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ーー香の君。

屋敷の外階段の縁に腰掛け寄り添う末の君が、僕を見て穏やかに笑う。じゃれるように頬を寄せ合い、指を絡め、そして口づけを交わし合う。

ーー僕、いやじゃないですよ。
ーーん?
ーー香の君に触られるの。香の君はやさしいから。嬉しいし、気持ちいいし、僕の相手が香の君で本当に良かった。
ーー気持ちいいんですか?
ーーええ、すごく。 …あの、だから……
ーー…いいんですか?
ーーはい、…ん、っ、あ…っ…


「ああああちくしょう!!!」

喉から声を振り絞って叫びながら、香坂尊はがばりと布団を跳ね除け勢いよく起き上がった。まだ冬も終わっていないというのに寝汗をぐっしょりとかき、ついでに下半身も戦闘態勢に入っている。

隣室の姉によって壁を力任せに蹴られているのにも構わず、香坂はひとしきり頭を抱えて悶え転げた。





『あの世界』から帰ってきた香坂の生活には、一つだけ変化があった。半年前から付き合っていた彼女、隣町の女子高生である優香と別れたことである。理由は単純、あれ以来セックスができなくなったことだ。勿論それが直接の原因ではないが、気まずさのあまりつい顔を合わせないまま、連絡もとらないまま過ごしていたらついに別れを切り出された。そもそもなぜセックスができなくなったのか。その原因は何度考えても一つしかなかったが、香坂本人はどうしても認めたくはなかった。





末吉要とは同じ高校に通っているが、縄張りが異なるため普段顔を合わせることはない。放課後の街でも同様である。だからその日、たまには一人酒でもと思い初めて入ったバーで末吉と行きあったのは、全くの偶然であった。

「げっ」

目が合うなり、末吉はさも嫌そうに眉を寄せて一つ呻いた。踵を返そうとしていた香坂であったが、その態度を見て考えを変えた。逃げ出すようで嫌だったので、わざとカウンターに座っている末吉の隣の席に腰掛けたのだった。途端、末吉はますます顔をしかめてみせた。

「んだよ、酒くらい一人で呑めよ。それともストーカーかあ?」
「るっせ、だーれがテメェなんかつけまわすかよ」

腹立ち紛れに末吉の座るスツールの足を蹴りつけ、香坂はバーテンに適当な酒を頼んだ。隣に座ってはみたものの、末吉とは仲良く会話するような関係では決してない。無言のまま煙草に火をつけると、横顔に何やら視線を感じた。

「あ? 何見てんだよ」
「べっつにー」
「ああん?」

人を食ったようなその口調に苛立ち向き直ると、末吉はいつしか妙に上機嫌な様子でじろじろとした視線をくれていた。何だこいつ、と苦々しく観察し、香坂はふと気付いた。末吉の目元はほんのり赤く色づいていることに。ついでに耳たぶと首筋も赤くなっていることを目敏く観察し、そして結論づけた。こいつ、酔ってやがるな、と。

そっぽを向いて煙を吐き出した香坂の前に、カン、と涼しげな音を立ててグラスが置かれる。酒は呑めれば何でもいいと思っているため、種類にはさほど詳しくない。しかし聞きかじりでオーダーしたその酒を見て、末吉がくくっと喉を鳴らした。

「なーに見栄張ってんだよ」
「はあ?」
「呑めんのかあ? そんなん」

その言葉の意味は分からなかったが、揶揄されていることだけは分かった。けれどムキになって一息でグラスを呷った途端、ようやく意味が分かった。強いアルコー ルがカッと胃をやく感触と、くらりと回った視界。その酒のアルコール度数が異常に高いことも、香坂がそれほど酒に強いわけでもないことも、末吉はおそらく知っていたのだろう。

視界は揺れるが、香坂は意地で平静を装った。音を立てグラスを置き睨んでみせると、末吉がひゅうと口笛を吹きにやりと笑う。

「じゃあ呑みくらべでもすっか」

愉しげなその言葉に意地のみで頷いてからは、なし崩しだった。





「そういや女と別れたんだって?」

そう切り出されたのは、明らかに許容量を超えたアルコールを胃に詰め込んだ香坂の意識が危うくなって来た頃だった。無理矢理平静を装おうとはしていたが、末吉に向けた視線は明らかに虚ろである。

「あ? 何で知ってんだよ」

煙草から灰を落とす、しごく単純な動作さえ覚束ない。舌打ちしながら吸いさしを乱暴に灰皿に押し付ける。と、末吉がわずかに身を寄せてきた。かすかに触れ合う肩口の、薄いTシャツ越しの体温。香坂の心の奥底は、なぜか妙に疼く。

「何で別れたんだよ。かわいー子だったのにもったいねえな」

ふう、と紫煙を吐き、末吉はにやにやと笑みを向けてくる。視線を逸らした香坂は、腹立ち紛れに新しい煙草に火をつけた。

「うるせえな。大体何であいつの顔知ってんだよ」
「さあな。それより何で別れたんだよ?」
「はあ? しつけえな」

グラスに残っていた酒を飲み干し、香坂は隣に座る男を横目で睨む。さぞ楽しそうな顔で自分をからかっているのだろうという予想は、ぴたりと当たっていた。あまつさえ、末吉は続けた。

「もしかして俺のことが忘れられなかったんじゃねえの?」

にやにやと放たれたその言葉に、香坂は自分の堪忍袋の緒が切れた音を聞いたような気がした。空になったグラスをカウンターに叩きつけ、返す手で乱暴に末吉の胸ぐらを掴み上げた。

「だったらどうだっつうんだよ!」
「……は?」

虚をつかれたように、末吉の目が丸く見開かれる。その間抜けとも言える表情を至近距離で睨む香坂には、既にまともな思考能力は残されていなかった。それは勿論、末吉に煽られこたま呑みすぎたせいでもある。しかし同時に、図星をつかれた腹立たしさのせいでもあった。それを自覚はしないまま、香坂は続けた。

「悪いかよ、忘れられるわけねえだろうが! 大体お前があんなっ……」

だが、激昂した香坂の言葉は途中で遮られた。胸ぐらを掴んだままだった末吉によって反対に引き寄せられ、唇を押し当てられたからだった。

突然のことに、香坂は一瞬目を白黒させ身を引きかけた。しかし、濡れた舌にちろりと唇を舐められた途端、気がついたら末吉の後頭部を掴み、逆に舌をねじこんでいた。口内の柔らかさと、その中に綺麗に並んだ小さな歯のつるつるとした固さ。嫌というほど身に覚えがある感触を、何度も舌で辿る。

ぎょっとしたように視線を逸らしてそそくさと距離をとるバーテンの姿が視界の端にちらりと映ったが、末吉の唇に夢中になった香坂にとっては最早どうでもいいことだった。

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