16 心臓の音がきこえた。 折れそうなくらい、鼻っ柱を押し付けた背中から。 「…………。バカ委員長」 「待て。俺のせいじゃない。」 ぶつけた鼻を手で撫でながら先輩の人差し指の先を見たら、線の細い縞猫がこっちを向いて一声鳴いてからすぐそこの塀を飛び越していった。 「……。まあ、轢くよりマシですけど」 「だろ?」 振り向きもせず、先輩は何事もなかったように運転を再開した。 いや、何が「だろ?」だよ。二人乗りにおける無断の急ブレーキなんてタブー中のタブーだ。謝れよバカ委員長……と、言おうとしたけど、やめた。 今思っても、なんで後頭部ぶんなぐらなかったのか分からない。 どうせまた可愛い女の人でも見つけたのかと思ったけど猫だったから拍子抜けしたのかも。 っていうか、猫。猫って。小さな生き物を尊重する人間としての理性が先輩にもあったのかと。 いつも正門の近くで寝てる野良犬を通りがけに邪魔だとか言って蹴飛ばしてたけど、なんなんだ。気分か。それとも猫派か。 つくづく、よく分からない人だと思った。 疲れてたのもある。 なんたって、先生達から逃げてきて、汚れた体育着のままだったし。 「先輩でも心臓が動いてるんだなあ……」 「は? 心臓?」 「さっき心臓の音がしたから、先輩も人間なんだなあと思って」 「当たり前だろ」 「先輩も、心臓止まったら死ぬんですね……」 「あんまり不吉なこと言ってるとトラックに突っ込むぞ」 「いやだし、っていうかそれ先輩も死ぬんですけど」 でもわからないか。先輩は地球が滅亡したって死ななそうだからなあ。 急に思い出したのだ。 昔見た、テレビアニメの話だ。 よく覚えてないけれど、神をも恐れぬ無敵の魔王に、主人公一向は挑みに行く。 魔王の唯一の欠点は心臓なのだという。 その胸を目掛けて、主人公は番えた矢を放った。 矢は果たしてそこをまっすぐに奥深く射抜いた。 にも関わらず、魔王は平然と立ち続け、あざけるように主人公に言うのだ。 「私の心臓は、そこにはない」と―――― 「なにそれ? グリム童話的な?」 「覚えてないんですけど、子供向けのアニメだったのは確かです」 「あ、あれか? 体の秘密は心臓の位置も内臓秘孔に至るまで前後左右全部逆ってやつか?」 「は? 違います。何ですかそれ」 「そのあとはどうなるか覚えてんの?」 「はい。魔王の心臓は、宇宙にあるんです。主人公は、宇宙に行って、心臓を一突きにするんです。それで魔王は死んで、囚われの姫は解放されて、終わりです」 「ふーん、良かったじゃん」 「はあ、よかったですけど……でも今思うと不思議ですよね。なんで心臓が体から離れてるのに魔王は生きてたんでしょうね。」 「そりゃ〜オマエ、そもそもんな魔王なんてのが現実にいねーんだから」 「そこはいいですよ。架空の存在とはいえ五体満足で目も耳も二つで口は一つ、人間とほぼ同じ身体構造ですよ。そこまで一緒なら、内臓の位置だって人間とある程度同じであるべきです。その一部分だけ違うシステムなんて非効率的ですよ。しかも心臓、生命活動の根幹に関わる大事な器官です」 「めんどくせーやつだな〜……」 「まあ……どうでもいいんですけど」 本当にどうでもいい話だった。ついつい熱こめて喋ってしまっていたから、急にはずかしくなった。 あの花火は思ったより高くついて、各委員会から費用を掻き集めても、足が出たらしい。 「はらへった」を連呼していた先輩に「どっか寄りますか?」と聞いたけど、 「お前金持ってんの?」 の一言ではっと我に返った。 身一つであの時先輩の後ろに飛び乗ったから、財布なんてバッグの中、教室のロッカーにそのままだったのだ。 先輩はポケットに入れてたらしいけどその中身はすっからかん。 特に示し合わせたわけでもなく、商店街を抜けたところで自転車は先輩の家と反対方向に曲がった。 ぼくんちの方向だった。 いつもの帰宅路とは違う道順で来たから少し遠回りで、普段通らない川沿いを自転車は走った。 川沿いと言っても涼しい風の吹く見晴らしのよい爽やかな、綺麗に道の整備された川原などでは全く無い。 ぼこぼこで所々ぬかるんだ、ほうほうに雑草が好き勝手に繁茂したくねくねの道だ。 先輩はさっきの急ブレーキで少し懲りたのか必要以上に安全運転で、僕なら走ったほうが明らかに速いようなスピードだった。 「あれだろ、なんかの暗喩だろ」 「え? ……アンユ?」 夕方の日差しが低いところからちょうど横向いた僕の顔に射してきて、一日炎天下駆け回って火照ったほっぺたが更に温くなって、まぶたが急に重たくなってきたところだった。 「要は全身に血液を行き渡らせるバネっつーかポンプだから、生きる原動力になるもんなら心臓って言えるんだろ、生物にとって」 正直、先輩が急に口を開くし、ゆっくり動いてゆく意味の無い景色は眺めているだけで長閑で、ぼこぼこ道の振動も独特のリズムもその時既に僕を半分眠りの世界へ誘っていた。先輩の低い声も聞きなれていたからか緊張感がなくて、疲れがどっと降りてきたのか、なんだかとても眠かったのだ。体のほとんどの重心を先輩にもたれていたように思う。 ちゃんと会話しようとしたし、返事しようともしたんだ。 心臓? さっきの話の続きか……なんで今? もしかしてさっき会話途切れてから、今の今までずっと黙り込んで、考えてたのかな? 変なの。先輩が、黙って、考えるなんて。 そんなことを、思考と呼べないほど軟質なかたちで頭に思い浮かべながら、先輩の声を頑張って脳内で概念に置き換えようとした。 えっと、アンユ、アンユって……何だ? だけどやっぱりあまりに眠かったから、まともな返事が出来なかった。 頬を押し付けた先の体温が、一定の鼓動を刻んで、そのまま僕の体に脳に流れ込んでくるみたいだった。 アンユ………………。心臓……。 よく覚えてないけど、気がついたら家の前で降ろしてくれていた。 先輩の汚れ切った体操着の背中は、そこの角を曲がってすぐに見えなくなった。やっとシャワー浴びて眠れるって思って即座に玄関のドアを閉めてから、送ってくれたお礼ちゃんと言わなかったなあって、やっと気付いた。 もったいなかったな。 日直の仕事を終え、部活を結局サボった倉田と雨上がりの道をさっきまで並んで歩いて、商店街前の交差点で別れて一人で歩いていたら、なんだか急にあの日のことを思い出した。 今だったら、迷わず突っ込むのにな……。 先輩が暗喩なんて言葉、意味まで的確に知ってるなんて。 天変地異としか思えない。 夢だったのかな? 夏の暑い日。 スピード狂の先輩が、妙にゆっくり自転車を漕いだ。 先輩の猫背の背中が暖かくて土の匂いがした。 何でか、すごくハッキリ覚えてる。 昼間の花火の音も…… 面倒くさがりの先輩がわざわざ遠回りして家の前まで送ってくれるなんて、 きっと後にも先にもあれっきりだろうな。 ……夢だったのかもしれないなあ。 → |