▼ その後

からりと晴れた青空。ちらほらと浮かぶ白い雲。時折ふいてくる風にかすかに乗せられた潮の香り。

じりじりと照りつける日差し。乾燥した空気。確か中学だか高校だかの地理の時間に習ったなんとかという気候の名前はもう忘れてしまった。

石畳。教会。色とりどりの髪や目や肌の色。陽気な音楽。頭上を飛び交う、未だ集中していないと聞き取れない異国の言葉。

高校を卒業した日のことを、僕は今でも昨日のことのように思い出せる。
卒業式の朝、琢磨と2人でこっそり学園を抜け出した時の、まだ肌寒い春先の空気や、並んで見上げた今日のように澄んだ大空。
悪戯が成功した子どものように笑いあって、握りあった手を一生離さないとこっそり誓ったあの日のことを。

風の噂で父親や兄達が僕の居場所を探していると耳にしたから、この5年間で住む場所を何度も変えた。
僕が寒いのは苦手だと言ったから、海沿いを南へ、南へ。
しまいにはいっそ海外に出ちゃおうか、と冗談半分に笑ったその翌日、琢磨は本当に飛行機のチケットを2枚予約してきた。

腰を落ち着ける間もなく流れ続ける根無し草の生活は、僕にとっては想像していたほどには苦痛ではなかった。
部屋と仕事を探し、しばらく働いて貯めたお金で次の場所へ。
新しい場所でまた部屋と仕事を探し、しばらくしたらまた次の場所へ。
次々に入れ替わる景色や街並み、人生が一瞬だけ交わる人々。
そんな生活は、案外僕の性に合っていたんだと思う。

けれど多分、琢磨は疲れていた。
もちろん優しい琢磨はそんなことは一言も言わなかったし、由良がいてくれれば幸せと笑ってくれていたけど、でも僕にはずっと罪悪感があった。
例えば就活中らしきリクルートスーツ姿の大学生や、あるいは公園で楽しそうに遊んでいる家族連れなんかを時折じっと見つめている姿を知っていたから。
琢磨が望めば、そして僕が解放してあげさえすれば、そういう生活もできる人だということを知っていたから。

だから僕は手渡されたチケットを1枚だけ受け取って、言った。

もう終わりにしよう。
これ以上僕の都合で琢磨を振り回せない。
どこかに腰を落ち着けて僕を忘れて、いつか誰かとちゃんと幸せになって。

それを聞いて寂しげに眉を下げた琢磨の顔を、僕はきっと一生忘れないと思う。





飛行機に乗り、そこからぶらっと鉄道に乗って辿り着いたこの国の時間は、僕が知っているそれよりも大分ゆったりと流れている。
長閑な昼下がり、あまり忙しいとは言えない花屋の店番という仕事は、とても気に入ってはいるけれど時々ひどく退屈でもある。
ついうとうとしかけていると、けれど不意に頭上から、唄うような声が降ってきた。
はっと見上げれば、最近よく見るようになった顔がカウンター越しに僕を笑顔で見下ろしている。
確かはす向かいのパン屋の息子、名前はどうせ発音できないので覚えていない。
曖昧に笑顔を返しながら謝り、聞き逃してしまった言葉を聞き返せば、彼はゆっくりと注文を言い直した。

朝店長が仕入れてきたばかりのピンク色のバラを数本。それから白い、多分かすみ草か何かを数本。
渡されたコインをレジにしまってからお釣りを返し、言われた通りに花束を作ってリボンをかける。
僕の手つきをじっと見ていた彼はそれを大切そうに受け取った後、後ろ手に持っていた紙袋に重ねて僕に差し出してきた。

『これ、ユラに』
『え、僕?』
『うちのパンなんだけど、焼きたてだから良かったら食べて。俺が焼いたんだ』

そういえば昨日、明日初めてパンを焼かせてもらえると嬉しそうに話されたような気もする。
ほんのり温かい紙袋と売ったばかりの花束を受け取れば、かすかに手が触れた瞬間、パン屋の息子は弾かれたように手を引いて白い頬をさっと赤く染めた。
ありがとうと接客用の笑みを浮かべてあげれば、もじもじしていた彼は嬉しそうに顔を上げ、また来るねと振り返り振り返り店を出て行く。
それを笑顔のまま見送ってから小さくため息を1つ。
渡された花束と紙袋を、カウンターの下に積み重なっている同じような花束や『プレゼント』の上に放りこんだ。

元々男に好かれる性質だというのは気づいていたけれど、どうやらそれは生まれ故郷から遠く離れたこの地でも変わらず有効だったらしい。
言葉も達者でない僕を雇ってくれた気のいい店長は、ユラのおかげで繁盛してるよと給料もはずんでくれる。

悪い気はしない。
でも応えようとも思わない。
僕の心の中には、後にも先にもたった一人だけが住んでいる。





この街の夕暮れはとても綺麗だ。
窓から見える空が薄い橙から桃色に変わり、紫から紺色へ。
白や黄色の明かりが周りの店や家々に灯りだした頃、仕事終わりのサラリーマン達が妻に、娘に、花を買いに訪れる。
笑顔で礼を言って帰宅していく彼らの背中には、暖かな家庭の香り。
羨ましいとは思わないけれど、なんだか微笑ましいとは思う。

