記憶に香る花の縁

サクサク鳴る草を踏み、低い生け垣を飛び越えて、自分だけの秘密の場所へ駆け進む。今日は珍しく売店の焼き立てパンをいの一番に買うことができた。こればかりは飢えた友人達に見つかる前に一人でじっくり堪能せねばならない。鼻歌交じりに息を弾ませ所々色を変えた木の葉とすれ違う。
ちょうど半年くらい前。入学したての時分に迷い込んだやたら広い庭園のちょっと奥。旧温室とやらがあるその場所はあまり人が来ないらしい。それとなく人に聞いてみても庭師のじいちゃんくらいしかその場所を知らなそうだ。特に一人が好きというわけではないけれど、静かな空気を気に入ってたまに足を運ぶようになった。秘密基地、という年でもないんだけれども。

温室を囲む古ぼけた煉瓦の壁際に備えられたこれまた年季の入った木製のベンチ。勝手に指定席にしたそれは、寛ぐには今が一番ちょうど良い季節だろう。
この後味わえる戦利品の味を想像しニマニマ笑う。少し冷える風を、両手に抱える袋のぬくもりと芳しい薫りで吹き飛ばしながら漸く見えてきた赤茶の壁を目前にして。


「ん?」


と違和感に眉を寄せた。
何か嗅ぎ慣れない匂いがする。


「ん〜?」


キョロキョロ見回しながら煉瓦の壁に手をついて、堅牢そうな扉を過ぎ、角を撫でながら曲がって、お気に入りのちょうど良い日陰を作る木の前まで来てやっとその原因に行き当たった。


「何だこれ花の匂いか」


見上げた先の木の枝に鈴なりに生る花の塊。真下まで来ると尚匂いは強く甘ったるい。うへっと思わず歪めた口の中にパラリと舞った橙色の花弁が入りそうになって慌てて唇を引き結ぶ。と、不意にふ、っと誰かが噴き出す声がした。


「花の香りにそんなに嫌そうにする声は初めて聞いた」


突然の声に驚き見回しても、今度は何も見当たらない。何だ誰だと目も頭も巡らせて、壁の向こう、旧温室の敷地内にいるのだと思い至った。


「お気に障る発言失礼いたしました」


本来閉鎖され、鍵のかけられた敷地に入れる人間なんてそうはいない。声は若いから自分と同じ学生ではあろうが、だったら少々不味いことになる。背中を伝う冷や汗にぐっと息を飲み込むと、風に混ざりそうな軽さで別に、とだけ聞こえて、それ以上何も言われなかった。硬直する俺の周りをさわさわと風と葉の擦れる音だけが流れる。
身を固めたままジーっと待って、ひたすら待って。キイっと戸の開く音と閉まる音が続けて聞こえて大きく息を吐き出した。短時間でへとへとになった体をベンチに沈めがさりと鳴った袋を見下ろす。折角ホカホカだった焼き立てのパンもぬるいを超えて冷めていた。
悲しみに包まれながらも過ぎ去った脅威に胸を撫で下ろし、気を改めて剥離紙を捲って思いっきり口を開いて今日一番の楽しみにかぶりつく。大振りのウインナーが挟まれたパンは香辛料のピリッとした辛味もたっぷり溢れる肉汁も店員が力説するだけの事はあり、それはもうとてもとても美味しく成長期の腹にも満足なもので、あったのだけれど。


「花の匂いが強すぎてくいづれぇ……」

「じゃあどうしてここで食べているんだい」

「……っ!?」


噛みかけのパンが喉に詰まりかかり慌てて胸を叩く。パックのジュースを流し込んでどうにか生還を果たしていると、去っていたわけではなかった誰かが申し訳無さそうに話しかけてきた。


「ごめん、独り言に返すものじゃなかったなかったね」

「い、……ガホッ、っ、いえ」


咳払いを繰り返しどうにかつかえが取れ深呼吸。こっちはどうにか落ち着いたけれど、あちらはどうにも気まずい。うぅん、と唸り、ガサガサと出したものを袋へ仕舞う。自分が先客、と言いたくはあるが厄介な人物とやり合う気はない。名残は惜しいがもうここへは来ない方が良いんだろうな、と尻をはたいて壁の向こうへ声をかけた。


「……すみません、お騒がせいたしました。失礼いたします」

「いや、騒がせたのはこっちだよ。気にせずそこで食べなよ」

「しかし……」

「ん〜、あぁ。何か噂みたいな、気に入らないからって誰かを好き勝手にできるような力もコネも俺は持ってない、っていうかこの学園にそんな事できる人いないからそこまで畏まらず好きにしてよ」

「あ。そーなんすか」

「一気に軽くなったなぁ」


そうなのか?マジっすか。生徒会だのなんだの偉そうな立場にいる人達はなんかすげえ権力持ってて逆らうとヤバいとか、入学前から色んな人らが言っていたから気を付けるようしてたんだけど。そうでもないんか。廊下で行列引き連れるスクールカースト高そうな人たちを見かけては友人達とこえーこえー言ってたけど、先輩たちの揶揄いなんかを皆で真に受け過ぎていたのかね。まぁ良かった良かった。
あー安心したら腹減った。と仕舞ったパンを取り出してかぶりついて、思いっきり鼻呼吸で吸い込んだ花の匂いにまたウへる。その一連の動作が向こうにも伝わったのか乾いた笑いが聞こえてきた。


