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 そもそもの発端は生徒会室の空調システムが故障したことだった。自分で言うのもなんだが箱入りで甘やかされて育ち、暑さ寒さその他諸々の環境の変化に弱い生徒会役員達、つまり俺達は満場一致で今日は解散と決め込み、差し迫った締め切りもなかったので仕事を持ち帰ることもなく手ぶらで帰路に着いた。
 珍しくぽっかりと時間が空いた放課後にさて何をしようかと考えた時、まず真っ先に思い浮かんだのは二ヶ月前に付き合いだした恋人、武井のことだった。別段ロマンチックな経緯があったわけではないので出会いやら告白やらは省略するが、一つ年下の後輩で、見た目も中身も清楚で可愛い男だ。さらりと男と言ったが、同性愛云々についても俺が通う全寮制男子校では特に珍しいものではないので省略する。
 とにもかくにも俺はそうだ武井に会いに行こうと思いたち、意気揚々と彼の部屋へ向かった。途中もちろん連絡は入れたが電話はつながらず、メッセージを送っても既読はつかなかった。が、単に気づいていないだけなのだろうと結論づけてとりあえず部屋のチャイムを鳴らした。さほど待たずに扉が開き、ああやっぱり部屋にいたんだなと思った俺は「悪いな突然。実は今日生徒会が休みになって」と言いかけたまま固まった。なぜなら武井が半裸かつ胸元にうっすらキスマークをつけ、いかにもまさに今からあるいは既に一発ヤりましたと言いたげな色気を放っていたので。
 唖然とした俺を見上げ、武井は普段通りの清楚で可愛い微笑みを浮かべた。そして普段通りの爽やかな声で言った。
「ああ、トモさん。どうしたの、珍しいねこんな時間に」
「え、あ、ああ、悪いな突然。実は、ええと生徒会室の暖房が壊れて休みになって……」
「そっか、それで俺のところに来てくれたんだ。嬉しいな」
「うん……いや……」
「せっかくだから上がってく? あ、でもどうしよっか、急だったから先客いるんだけどいい?」
「え、ええと……」
「そうだ、俺前から3Pしてみたかったんだよね。突っ込まれながら舐めるのやってみたかったんだ。時間あるならトモさんも交ざってってよ」
 そう言って笑った武井の表情には罪悪感のかけらもなく、そもそも悪気なんてものを持ってすらいないらしく、ただひたすら純粋な目で俺を見ていた。その瞬間俺は悟った。清楚で可愛いとばかり思っていた恋人はその実とんだビッチで、こいつはとても俺の手には負えない、と。

 そんなわけで俺は一人来た道を戻っていた。この道を来るときは恋人に会える喜びで浮き足立っていたような気がするが、その時の俺の足取りにはとぼとぼという擬音がよく似合っていた。
 武井のふしだら極まりない誘いは当然辞したが、それを諌めることは俺にはできなかった。ただ「あーいや……悪いけどやめとく……」ともごもご答えたのみである。悪いけども何も俺は何一つ悪いことはしていないはずだしむしろ悪いのは浮気をしている武井の方だと思うのだが、あまりの悪びれなさに何も言えなかった。そのせいで恋人の浮気現場を目撃してしまった者として当然感じるだろう怒りや悲しみやショックの類は全て行き場を失っていて、今の俺は単なる脱け殻だった。胸に穴が開いたような気分とでも言えばいいのだろうか、ただもう、ひたすらに虚しかった。
「はあ……」
 虚しさのままについたため息は無人の廊下に溶けた。気がつけばいつの間にか寮を抜けていたらしく、用もないのにまた校舎に戻ってきてしまっている。しかしそうと気づいても俺の足は止まらなかった。もはや脱力していてこれからどうしようかと考える頭すら回らず、ただ機械的に両足を動かしていた。
 俺の足音が静まり返った廊下にぺたんぺたんと響く。何も考える気にならずその音をぼんやり聞いていると、不意に音が二重になった。いや二重と言うにはややぶれて聞こえる。ぺたぱたん、ぺたぱたんという具合に。それでも尚それをぼんやり聞いていると音は徐々にリズムを崩し始めた。ぺたぱたんだったのがぺたぱたたぺたぱたたと少し速まり、それからぺたぱたぱたとさらに速まり、さすがに何かおかしいなと思って足を止めると背後から声をかけられた。
「おい、何してんだこんなとこで」
「……あ?」
 振り返るとそこには知った顔が立っていた。風紀委員長かつ俺の天敵である守山という男だ。ちなみに下の名前は興味がないので忘れたが、とにかくその守山某は振り返った俺を頭の先から足の先までまじまじと見つめ、それから口の端を大変意地悪そうな具合にひょいと上げた。
「なァにしょげたツラしてんだァ? 失恋でもしたか? 会長サマ」
 意地悪そうというか実際この男は意地が悪いのである。俺は反射的にいつものように「うるせェんなわけねえだろバーカ」と言い返そうとしたが、しかしその最初の一文字すら言うことができず、そもそも口を開くこともできなかった。なぜならその瞬間、あろうことか俺の目からはぼろりと涙がこぼれたからだ。
「……あ? おい……?」
 自分でも驚いたが、目の前にいる守山もさすがに驚いたようだった。ようだった、というのは突然堰を切ったように溢れ出した涙のせいで視界が滲みに滲んで何も見えなかったからだが、それでも守山の呆気にとられたような声からは明らかな動揺が伝わってきた。普段いつでも、それこそ俺をからかう時も問題児をしょっぴく時も悠然として余裕を崩さない男だから、そんな守山が焦っている顔はさぞかし見ものだろうなあと思った。だからそれが見られないのは残念だったが、しかし俺の涙は止まる気配はなく、むしろ後から後から溢れてきた。目が濡れ、頬が濡れ、喉の奥が苦しくなる。思わず一つしゃくり上げた時、突然ぐらりと俺の体が揺れた。何か固いものに額がぶつかり躊躇いがちに背中をぽんぽんと叩かれたことでようやく、守山に抱き寄せられたのだと気づいた。
「……っく」
 何してんのお前、と言いたかったが喉が詰まって言葉にならず、むしろ情けない嗚咽が漏れた。ぎこちない手つきで今度は頭をぽんぽんと撫でられ、相手はいけ好かない、気の合わない、犬猿の仲である男だというのにとてつもない安心感を覚えてしまった。ブレザー越しの体温が俺のそれよりも高かったせいだろうか。もしかしたら俺の体が冷え切っていたからかもしれないが、どちらにせよ心地良かったから振り払えなかった。すんと鼻をすするとふわりと煙草のにおいが香った。風紀委員長のくせにとも思ったが、なぜかそれにすら安心した。止まることなく流れる俺の涙が守山のブレザーの肩をじわじわと濡らしていく。だが俺はそれを知っていて顔を上げずに大人しく身を委ねていたし、守山も黙ったまま不器用な手つきで俺の頭を撫で続けていた。

