17 いつまでもワイシャツ一枚だった先輩が、ようやく冬服になった。 まだ暑さの残る衣替え期間がはじまって、ちらほらと黒の分子が現れたかと思っていたら、突然始まった長く冷たい秋の雨によって学内は一挙に黒く塗り替えられてしまった。 先輩はずいぶんギリギリまで(というか、期間を過ぎてからもなお)半袖で粘っていたけれど、このあいだの朝礼でしつこく先生に言われて今日からやっと冬服を着てくるようになったみたいだ。 その黒い学生服の先輩の後をついて階段を上る。 印刷室は3階の職員室の隣にある。明日の資料を前日に印刷するというのも僕からしたらどうかと思うんだけど、先輩が示達をなかなか出してくれなかったのだから仕方がない。 委員会の前日の放課後はそんなダメ委員会のダメ委員たちによって2機しかないオンボロの印刷機はフル稼働させられてしょっちゅう紙詰まりを起こす。なぜかそんな事情をよく知る先輩は昼休み、急に僕の教室に来て有無を言わさず手伝いを要求した。(なんて学校、なんて先輩だろう) 先輩は傍に委員長机に積まれた山の中から持ってきたとおもわれるファイルケースを一つ抱えている。風紀委員発行誌の原本が保管されている委員会で最も貴重なファイルのはずだが、管理体制は杜撰で今にも2、3枚のペラ紙がファイルから飛び出しそうにヒラヒラしている。 窓の外は穏やかな陽気。 春のような空だったが、上空は風があるようで、葉を落とし始めた木々の枝を風が時折揺れていた。 寸暇を惜しんで校庭に出て遊ぶ生徒達の声も、廊下で非生産的な馬鹿騒ぎに興じる生徒も、どこかに座って話せばいいものを階段の踊り場や廊下の端で固まってヒソヒソ話に花を咲かせる女子生徒も、お昼の後の廊下にただよう穀類と陽光の甘い匂いとあいまって、なんだかドラマの中の景色みたいだ、と思った。 「小泉さあ」 「はい」 雨が止んだ後、悪びれもなくやってきた秋は平年に比べいくぶん平和主義者のようだった。起伏のない気候、ぬるいような涼しいような気温で、大変おだやかにゆっくりと紐解いて行くように雲の輪郭はぼやかされ、空は日に日に少しずつ天井を高くしていた。 日の沈むのは毎日ほんの少しずつ早くなり、最近では、先輩達が塾があるからと帰るいつもの時間、もう窓の外は暗くなっている。 ついこの前まで夏だったという気もするし、もうすぐ冬だ、という気もする。 毎日があっという間だとも思うし、この春や夏のことを思い出すと、随分昔のことのようにも感じられる。 毎日毎日、いろんなことがあるし。 「来年なったら塾とか行くの」 先輩の茶けた毛のえりあしが、詰襟に引っかかって出たり隠れたりしている。 重いし硬いしいいところがまるでない、としきりに愚痴るその制服は、しかし着用してどんなハードな運動をこなしてきたのか、くたくたに馴染んでいるように見える。年中履いているスラックスのほうは更に歴戦の強者らしく、擦り切れた繊維が表面を光らせている。 まあ、3年間も着ていればそうなるのかな。 僕のはまだ綺麗で、肘もテカってない。 先輩の学ラン姿、久しぶりに見るなあ。 初めて会ったときくらいだもん。 教室の席から、入り口で名前呼ばれてみたとき、びっくりした。 黒いからかな、先輩のくせになんだか大人っぽく見えるし… 「おい聞いてんのか」 「え? えと」 先輩が二段上で足を止めてこちらを振り返る。 そうだ、塾の話だったか。 「特に予定はないですけど……」 目が合ったまま答えると、一瞬間が空いて、また前を向いて歩き出した。 うんともすんとも返事はない。 ……何だ。塾の勧誘? 人を勧誘する前に先輩は自分の受験の心配をした方が良いと思うんだけど。 「て、いうかーー」 口をついた言葉を、でも、考えてから言うのをやめた。 先輩がこちらを見た。 「なんだよ」 「何でもありません」 「小泉のくせに反抗期か?」 「僕が普段は従順みたいに言うのやめてもらえます?!」 「違うの?」 職員室で借りてきた印刷室の鍵を慣れた手つきで開けて中に入る先輩の背中を追いかける。 「違うに決まってるだろ!ばか委員長」 後頭部をひっぱたくのをもちろん忘れずに。 |