「ひさしぶりね」 白い息を揺らして、しのぶが嬉しそうに笑った。いーしやーきーいもー、いやでもほこほこした冬の味の暖かさを喚起させる録音源が、河原のすぐ下の通りから聞こえてくる。 後ろ姿ですぐ分かった。Aラインに広がったベージュのウールコートに、中にはスカートを履いているのだろうか、黒いタイツとくるぶし丈の短いブーツをあわせて、柔らかそうな赤いのマフラーを巻いていた。肩にかけたバッグはよくわからん横文字のブランド名が入ったこっくりとした茶色のもので、そこかしこにリボンのモチーフが施されている。コートの背中にもリボン。ブーツの脇にもよく見たらリボン。つくづく女らしい格好だ、と思う。大学で見かけてもいつも、雑誌に出てくる女子大生のお手本のような流行りの格好に身を包んでいる。 「冬休みだからなあ」 進む方向が一緒だったから自然と並んで歩き出す。 冬の夜は早い。5時にはもう真っ暗だ。 「どこかへ行くところ?」 俺は抱えるように持った風呂道具一式を少し掲げて見せた。 「あら、お風呂。いいなあ、あったかそう」 「風呂はいいんだけどよ、行き帰りが寒くてたまんねー」 「入ってきたのね。髪の毛、いい香りがする」 ふいに笑われて思わずドキッとしてしまう。 しのぶは随分綺麗になった。 高校生の頃よりお洒落になったようだし、体のすみずみまで手入れにも更に気を使うようになったのだろうけれど、それだけじゃなくて。 「しのぶも帰りか?」 進行方向はしのぶの家の方向と一致している。とはいえ川沿いのこの道は駅からの通り道でも、あいつの家からの通り道でもない。 「図書館でレポートの資料集めしてたの」 「図書館?」 といえば、確かに反対方向にはあるが、しのぶの家への最短距離はこのルートではないはずだった。 「なんか疲れちゃって。遠回りして帰ろうかなって」 考えを読んだように先回りしてしのぶが答えた。 疲れたなら真っ先に家に帰るのが普通だろうに、と思ったけれど「そーかよ」とだけ言っておいた。 今時の若いおんなの考えることはどうも分からん。その中でもしのぶの考えることは特によく分からん。 「竜之介くんは冬休みの課題終わった?」 「おれんとこの学科には課題なんてねーよ」 「そうなの? うちなんて試験のために読まなきゃいけない本が10冊も20冊もあってもう大変」 「へー。文学部ってえれえ大変なんだな」 黒い髪が冷たそうに肩の上を背中へ滑っていった。寒さからか、膨らんだ頬が赤い。その向こうで暗い川面がマンションや街灯の明かりをゆらゆらと反射していた。 何が分からんってそりゃあ、あんなに浮気癖に呆れていたくせに結局あの男と今も一緒にいるってことだ。 「まあ、それでも、入りたくて入った大学だもの。頑張らなきゃね」 すぐ隣に立つ大学の商学部に通うあの男は、暇さえあれば(というかむしろ授業にちゃんとでているのか疑わしいくらいの頻度で)俺としのぶの通う女子大にあそびにきている。恋人に会いに来ているのか敷地内にいくらでもいる他のおんなにちょっかい出しに来ているのか判断はつきかねるが、しかしキャンパス内で二人が並んで歩いているのはよく見かける。 高校時代心底辟易していたのに。奴の浮気性に関しても“入りたくて入った大学”の理屈で頑張っているのだろうか。 「あいつは元気かよ?」 「あたるくんのこと?」 自分には理解できない。 「まー相変わらずね。冬休み前の補講は無理やり行かせたけど、課題もまだ全然手付けないで遊び回ってるし。どーせ学校始まる直前にまた本の丸写しみたいなレポートを一夜で書くはめになるんだわ」 しのぶは腕を組んであたたかそうなため息をつく。怒るような呆れるような口調には、身内の甘さが感じられた。 「わっかんねえなあ」 「ほんと。