客の波が途切れた頃になるとようやく、ぼちぼち店じまいの時間になる。
店先に出していた鉢をしまって、路面を適当に掃き掃除。
最後のシャッターを下ろした所で、通りの向こうから歩いてくる本日最後のお客さんの姿が、薄闇の中に浮かび上がる。
お客さんと言ってもこの店の客ではなく、僕個人を迎えに来てくれる人だ。
店先で立ち止まった彼は、僕の額に一つキスを落とした。

「お疲れさま。もう帰れる?」
「うん、すぐ準備するからちょっと待ってて」

答えてから店の中に取って返し、カウンターの下の荷物を適当に紙袋に詰め込む。
店長に挨拶をして裏口から飛び出し表通りに回り込むと、シャッターにもたれるように待っていた影が振り返る。
少し背伸びして頬にキス。
ふわりと笑った琢磨は、僕の髪をくしゃっとかき回した。

別れようと言った時寂しげな顔をした琢磨は、次の瞬間今までに見せたことのなかったほどの乱暴さで僕を床に押し倒した。

ねえそれ本気で言ってるの、俺が由良を忘れられると思ってるの、他の人と幸せになれるなんて本当に思ってるの。

怒ったような声でそうまくしたてたくせに、琢磨は子どものように泣きながら僕を抱いた。

絶対離さない、嫌だって言っても絶対逃がさないから。

そう言った琢磨の苦しそうな顔や僕の頬に零れ落ちた涙もやっぱり僕は一生忘れないだろうし、痛いくらいに握られた手を握り返しながら、今度こそこの手をもう離さないと改めて誓ったのは言うまでもない。

元々身長差があったのに、この5年で琢磨はさらに背が伸びた。
肉体労働をしていた時期に日に焼けた肌と少しついた筋肉、長い手足。
少年から青年へ、精悍な顔立ちになった彼は、働いている同じ通りのカフェを訪れるこの街のお姉さん達にひそかに人気があるらしい。
それを隣のレストランの娘に聞いた時、僕はものすごく嫉妬したものだった。
けれど、他の女の子に手出したりしないよね?と詰め寄った僕に、琢磨は「それはお互い様」と苦笑した。
今も僕の手を握って歩き出した琢磨は、持っていた紙袋を引き取って覗き込んでからちらりと眉をひそめる。

「またこんなに貢がれてる。今日は誰?」
「いつもと一緒。あ、あとパン屋の息子と路上で絵描いてるおじさん」
「パン屋……ああ、あいつか」

琢磨が少し嫌な顔をして、僕はついふふふと笑ってしまう。
ヤキモチを妬いてもらえるのが嬉しいから。
何笑ってるの、と僕の頭をくしゃりとかきまぜた琢磨の腕にしがみつくように自分の腕を絡める。

「ね、それより夕飯どうする?」
「うーん、そうだな。家に何かあったっけ?」
「パンと、あと肉の残りだけかも。あの固いやつ」
「あ、そういえばあの肉の調理法聞いてきたよ。焼くんじゃなくて煮込むんだって。そんなに時間はかかんないみたいだけど」
「そうなの? じゃあ野菜だけ買って帰る?」
「そうしよっか」

頷いた琢磨は、借りているアパートへの道とは逆方向に曲がりながら、さりげなく僕の手を握ってきた。
出会った頃はすべすべして綺麗だった指先は、今では少しガサガサして荒れている。
かくいう僕の手も花屋での水仕事のせいで決して綺麗とは言えないからお互い様だし、それにもしかしたらこういうのが働く男の手ってやつなのかもしれない。

「ねえ、琢磨」
「ん、何?」
「帰ったらハンドクリーム塗ってあげる。今日いいの貰ったんだ」
「今度は誰に貢がれちゃったの?」
「店長の奥さん。荒れちゃったっていったらくれた」
「え、そうなの?」

琢磨が目を丸くして、それから繋いだままの手を持ち上げてまじまじと見つめた。

「本当だ。赤くなってる。痛い?」
「ちょっとだけ。でも大丈夫」
「そう? じゃあ俺にも由良に塗らせて」

そう言って優しく微笑んだ琢磨が、僕の指にできた小さなあかぎれをそっと一撫でする。
その暖かな感触にふと、幸せだなあと思った。
どこにいてもどんな仕事をしていても、多分琢磨がいてくれたらそれだけで僕は幸せなんだと思う。

琢磨がいてくれて良かった。

僕のことを好きになってくれて良かった。
卒業した時僕の手をとってくれて良かった。
あの日僕が切り出した別れを拒んでくれて良かった。
安定した普通の生活よりも、僕との決して楽とは言えない人生を選んでくれて本当に良かった。

罪悪感は今でもある。
きっとこの先もずっと消えないだろうと思う。
でも僕にはもう、琢磨のこの少し荒れた手を離すことはできない。
琢磨も、僕がいれば幸せと笑ってくれる限りは。

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