「ここに、他の人が来るなんて思ってもいなかったよ」

「あー、誰も来ないから秘密基地感覚でたまに来てたんすけど、不味かったですかね」

「俺も似たようなものだよ。まぁそれも今だけで、もうそろそろすると来なくなるから安心して探検すると良いさ」


いや探検はしないけど。言葉のチョイスをミスったと咀嚼しながら少し後悔していれば、それじゃあお先に、という声と重そうな扉が閉まる音がしてハッとする。午後の授業、すぐ戻らないと間に合わない。
慌てて残りを口に詰めジュースで流し込むという勿体無い食べ方をして軽くなったビニール片手に走り出す。そうだな。あの堅牢な扉がキイキイ言って開閉するわけなかったな、なんて思いながら先生の説教を受け、ついでに当てられた問題にわかりませんとはきはき答えて叱られた。


そんな日から二、三日。今度は限定の特盛から揚げ弁当をゲットして意気揚々とかの場所へ。念の為、壁の向こうへおーいと声をかけてみたけれど返事は無く。本当に来なくなったのかと言われた通り安心してベンチに積もった花を払う。そうして難の邪魔もされる事なく戦利品を堪能した。


それが最初の年の事。


――


今年も食べ物の美味しい季節がやってきた。たったか足音響かせて、未だ誰にも教えていない自分だけの場所を目指して駆けていく。赤茶の煉瓦が見える頃、鼻先をヒヤリと撫でた風に肌寒さと、何かひっかかる匂いを感じて歩調を緩ませると。


「食い意地が張ってそうな人の匂いがしてきたね」

「パンの匂いですが?」


あぁ、思い出したわ。
一年振りに感じる花の匂いと壁の向こうの声。嫌味っぽい言い草にキレ気味に返してベンチにドカリと腰掛ける。今の今まで忘れていたけどこのやたら甘ったるい匂いで何となく思い出せた。去年同じ頃合いに会……ってはないけど話した奴だ。
それにしても、果たして壁の向こうにこの手元の香ばしくもほのかな匂いが届くものなのかと考えて。やっぱり声色の通り揶揄われているのだと結論付けつつビニール袋に手を突っ込む。気を取り直すためにも美味いものを、とかぶりついて匂いを鼻からいっぱい吸い込んで。


「やっぱこの匂い食いづれぇ……」

「いや……だからそんなに嫌ならどうしてここで食べるの」

「……ここを気に入っているから?」


ふふっと吹き出す笑い声に顔を顰める。声しか聞こえない相手に格好をつけるのも馬鹿らしいと正直に答えた方が馬鹿だった。眉間に皺を寄せながらもう一度パンにかぶりつく。……うん。美味いんだけど、食い難い。


「そうだね。俺も、ここを気に入っている。最も、俺の場合はこの花が一番の目的だけど」

「こんな匂い強いのが?」

「君の好みではなかったかな?」


いや、強過ぎるのが食事をするのに辛いだけなんだけど。でもこの匂い自体は好みかというと、うぅん、そういうのはよく分からんので何とも返せない。
曖昧に答えれば、壁の向こうから自分にとっては良い香りなのだとしみじみした声がした後大きな深呼吸が聞こえた。


「人工的なものは得意でないのだけれど、花そのものの香りはささやかで和むよ」

「人工?香水とか?人が作るんならそっちのが良い匂いになるんじゃないのか?」

「そこは人の好き好きかな」


ほーん、と漫ろに返しながらパックのコーヒー牛乳をすする。だいぶ慣れてはきたけど、ささやかというには自分にこの花は強烈な気がするなぁ。好き好きと言われればそうなんだろうけど。


「花の香りでも、特にこの花の香りが好きでね。何よりも記憶に残る。今の季節の、短い間だけにしか嗅げないからかな」

「あー……?思い出補正みたいなもん?」

「たった今体感しているもので補正も何もかかりようがないじゃないか」


確かにー、なんてやる気なく返して空になった袋を片手に空を仰ぎ見る。青々と茂る硬そうな葉っぱの隙間にくっついていた橙色の花はもう散りかけなのか残り幾ばくも無い。
この花を気に入ってきているという事は、これが全部落ちたらまたここには来なくなるんだろう。まぁ自分をこれ以上寒くなったら別の秘密基地を利用するつもりだけど。
また一つ二つ、パラリと振る花を目で追いながら立ち上がり今度は自分が先にその場を立ち去る。次来た時はいないんだろうな、なんて思っていたのに今年は続けて売店限定を手に入れる機会に恵まれ、また意外に花もしぶとくて、特に記憶に残らないような会話を何度か壁の向こうの誰かと交わした。








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