さぼっても自分が苦労するだけだっていつも言ってるんだけどね」 「じゃなくってよ」 黒い目がくるりとこっちを向いた。 「なんでしのぶはあんなばかと未だにつるんでんだ?」 「まあ、あれでも、いいとこあるのよ」 「そりゃ〜悪いとこばっかじゃねーのは、そうなんだろーけどよ〜」 しのぶとあいつは、相当幼い頃からの知り合いらしい。いわゆる幼馴染というやつだ。学校が離れれば疎遠になるような仲ではないことくらいは分かる。 それでもやはり不思議だったのだ。 「俺は、しのぶは別のやつが好きなんだと思ってたぜ」 自分の息が白く濁ったのを視界の端に追って、そこにひととき過去の映像を蘇らせる。 騒がしい教室だった。 はた迷惑な悪乗りが過ぎるクラスメイトで、しのぶとあいつはまだ、今のような恋仲じゃなくて、彼らのまわりにはいつも人がたくさんいた。しのぶはいつも笑ったり怒ったり困ったりしていたけれど、時々、そっと言葉をつぐんで、ある一人のことをずっと見ていた―――― 明らかにあれは恋だと思っていた。 それなのに夏が明けると突然、しのぶはあの男と付き合いはじめたのだった。そしてその頃からだ、しのぶがぐんと綺麗になったのは。 何が変わったということはない。むしろ不自然なくらい何も変わらなかった。 3年次はクラスは違ったけれど、廊下で見るたびに肩で揃った黒い髪だけが季節に順応して伸びていた。気がついて手を振ってくるしのぶはいつも笑顔で、隣には大抵、あの男がいた。 最上学年である3年生は校内で唯一スカートを少し短くする特権を持っていて、彼女の周りの女友達はほとんどスカートを折ったり切ったりしていたのだけれど、いつまでも膝頭につく丈のまま長い裾をゆるやかに揺らして歩くしのぶの姿はだれよりも綺麗に見えた。今でも、しのぶのことを思い起こすときは、大学で見かける私服姿よりもセーラー服におかっぱ頭ののしのぶのほうがなぜかしっくりくる。意図的に彼女のまわりだけ時間が止められているような、少女の象徴のような姿で。 川から吹く風が急に鋭くなってしのぶの頬を刺すように撫でた。 そのうちに大きな交差点の脇でしのぶは川原を降りた。 「課題、頑張れよ」 「ありがと。また大学でね」 後ろ姿を少し眺めてから、一人でまた歩き出す。 しのぶは俺の言葉に返事をしないまま少しだけ笑った。 さらに問いただすことはしなかった。 やはりしのぶは変わった。髪の黒さも笑った声も変わらないけれど、昔よりどこか、化粧の臭いのするおんなになった気がするのだ。それはこちらが思わず引いてしまいたくなる威圧感と、折れてしまいそうに見える繊細さを併せ持った、触れてはいけないところの多そうでどうにも触れにくい、自分らと別種の楽しみをもった人間のかたち。 ま、当たり前だよな。時間が経てば変わっていくのは当然なんだから。寂しさなんていちいち感じていたって仕方ない。 ――――とはいえ、しかし、しのぶもとんだ好きもんになったもんだよな。 面倒な奴の面倒見るのが趣味ってなら別にいいけどよ。確かに、あの男の愚痴を言う時しのぶはいきいきとしている。多分幸せなんだろう。どうしてあいつとくっついて幸せなのか、やっぱり自分には皆目分からないけれど。たった2、3年で好みのタイプもがらりと変わるのだろうか、おんなってやつは。 いいとこあるのよ、とついさっき隣で困ったふうに笑ったしのぶの顔を思い出そうとしたけれど、やっぱりすぐに浮かぶのは濃紺のセーラー服のタイを揺らして廊下を歩く姿だった。 「……やっぱおんなってよくわかんね〜なあ……」 みんないつのまにおとなになったんだろう。高校時代から着潰しているジャケットのポケットの中の小銭をちゃらちゃら弄りながら、俺は星の出始めた黒い空を見上げてひとりごちた。 |