一人が好きなのかもしれない。 ――――って、最近になってようやく気が付いた。 15 一雨ごとに秋、とは言ったものだが、今年はやや勝手が違うようだ。 もう秋も半ばになってから出遅れたように雨が続いた。 肌寒くなった時期にしとしとと陰湿に降り続く雨は、人々の心を更に暗く、重くした。 そしてそればかりはどんな類の人間も例外でないらしい。 「倉田、倉田ってば」 「ん……何?」 「何じゃない。日誌。署名欄、名前書けってば」 「あ〜……」 うつろな目で、分かったのか分かってないのか倉田は差し出した僕の手からシャーペンを抜きとった。 頭を伏して寝ている状態から、案外器用に倉田は枠内に自分の名前をささっと書いた。 「こんなん小泉が適当に書いてくれりゃいいのに……」 「倉田のへたくそな字なんて真似できないもん。」 「くっそ真面目なんだからも〜……」 「あのなー。」 僕は日誌のびっしり書かれた今日のページをずいと倉田の目の前に開いて見せた。 「これ、全部僕が書いたんだからな!? っていうか休み時間もほっとんど僕が走り回ったし。文句言われる筋合い全くないし」 「俺だってやったじゃん……黒板消したりとか」 「僕が届かない上のほうだけだろ!? それも倉田チビだから届いてなかったじゃん」 「……チビゆーな。お前よりデカイし」 「155センチの僕よりでかくて何が嬉しいんだよ」 「……。」 ああいえばこういう……と、唇を尖らせたこいつは同じクラスの倉田俊雄、同じ出席番号のよしみで日直を共にして早半年だ。 「ほら。先生に出しにいこ。倉田」 「めんどくせ〜……」 「だらしない奴だなあ」 雨の日の放課後の教室は、蛍光灯の光の色がいつになく心もとない。少し冷たい気候、窓の外では体育館の屋根のトタンを水が打つ音、廊下からは並びの教室に残って何を話しているやら、女子の高い笑い声が時折届いた。 我が校の弱小バスケ部はサッカー部やバレー部から雨の日の体育館使用権をもぎ取ることなどできるはずもなく、ここ連日は階段上り下りや筋トレの室内トレーニングばかりだという。ボールを愛している倉田はすっかり行く気にならないらしい。今日は日直なので心置きなく遅れていける、と、僕が日誌を書いている間前の席で熟睡していた。それでもまだ寝たりないのか、いつまでも立ち上がろうとしないのを無理矢理引き剥がした。 「あ〜。やだやだ」 「やなのはこっちだよ」 「そーじゃなくて俺は雨がやなの。雨降ると生きる気力が出ない」 「僕は雨より倉田と日直なのがいやだ。」 「あ〜〜。やめてやめてそうやって更に俺の生きる気力をうばいとるの〜〜」 何が生きる気力だよ。大げさな。と、言おうとしたけどいつもうるさい倉田が本当に声がワントーン低いし肩がしんなりと落ちていて、これ以上の追い討ちは憐れに思えたから黙った。 天候一つでこんなにも気分が落ちるものだろうか……いや、そのせいで数日間バスケットができないことが、か? 倉田は暇さえあればボールに触ってるバスケ馬鹿で(団体競技に耐えうる甲斐性と協調性がこいつにあるのか甚だ謎である。チビだし)、授業は睡眠時間でテスト前はノート収集に勤しみ、口癖のように腹減った腹減ったと言いながら休み時間ごとに何かしら食べている完全に脳みそ筋肉馬鹿である。正直言ってまともな会話の成立した覚えがない。用さえなければあまり近づきたくないタイプだ。日直が同じにならなければ1往復以上の会話が成立する機会は得られなかったであろうと確実に言い切れる。 そういう意味では、ある人物を思い起こさせる…… 「……って……噂をすれば影」 「え? 何の噂?」 渡り廊下に差し掛かって、なんとなしに窓の外を見下ろしたら。 体育館へ続く渡り廊下を歩いている後姿。 黒い制服に茶色い頭。見慣れた無気力そうな横顔が見えた。 「何? 誰?」 「あ……」 ひょいと隣から倉田が首を伸ばした時、先輩はちょうど角を曲がって見えなくなってしまった。 「なんだよ。誰もいねーじゃん。はやくいこーぜ」 「あ、うん」 さっきまで寝てたのはどこのどいつだ。と言いたいところだったが、確かに急いだほうが賢明だ。さらりと踵を返した倉田の後を黙って追いかけた。 ――――今から体育館のほうに、一体何の用だろう。それも一人で。 思考を巡らせたところで、僕に分かることではないのだけど。 最近よく考えることがある。もしかして先輩は、大勢でバカ騒ぎするより、しのぶ先輩といるより、可愛い女子にちょっかいだして遊ぶより、本当は一人でいるのが一番好きなのかもしれないって。 なんだか思うのだ。先輩は一人でいると違う顔をするなあって。 あの部屋だってそうだ。しのぶ先輩やラムさんがいれば騒がしいけれど、僕が一人で書きものをやらされている間、委員長は一言ぽっちもしゃべらない。それは別に、僕への配慮とかでは多分全くない。 先輩が、時々移動教室で人並みの向こうに見えるとき。窓の外から見つけるとき。三年の教室の前を通るとき。 さわぐのが大好きな先輩が、時々、一人でいる。 廊下の端に、遠くに、窓の向こうに先輩を見つけたとき、いっつも先輩は、どこを見てたっけ? 誰もいないあの静かな部屋に、一人でいるとき、先輩は何を考えて黙っているんだろう? (……先輩って、毎日毎日、何を考えて生きてるんだろう) 先輩はいつも、言わない言葉を持ってるのかもしれない。 まだ夏の暑さを引き摺った、学期の明けたすぐの頃。あと……春のまだ、桜の盛り。 先輩が口にしたささいな言葉を、そしてまた、声を為さずに閉じられた唇を思い出した。 何が、彼を、制止ししめたのか。 何も考えていないような、というか思うこと全てがそのまま表情や行動に直結しているような、あのくだらない馬鹿で下種な先輩の中の、どのような感情と思考が、彼に沈黙を生ませるのかと。 気のせいかもしれないけど、なんだか疑るように、考えてしまう。 沈黙は、もしかしたら、そこに何かが存在する証拠なのかもしれないって。 そしてそれは、もしかして、他の誰にも触れないから、だから先輩は、一人でいるのが好きなのかも知れないって……。 「……倉田ってさあ」 「ん?」 「黙ってる時いつも何考えてる?」 「え? やっぱアレ、今日の昼飯とか晩飯についてとか?」 「……ああ…………なるほど。」 さすが倉田。さすが単細胞。聞いた僕が馬鹿だった。 先輩も食い意地張ってるからなあ。もしかしたらそんなこと考えてるかも。 ……いやいや、さすがにまさか。と、思いたい。 「何、俺に興味津々系? 惚れちゃった的な?」 「はあ? 質問したら惚れてることになるわけ? 倉田的には?」 「だって何考えてるか知りたいって好きの始まりっていうじゃん?」 「……。お目出度いやつ……」 呆れた声を出しても、気付かない様子でにやついている。いつの間にか元気になったようだ。全くもっての単細胞である。 通り過ぎる前に窓の外にもう一度視線を遣ったけれど、もう誰も通らない渡り廊下の薄そうなトタンに、雨がけぶって無数に跳ね返っているだけだった。 (先輩、誰かと一緒なのかな……。) |