8 「じゃーまた一時間後にくるからなあ。ちゃんとやっとけよ」 「また会いに来てくれんの竜ちゃん、うれし〜な〜」 「ばかやろっ、馬鹿なこと言ってねーでさっさとやれっつってんだっ!」 出口付近から飛んできたペンを巧妙に避け切って諸星先輩は 「まあまあ、いま順調に出来てるから」 と、手前の机で必死に白紙を埋める作業に取り組んでいる僕のほうを指さした。 「おめーもほんと大変だなー……」 「いつものことです」 「なおさらじゃねえか。」 純一郎にばっか仕事やらさねーでお前も手伝えよ。と委員長を睨んでから藤波先輩は生徒指導室を出ていった。 「……しっかし、体育祭は明後日だっていうのになんで今日まで原稿が白紙なんですか」 「先輩はなにかと忙しいんだよ。小泉くん」 「だったらなんで今そこでヤンマガ読んでニヤニヤしてんだよっ!」 「うるさい奴だな。親切心から忠告してやるがな小泉、さっさと仕事したほうが身のためだぞ。一時間後に出来てなかったらさすがに担当教員が直々に御出ましだろうからな」 俺は本望だけど、と笑う声が続いた。自分のせいで先生に迷惑はかけられまい。それを持ち出されては自分は奥歯を噛み締めるしかなかった。 今やらされているのは体育祭の原稿だ。大きな行事は委員ごとに仕事が割り振られる。風紀委員に充てられたのは開会式の生徒に向けた注意事項のスピーチと遺失物案内だった。そのスピーチの内容と、遺失物取り扱いについての諸規定を原稿用紙に指定枚数書いて体育委員に提出しなければならない。体育委員の監督教員は保健委員と掛け持ちのサクラ先生だったので先輩は先ほどのようなことを皮肉めいて言ったのだ。 「あー…もー……」 公の文書にはだいたいの雛形というものが確立している。これまでの人生でこのような形式張った文章を書きなれた自分にとっては、脳が怒りややるせなさに支配された状態であってもペンを走らすことは容易だった。 真面目な気質は生まれつきだ。いやいや書き始めたはずなのに書けばすっかりその気になってしまう。 カリカリとシャープペンの芯が紙の上で磨り減っていく音。先輩が粗末な藁半紙の漫画冊子をめくるときの、制服の穏やかな絹擦れ。時折廊下を足早く、もしくはゆったりと、時に談笑しながら、遠くから近づいては止まらずに過ぎてゆく足音たち。 この部屋はとても静かな時間で満ちている。と、先輩と二人でいるときだけ、思う。 一段落をつけたところで息を吐き出した拍子に髪が落ちてきて視界に邪魔をした。それを小指で耳にかけなおして、また続きを始めようとしたそのとき、平穏を破って部屋の扉が勢い良く開かれた。 「ダーーアーリンっ!」 「げっ……」 弾丸のように真直ぐに先輩の胸に飛び込んで行ったそれは辛うじて緑色が認識できる程度にしか見えなかったが、顔を確認するまでもない。 「……ラムさん…」 「あ、純一郎。いたのけ?」 「仕事の邪魔をしないでいただきたいんですけど。」 「大丈夫、うち純一郎の邪魔なんてしないっちゃ!」 「ラム邪魔、読めないって……うわバカ膝に乗るなっつの…あ、ばか倒れる倒れるマジどけってば――――うわわ」 「あーん、ダーリーン」 どんがらがっしゃーん。と、冗談のようなにぎやかさで先輩は華麗に回転椅子ごと向こうに倒れて見えなくなった。 「いてて……」 「ダーリン大丈夫? 頭打ってない?」 「しこたま打ったわ。お前のせいで」 「でも、ダーリンうちのこと守ってくれたっちゃ! やさしい!」 どうやら寝そべったままの先輩の上にラムさんも倒れ込んでいるらしい。ラムさんは重力を無視できるのだから、一緒に倒れるなんてはずはないのだけれど……。 「……小泉こいつどうにかしてくんない? クラスメイトだろ?」 「……。」 無視。である。選択肢は一つしか見つからない。無視するしかない。 ペンを執り直し、続きを始める。 「純一郎はお仕事忙しいんだから、邪魔しちゃだめだっちゃっ」 「つーか、お前も後輩なんだから先輩には敬語を使うモンだっつのに」 「ダーリンは先輩でもうちの夫だからいいんだっちゃ」 「だから誰がいつ誰の夫になったって――――」 あー喧しい。そのうちこれが、そこら中走り回ったり電撃で部屋を壊滅させたり物理的な迷惑さえまき散らしてくることになるのだからたまったものじゃない。 とにもかくにも早く終わらしてこの場から退散するしかない。体育祭は明日なのだ…… 「あたるくん、お仕事すすんでる?」 ガラッ。この図ったようなタイミングでしのぶ先輩の登場だ。 万事休す、と思った瞬間である。 「――あ」 「ムッ、いいところにい……」 「……これは一体」 どういうことかしら? という声が、投げ飛ばされた机が壁にぶつかって大破する音で聞こえなかった。 (ああ……) これはもう一時間後の書類どころか、明日の体育祭に五体満足で出られるかどうか心配だ。 |