▼ 第1話 4月

西棟三階の端から二番目。
扉に色あせた字で「科学部」と書かれたプレートがかかっている部室に、俺は放課後になる度にいそいそと向かう。

壁一面を埋める高い棚にも部屋の真ん中に置かれた大きなテーブルにもそれから床にも、俺の出来の悪い頭では用途がよく分からない不思議な物達が所狭しと置かれた、6畳ほどの狭い部屋。
日によって違う何かの薬品のようなにおいの漂うこの空間が俺は気に入っている。

なぜなら、ここには沢口さんがいるからだ。

数人いた2年上の先輩達が数ヶ月前に卒業してしまってから部員は俺と沢口さんの2人きり。だから本当は部活じゃなくて同好会だし、同好会だと部費は出ない。
でも沢口さんは同じような状況の物理部に持ちかけられた合併の話を断ってくれたし、1年生を新しく勧誘しようともしなかった。

ごちゃごちゃした部室に、沢口さんと2人きり。これ以上に幸せな空間を俺は知らない。

扉を開けて中を覗き込みながらこんにちは、と声をかけると、沢口さんが振り返る。こんにちは、と返される彼の声はとても綺麗だ。ついでに顔もびっくりするくらい綺麗で、とても同じ人間とは思えない。
ともすればデレデレとにやけてしまいそうな顔を引き締めようと努力していると、沢口さんはにこりと微笑んで俺を手招いた。試作品ができたんです、という彼の声はいつもより少し弾んでいる。沢口さんが嬉しそうにしていると俺も嬉しくなるから、今度こそ緩む頬を抑えきれなかった。

「おめでとうございます。何ですか、これ?」
「ふふ、まだ秘密です。知り合いに頼まれた物なんですけど。飲んでみてもらえますか?」
「あ、はい」

手渡されたのはよくあるタイプのカプセル剤だった。薄暗い電球にかざして眺めてみると、透明なカプセルの中に薄い桃色のとろりとした液体が入っている。何の薬かは分からないけれど、たぶん毒ではないと思う。でもたとえ毒だとしても、沢口さんに飲んでくださいと言われたら俺は喜んで飲むだろう。だから、渡されたビーカーになみなみと注がれた水でそれを飲み込むのにも躊躇いはなかった。

喉をごつごつとした感触が通り、その後をぬるい液体が滑って行く。俺の定位置になっているパイプ椅子に座り、持ったままだった鞄を脇に置くと、沢口さんも自分の椅子を引き寄せて俺の正面に腰を下ろした。期待するような、でも少し心配そうな、真面目な顔で俺をまじまじと観察している。沢口さんの視線にどぎまぎした俺は、そっと視線を逸らして、でもまたすぐに戻した。

俺も沢口さんも黙っていて、静かな室内にはアルコールランプで加熱されている試験管内の液体がこぽこぽと立てる音がやけに響く。それから、隣の何をしているかよく分からない同好会室から時折聞こえるくぐもった話し声と、裏の第二グラウンドから時折響く笛の音。

普段沢口さんとの沈黙は気づまりではないけど、それはお互い別のことをしているからだ。沢口さんはいつも俺にはよく分からない実験をしていて、俺は言われるがままにその記録を取ったり、暇な時はテーブルの隅で雑誌を読むふりをしながら沢口さんをこっそり盗み見たりしている。時々今日のように沢口さんが気まぐれに作った何かの実験台になったりもするけど、黙ったまま見つめあっているとやっぱり緊張する。
だから沈黙を破ろうと、俺は口を開いた。

「えーと……これどのくらいで効果でるんですか?」
「もうそろそろ出てもいいと思うんですけど。何か変化ありませんか?」
「いや、たぶんまだです」

しまった、話が終わってしまった。
訝しむような表情で俺を探る沢口さんの目に、体温が上がってしまうような気がする。なんとなく息が苦しくて、半ば無意識にネクタイを緩めて窓に目をやった。空調は効いているから心理的な問題だと思うけど、ぴたりと閉められた窓が息苦しさを増長させる気がする。窓開けてもいいですか、と尋ねると、沢口さんは小さく首を振った。

「閉めておいた方がいいと思います」
「そうですか……」
「暑いですか? 温度下げましょうか」

沢口さんは声も顔も綺麗だけど、分厚い本や紙類に埋もれていたリモコンを探り出して操作する指も同じように綺麗だ。所々薬品か何かで汚れているけど、白くて細くて爪の形も完璧だ。
ぼんやりとそれを眺めていると、その手が不意に俺の額に触れた。途端に背筋を何かが走って、意思に反して肩が跳ねる。

「永田くん、大丈夫ですか?」
「は、はい……」

沢口さんの手はひんやりしていた。そのひんやりした感触が額から頬に滑り、同時に、火照った俺の顔を覗きこまれる。初めて間近で見た薄めの茶色の目もやっぱり綺麗で、引き込まれそうになる。
唐突に湧いてきた奇妙な衝動を抑えようと小さく息を吐き出せば、それは自分でも驚くほど熱かった。

「沢口さん……」
「はい」
「な、んか暑い、です」
「他には?」
「心臓がどくどくして……、息がちょっとしにくい、かも」

俺を観察するような沢口さんの表情に、これが渡されたカプセルの効果なんだろうということは察しがついた。
でも、体温と心拍数が上がって、呼吸が苦しい? 一体何の薬なんだろう。
ぼんやりしてきた頭で天井を仰ぐと、今度は首筋まで沢口さんの手が滑ってきた。喉元を優しく包むように両手を添えられ、ひんやりした感覚が気持ちよくて目を細める。

「ふ……っ」
「……永田くん」
「はい……?」
「実はこれはいわゆる媚薬の類なんですが」
「……は?」
「下半身の具合はどうでしょうか」
「かっ……!?」

突然の展開に思考がぴたりと停止した。呆気にとられて視線を戻すと、沢口さんは少し申し訳なさそうに微笑んでいる。
その笑顔に見とれた一瞬のうちに、首をそっと撫でて離れて行った手が俺のベルトをはずしだした。慌てて止めようとしたけど、手がかすかに触れただけで指先から電流が走ったような感覚に襲われる。

「おわっ、ちょ、待っ」
「ちょっと見せてくださいね」
「え、うわ!」
「あ、良かった。成功ですね」
「……!」

沢口さんと俺が見下ろす先で、俺の息子は下着を押し上げてその存在を主張していた。淡々と成功を喜ぶ沢口さんと、呆然とそれを見下ろす俺。とんでもなくシュールな光景にもはや固まるしかない。

「あとは副作用がないといいんですけど」
「……」
「永田くん? どうしました?」
「いやちょっと……トイレ、とか行ってもいいですか」

薬の効果だとは分かっているけど、非常に恥ずかしい。目を合わせられないまま尋ねると、沢口さんは一瞬きょとんとした後俺の頬を両手で挟んだ。額をこつんとぶつけられ、おずおずと視線を上げる。

途端に沢口さんの綺麗な顔が視界いっぱいに飛び込んできた。
やばい、この距離はやばい。
何がって、俺の理性が。

堪らず伸ばしそうになった手を必死に抑えつけていると、沢口さんはあろうことか唇を俺の頬に軽く押し当ててきた。

「……!」
「大丈夫です」
「え?」
「僕がちゃんと責任とります」
「……え!?」

焦る俺に目の前で沢口さんがふわりと浮かべた笑みは、やっぱりこの世のものとは思えないほど綺麗だった。

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