勝手に叫びを上げた。男達は戸惑い動きを止めた。其の時だった。背後の扉が物凄い音を立てて、此方に倒れ込んできた。長い間掃除をされてなかったであろう部屋は、倒れた扉と共に埃を巻き上げた。舞い上がった埃の中に、見慣れた黒が居た。


「せっ…」
「返して貰うぞ」


いつだかにも聞いた台詞をぶっきらぼうに吐いて、先生は私に跨がる男を顔面から蹴り飛ばした。ゴキィッと凄く鈍い音と共に、男は壁に吹っ飛ばされる。「兄貴ィッ!」と上下関係的に手下だったらしい男が直ぐに駆け寄った。
其の二人にカツカツと近付いていく先生。私からは顔が見えないから、どんな表情かは解らないけど、纏う雰囲気が人を殺しそうだった。


「どうする?私が欲した本を横取りしただけでは飽き足らず、私の大切な子にまで手を掛けようとした其の報いは何が良い?選ばせてやろう」


ゾッとする声だった。こんな声が出せるのだと、本気で畏怖した。


「其の、脳味噌の代わりに泥でも詰まってそうな頭を踏み砕いてやろうか、阿破破!」


凡そ此の場に似つかわしくない笑い声には、笑いは含まれていなかった。込められていたのは、ただただ憎悪だった。あの時も怖かったけど、比じゃなかった。怖い。恐い!


「先生!」

「!」

「だ、大丈夫です!私はなんともありません!ほらっ」


震える身体を支えながら、私はガッツポーズをしてみた。ひきつってるのは解ってるけど、笑みも浮かべて。だって、先生に犯罪なんてさせたくない。素敵な推理小説を紡ぐ為にある貴方の手を、身体を、汚させたくなんか無い。
先生は半分だけ振り返り、ちら、と私を見遣ったが、直ぐに眉根を厳しく寄せた後、また男達に向き直った。そうして手下の方を勢いよく蹴り上げた。潰された蟇のような悲鳴を上げて、男は床に伏した。


「――ひばりくんに感謝するんだな」


そう吐き捨て、今度こそ私の方を向き、此方に歩いてきた。歩きながらコートを脱ぎ、私の目の前に辿り着いて膝をつくと、私の肩にふわりと其れを掛けた。そうして一言。


「此の莫迦め」


いつものような罵声にも聞こえるのに、顔が歪み、声が震えていて、先生が苦しんでいることが解った。

先生は怒るだろうけど、ひばりは今とても嬉しくて仕方が無いです。



――――――――――
―――――――――――――…



其の後刑事さん達がやってきて――なんと員南さん達だった――私達に事情を聞いて去っていった。日を改めろ公僕共、と先生は怒ったけど、私は証言が丸一日無いのは困るだろうと、今日話すことを選んだ。未だ怖いけど、どうにか話せた。


「そうだ、先生」

「…何だ」

「はい、此れ。きちんと守り抜きましたよ」


警察から意外にも直ぐに返して貰えた本を差し出す。幸い汚れてはいなかった。其れを見ると先生は悔しげに顔を歪めた。あれ…?


「確かに本を守り抜けとは言った。――だが其の代わりに君が傷付いて良いとは言ってない」

「え、」

「君が居なくなったら、誰が私の飯を作り、洗濯をし、屋敷の掃除をするんだ。何より、君の珈琲を飲めなくなったら仕事が出来ない」

「せんせ…」

「私の世話を誰が焼くんだ」

「えっと、」

「二度と私の肝を冷えさせるんじゃない、解ったな?ひばりくん」


至極真面目な顔で私にそう言い切った先生。自分のことしか言ってないけど、其れでも、心配してはくれてるんだと解って、自然と笑みが零れる。


「何を笑う要素があった気持ち悪い」

「失礼な!うら若き乙女になんてことを!」


調子を取り戻した私達は、先生を左に、私を右にして、屋敷まで帰った。家路には一冊の本も供をする。
先生、先生、やっぱり私嬉しくてしょうがないです。


「先生、こっち向いて」

「あ?」

「ありがとうございます」


口悪く返事をしながらも、私の呼び掛けに気付いて振り向いてくれた先生に、出来うる限りの最高の笑顔で感謝を述べた。



2014/04/16
07:50 Wed
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