階段を昇りながら後姿の諸星の表情はよく分からないけれど、ちらりと見える頬がこころなしか赤く染まっている。 (だって、トイレなら上の階にもあるのに……) (……) 「…………あ、ありがとう」 「だーかーら、便所行こーとしただけだと言っとろうが! 自惚れるな!」 「うわわっ、ばか、急に止まるなっ――!」 「ん? んわっ!!」 歩幅が小さいから、諸星に手を引かれながらついていくのが精一杯だった。 急に止まられて慣性で前に倒れこむ。 反転しそうな視界に振り向いて見開かれた瞳が映りこんだ。 「―――い、たたた」 「…ん……?」 思ったよりも衝撃はなかった。 というのも、階段に尻餅をついた諸星に倒れこむようなかたちになっていたからだ。 倒れこむ、というよりもなんというか、膝に乗って腕の中に抱かれているような姿勢といったほうがよいかもしれない。 「わわっ、わ、悪い」 すぐに退こうと手を置いていた諸星の胸板を押して上体を起こそうとすると、その手首を取られた。 その触れ方が妙に優しくて、間近であった目のうつしだす光が妙に柔らかくて、戸惑う。 「いいって。怪我ない?」 「なっ、なっ、な、いけど…」 「よかった」 諸星の笑顔のまえに、自分の顔が熱くなるのがわかる。 (な、なんだこれわっ…) 自分は男で、いまはたまたま体が女になっているだけで、いや、もしかしたらこの機械はセックスのみでなくジェンダーも転換する機能があったのかもしれない、だって、だって、こいつのことをかっこいいなんて思うなんていくらなんでもまさかそんな、あああ心臓が煩い……って、 「ねえ、」 (なんか、顔が近い…ような…) 背中にまわされていた手が撫ぜるように少しずつ上に伸ばされて、髪を梳くように滑った。 「なんか香水つけてる?」 「…悪いか」 「ううん、」 いい香り。ささやくようにいって、長い髪の先を鼻先にやった。…キス、されたみたいだ。 「……いたずらがすぎるぞ…、諸星」 「…いたずらじゃねえよ」 いつの間にかどんどん縮まっていく距離に反比例して、二人の声はまるで秘め事話をするかのように小さくなっていった。 心臓がおかしいくらいに鳴っている。 やっぱり、異世界の機械のせいでおかしくなってしまったのかもしれない、いいやきっとおかしい。 頭ではきっぱり分かっているのに、雰囲気に呑まれてもう戻れない。 見つめてくる瞳が放つのと同じ熱を、きっとじぶんもいま宿している。 「…も、ろぼし…」 唇と唇が、触れそうになった瞬間―――― 「くおらあああお前ああ!! 予鈴はとっくに鳴っただろうが、教室に戻れえええ!!!」 「「……ふえ?」」 鼓膜をつんざくかと思われるほどの怒声が響いたかと思うと、廊下側の壁の後ろから追われるように先ほど自分を取り囲んでいた男子生徒達が出てきた。 「お、お前らっ覗いてたのかーっ!」 諸星が立ちあがって叫ぶ。 「おいあたる、お前っ……!」 「授業さぼってこんなところで…」 「いや、お前らだってサボりだろうが!」 「うるさい、抜け駆けは許さーーーーん!!」 「こ、これは、えと…」 「何してんだ、さっさと逃げるぞ!」 「え、あ、…」 状況を把握できずにあたふたしていると、掴まれた手をそのまま引っ張られた。 追いかけてくる大群を視界の端にうつしつつ階段を駆けのぼる。 階段をのぼるのが妙に楽になったようだとおもったら、自分がいつの間にか白いスラックスを履いているのに気付いた。 「って、あ、戻ってる…」 「ん?」 諸星が走りながらちらりとこちらを見た。 「あー、やっと10分経ったか」 どうやら10分経てば元に戻るものだったらしい。 それならそうと最初に言ってほしいものだが。 しかしやはり着慣れた学制服が一番落ち着く。 鬱陶しかった長い髪も消えうせ、ようやくいつもどおりの動きがとれるようになった。 (…さっきのはいったい何だったんだろう……) 普段の体に戻って、ようやく少し冷静な思考を取り戻してきた。 たぶん、自分もこいつも、どこか変だったのだろう。いや、たしかに変だった。 変なタイミングで変な茶々が入ったから変な空気だけが二人の間に残った。いや、あのまま続けていてもそれは変だったのだけれど。 ……でもいまだに繋いだ手の温度がなぜか心地よくてはなす気になれない。 はなす気配もないこいつの真意も、どこにあるのかよくわからない。 「ねー、さっきも思ったんだけど、」 「ん?」 「こういうのさ、」 繋いだ手をすこし上にあげてみせて、振り返りながら諸星が邪気のない顔で笑った。 「ちょっと『卒業』っぽくない?」 ――――何度も見てきた笑顔のはずなのに、なぜか変に活動をはじめるこの心臓も赤くなる頬もまったくもって意味がわからない! (お題:はじめての温度) |