さようならの時間だね

まるでぽっかりと心に大きな穴が開いてしまったかなような虚しさをずっと抱えたまま今日と云う日が淡々と過ぎていく。
職場を出るともう何時も出迎えてくれていた茶色の外套は見当たらない。
本当に全部元通りになった。
あの七日間がまるで夢のように思えてならない。
現実だったのか。
否、全て現実だ。
私は覚えている。
止められないような一目惚れも、目が回る程の空回りも、息苦しい優しさも、終わりが来ると分かりながら愛を求めた事も、冷たいキスに戸惑った事も、別れを見つめて泣いた事も、ずっと傍にいたいと願った事も、裏切らない彼のぬくもりも、それでも幸せだった時間も。
全部私の中に刻み込まれている。
もう二度と戻らない日々に恋い焦がれ私は誰も待っていない自宅へと帰る。
ただ其れだけだ。
今まで当たり前だった事が、彼と出会いそして別れてからは悲しみに包まれてしまった。
恋はなんて厄介なものなのか。
知らなくても生きていけるが、知ってしまうととても生きにくい。
人は如何して恋心を抱くようになっているのか。
人になんて生まれてこなけれな良かった。
悲しい思いはもうたくさんだ。

彼と契約を交わしてから丁度七日が過ぎたあの日。
悲しむ様子も何もなく、ただ仕事が終わっただけだと云わんばかりに太宰さんは私の前から去って行った。
もう少し別れを惜しむとか、悲しげな表情を浮かべるとか何かあって欲しかったが。
そんな素振りは一切見せなくて、軽く別れの言葉を口にして消えて行った。
そんな別れ方をしたのだから、私も諦めがつくかと思ったが、如何やらこの恋は思っている以上に厄介なものだったらしく。
あの日からもう二週間以上経ったが未だに太宰さんの面影を探している。
茶色い外套だとか、もさもさした髪だとか、そんな人影を見つけるとつい目で追ってしまう自分がいた。
何をしているのか。
彼がいる筈ないのに。
仮にいたとして如何しようと云うのか。
気持ちは伝えないと決めたのに。
毎度毎度私の決心と云うものは如何も脆いらしい。
自分が厭になってしまうくらいに。

死にそうなくらい泣きたい、と友人に電話をした事があるが。
事情を話した友人には早く新しい恋を見つけろと云われてしまった。
そんな事が出来るならとっくにしている。
太宰さん以上に素晴らしい男性がいるのなら是非紹介して欲しいものだ。
私だって何時までもこんな空虚な心を持ち続けたくはない。
誰でも良いから太宰さんを忘れさせてくれる人が現れないだろうか。

自宅へ辿り着くと誰もいない空っぽの部屋を見つめポロポロと涙を流した。
何時からだろう、部屋がこんなにも寒いと感じるようになってしまったのは。
貴方のいない世界がこんなにも悲しいと思うようになってしまったのは。
今日もまた私は一人で涙を流す。
そのうち一緒に目玉まで流れ落ちてしまうのではないだろうか。
太宰さんのいない空間を映し出すくらいなら一層目なんかなくなってしまえば良いなんて思ってしまうのだから呆れてしまう。

会いたい、今すぐ彼に会いたい。
また優しく抱きしめて欲しい。
キスして欲しい。
意地悪を云って欲しい。
太宰さんに翻弄されていたあの日々を返して欲しい。
幸せだったあの日々を。
失いたくなかった世界を。

何時も通り朝起きてご飯を食べて支度をする。
鏡を見る度になんて酷い顔をしているのかと笑ってしまう程に不細工を極めている。
毎晩あれだけ泣いているのだから自業自得ではあるが。
だけど勝手に泣いてしまうのだから如何しようもない。
涙腺がすっかり弱くなってしまった己にため息が出てしまった。

今日は雨が降っていた。
雨はあの日を思い出すからあまり好きではないが、仕事なので家から出たくないなんて云っていられない。
偶然にも仕事で通ってしまった武装探偵社の入ったビルの前。
今事務所に行けば彼に会えるだろうか。
会ったら何て云ってくれるだろう。
温かく迎えてくれるだろうか。
だけどもう何もかも終わってしまっている。
今更会いに行った処で何をすると云うのか。
泣きたい気持ちをグッと抑えてビルの前を後にした。

否、後にしようとしたのだ確かに。
だけど運悪く見つけてしまった。
茶色い外套にもさもさの髪の毛。
すらっと背の高い私の大好きな人。
会いたくて堪らなかった太宰さんを。
気がつけば私は彼の後を追っていた。

濡れるなんてお構いなし、傘なんて何処かに落としてしまった。
今はそんな事如何でも良い。
見失いたくない、あの背中を。
お願いだから待って。
声を聞かせて、もう一度優しく私の名を呼んで。
貴方に、大好きだって云わせて。

太宰さん、とその背中に叫ぶと彼の足はぴたりと止まった。
頭の天辺からびしょびしょな私の顔は今とんでもなく不細工だろう。
また不細工だと罵られてしまうかも知れない。
でも今云わないと後悔すると思ったから。
一度は伝えないと決めたこの気持ちだけど、そんな決心はゴミ箱に捨ててやる。
玉砕したって構わない。
もうこんな気持ちを引き摺って生きていくのは厭だ。

路地裏で背を向けたままこちらを振り向かない太宰さんとずぶ濡れな私。
大好きで堪らない彼が目の前にいる。
まだ二週間しか経っていないのに、もう何年も会っていないかのようだ。
雨脚は一向に弱まる気配を見せない。
水分を含んだ衣服が重く感じる。
走って上がった息が苦しい。
目の前の彼のせいで胸が張り裂けそうだ。
如何か私の気持ちを聞いて欲しい。
上手く伝えられるか分からないけれど。
呆れてしまわないで。

「私は、貴方の事が―――」



〜完〜



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