 俺はどうやらそのまま、つまり泣き疲れて立ったまま寝落ちしてしまったらしい。次に目を覚ました時俺は、知らない部屋にいた。俺が寝かされていたベッドは暖かくかつ柔らかく、お香なのか香水なのかはたまた柔軟剤なのかとてつもなくいい香りと、それに混ざって煙草のにおいがした。はたしてのろのろと体を起こすと、煙草を咥えベッドの端、俺の足元に腰掛けていた守山が振り向いた。
「よう、やっとお目覚めか」
 にやりと口の端を上げた守山は、煙草を右手の人差し指と中指で挟み口から離すと、白い煙を細長く吐き出した。その手慣れた仕草は学園の風紀を取り締まるはずの風紀委員長本人が常習的な喫煙者であることを示していた。というか風紀委員云々の前にそもそも守山は俺と同級生でありつまり未成年であるはずなのだが、しかし恋人の浮気も諌められない俺が他人の喫煙を咎められるはずもなかった。ただぼんやりと灰皿に灰を落とす指先の動きを眺めていると、守山はすっと表情を消し、俯き加減の俺の表情を窺い見るように眉を上げた。
「何、だんまりかよ。まだ寝ぼけてんのか?」
「……寝ぼけてねえよ」
 正直言葉を返すのも面倒だったが口を開くと、俺の声は歪に掠れていた。久しぶりに泣いた後遺症なのだろうか。そういえば前に泣いたのはいつだったかとふと思い、記憶を検索してみたが思い出せなかった。きっと思い出せないほど昔のことなのだろう。それだけ久しぶりだったから泣き方も下手だったのか、喉は乾燥しているし頭も目の奥も鈍く痛んだ。一眠りしたはずなのに疲労も覚えた俺は、もう一度ベッドに潜り込み、再び煙草の混ざった甘い香りに包まれた。
「おい」
 呆れたようなその声に渋々布団から目だけ出すと、声そのままに守山は呆れたような顔で俺を見ていた。まだ半分以上長さを残した煙草を灰皿に押し付けた右手が、柔らかい布団越しに俺の足を軽く揺する。鬱陶しくて足を引っ込めると、守山はそのまま体をずり上げ、覆い被さるような体勢で俺を見下ろした。
「しれっと寝ようとしてんじゃねえよ。起きたんならどけ」
「うるせえな。お前がどっか行けよ」
「馬鹿言え。俺のベッドだろうが」
「ケチケチしねえで一晩くらい貸せ」
「お前な」
 小さく吐き出されたため息に背を向けるように寝返りをうつと、守山は数瞬黙った後続けた。
「そんな無防備に寝てっと食うぞ」
「は?」
 何を言っているんだろうこいつは、と思いながら本格的にくるまりかけていた布団から顔を出すと、視線がぶつかった。俺を見下ろす守山はいつものような余裕綽々の表情ではなく、例えるなら猛禽類やあるいは猛獣を思わせるような鋭い目つきをしていた。だから物理的に食われるのかもしれないと一瞬怯えかけてしまったがさすがに守山に人肉を食べる趣味があるはずはないので、いや守山の趣味なんか知らないのでもしかしたらあるのかもしれないが、しかし常識的に考えれば食うというのはつまり性行為の暗喩なのだろうということは想像に難くなかった。どちらにせよ何を言ってるんだろうこいつはという感想に変わりはないが、しかし今の俺は脱け殻状態を引きずっていて、一言で言うならもう何もかもが面倒くさかった。武井との今後についてあれこれ考えるのも面倒だったし、起き上がってこの部屋から出て行くのも面倒だったし、守山に何か言い返すのも面倒だった。だから投げやりに答えた。
「好きにすれば」
 かと言って俺は別に守山に抱かれたかったわけでもないし、そうして慰められたかったわけでもない。そもそも守山の発言が本気だとすら思ってもいなかった。単純に俺を追い出すのを諦めさせ、この暖かくて柔らかくていい匂いのするベッドを明け渡して欲しかっただけだったのだ。だが俺がそう答えた瞬間、守山は猛禽類や猛獣を思わせる鋭い目をぎらりと光らせ、言った。
「じゃあそうさせてもらうわ」
「……ん?」
 だがその口調は緩いままで、だからこそ理解も対応も遅れた。守山の意図がよく分からないまま首を傾げているうち本格的にのしかかられ、そうして俺は現状を飲みこめないまま本当に守山に『食われた』のだった。

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