「社長さん!」 ホテルのロビーを出たところ、車に乗こもうと歩いているところに、悪戯っぽい声をかけられた。 振り向いた先には、大根の頭を口から覗かせた買い物袋を腕に抱えた妙齢の女性。 付きの護衛達に一瞬緊張が走る。 手で制して「5分待て」と小声で言いつけてから、声の主に笑顔を向ける。 「しのぶさんじゃないですか」 昔と変わらない笑顔で彼はボディガードを残して一人こちらに歩いてきた。 「びっくりしちゃった、失礼だったかしら」 「とんでもない。久しぶりにお会いできて嬉しいです」 地元から電車で20分くらいの繁華街の駅前のデパートに今日は家族で出かけていた。 疲れたとぐずりだした子供を夫に任せて先に帰らせた後で自分は夕飯の買い物にと少し離れたスーパーで食材の調達をし、そのまま一駅先から電車に乗って帰路につこうというところだった。 隣の駅の近くは高層ビルの並ぶオフィス街で、いま彼が出てきた有名ホテルはこのへんでは一番のイイトコだ。自分なんかではおそれおおくて前を通るのもしのびなかったくらいの。 「すっかり社長さんね、面堂くん」 黒光りする車の前で待ての姿勢で直立して待機しているボディガードを見ながら言うと、彼は小さく笑った。 何か変なこと言ったかしら。 彼を見返すと、「いや」と昔にはあまり見たことのなかった少し照れたような顔をしていた。 「学生時代の人間には会う機会がないものですから」 「そうね、面堂さん同窓会にもさっぱり来て下さらないもの」 「そう呼ばれるのがひどく懐かしくて」 そう言われてはじめてハッとした。 もしかして、面堂くん、なんて馴れ馴れしい呼称、使ってはいけなかったかもしれない。 「ごめんなさい! つい…失礼だったわね、ごめんなさい」 「いえいえ、いいんですよ、そんなつもりじゃないんです。気にしないでください」 「……なんだか、話すと昔と変わらないのに、不思議ね。今じゃ超・有名人だもの!」 なんといっても面堂財閥の社長である、代替わりというそれだけで相当なニュースになった。 加えてまだうら若い好青年だったから、キャッチーな見出しでさまざまなメディアがとりあげた。 いまでも雑誌のインタビューやテレビ番組のゲスト出演で度々彼の姿は目にするし、更についこの前は独自の経済観をべースにした啓蒙書が異例のヒットを記録し、どこの書店にいって彼の著書が平積みされている。 本当に、住む世界の違う人だったんだなあ、と、結婚して一児の母になって自力で生計を立てるようになってから改めて思った。 それでもこうして会って話すと昔と全く変わらなくて嬉しかった。 「いやだなあ、からかわないでください」 ポケットに両手を入れて困ったように笑った。 上背を更に伸ばした体格は歳相応の男性らしさをしっかりと漂わせながらも締まっていて、紺のスーツに身を包むとそれが際立ってよけいに細く見える。 もうすっかり大人の表情をするようになった彼は、でも笑うと昔の面影があった。……というか昔から、彼は女の子には歳不相応に落ち着いた微笑みを見せる人だったわ。 「でも、変わってなくて安心しちゃった。ね、今度同窓会にいらしてよ」 「そうですね、僕も皆さんとお会いしたいんですけど。いかんせん仕事の都合が…」 「そうよね…、社長さんにお休みはないものね」 社長さん、ね。 やっぱり分かっていても、目の前の彼がとてつもなく大きなものを背負った社長には思えなかった。 自分にとってはやはり“面堂くん”なのだ。 笑い方も喋り方も何も変わらない。 「しのぶさんは、お住まいはまだ友引ですか?」 「ええ。実家からそう離れていないところに一応家を買ったのよ。子供が出来る前に」 「ああ…、ハガキ見ましたよ。お母さんに似て可愛いお子さんだ。将来に期待できますね」 「もう、今が一番大変なの。駄々っ子で暴れまわっちゃって」 「さぞかし可愛いんでしょうね」 「面堂さんは――」 ご結婚は?と聞こうとして、口をつぐんだ。 彼は気軽に自分の決めた相手と結婚できるような立場じゃないのだ。 和やかな雰囲気が一瞬沈黙に包まれて、察したらしい面堂さんに結局答えを促す結果になってしまった。 「僕はこの通り、独り身です」 「簡単に結婚できる身分じゃないものね。でも素敵なお相手はいくらでもいるんでしょう」 「まだしばらくは仕事が相手になりそうです」 答えを曖昧にぼかして笑う彼はおどけて冗談を言っているようでもあり、本当に苦々しそうでもあって、私には本心は見抜けなかった。 昔の彼は女の子には嘘はつけないタイプだと思っていたけど。 ……そうね。きっと何もかもまんま変わっていないなんてことはないのよね。 彼が社長になってまだ5年経つか経たないか、それでも面堂財閥の勢いはとどまるどころかかつてより多くの分野にその勢力を広げている。 まちがいなく彼は、あの学校を卒業した私達のなかで誰よりも成功した人間だろう。 華々しく成功していく彼の、そしてその企業の繁栄の裏には、彼によって笑顔を奪われた人々が数え切れないほどいるはずなのだ。 きっとそれはその人たちにとってはものすごく酷い、仕打ち。 そんな“酷い仕打ち”を数え切れないほどしてきたのだろう、目の前で優しく笑うこの人は、その手で。 ×
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