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「あれ、これって飛車か王がどっちか取られる?」
「どっちかって言うか、王を逃がさないと負けますよ」
「うーん、なるほどそう来るのか……」

腕を組んで悩む先輩が見つめるのは、ソファー前のローテーブルに広げた折り畳めるタイプの薄い将棋盤。
先輩の部屋にお邪魔すること数回目の今日、以前将棋を教えてほしいと言われたことを思い出した俺が持ちこんできたものだ。

駒の動かし方を教えた時は驚くほどの飲み込みの良さを見せた先輩だったが、さすがに実践となるとそうはいかなかったらしい。もう一勝負もう一勝負と言われて既に5局目になるが、未だ敵陣への攻め込みかたを掴みきれていないようだ。攻めあぐね無駄に駒を自陣でうろうろさせていた先輩は、数手後の俺の王手に悔しそうに頭を抱えた。

「あーくそ、難しいなー」
「最初は誰でもそんなもんだと思いますよ。俺もどうしていいかよく分からなかったし」
「そっか、そんなもんか……。いや、でもなあ、よしもう一勝負」
「え、まだするんですか?」
「なんだよ、勝ち逃げか?」
「いや、するのはいいんですけど今日はもうさすがに。そろそろ日付も変わりますし」
「じゃあもう一回だけ。な? 明日休みだしさ」
「それはそうですけど。でも眠くなると帰るのが面倒だし、風呂もまだだし」

なにせ同じ寮内とは言え、気軽にエレベーターが使えない分部屋が遠いのだ。夜も更ければ人目につく機会は減るだろうが、エレベーターだと乗った階数が外から分かってしまうし、万が一ということもある。
将棋に付き合うのはやぶさかではないが帰りの手間を考えるとそろそろ切り上げたい、と先輩の部屋を辞そうとしたのだが、

「じゃあ泊まっていけば?」

俺の懸念は一蹴された。しかし、

「え、泊まる?」
「風呂も好きに使えばいいし、着替えとかも俺ので良ければ貸すし。下着も新品があるから」
「あ、え、でも寝る所とか」
「ベッドでかいから2人でも全然余裕……いや待てよ、一緒に寝るのはまずいか」
「えっ」
「あ、ああ、いや、じゃあ俺がソファーで寝るから。大谷はベッド使えばいいよ」
「いや、そんなさすがに。家主をベッドから追い出したりはできませんよ」
「いいよそんなの。気にすんなって」
「でも……」
「それに明日も来るだろ? それなら泊まってけば行き来の手間が省けると思うけど」
「それはまあ……」

確かにそうだ。あの長い階段を上り下りしなくてもいいというのは、確かに魅力的ではある。だがそこまで甘えてしまってもいいものだろうか。恋人ならまだしも、俺は先輩の告白を曖昧にごまかしている立場であって、いや別にごまかしているつもりではないがどちらにせよまだ結論を出せていないわけで。

なぜなら、言い訳になってしまうかもしれないが俺にとっては今の状況はひどく居心地がいいのだ。また前のように先輩と他愛ない話をしたりこうして遊んだりするのはやっぱり楽しいし、先輩と居るとどこか安心する、というか落ち着く。
だから、わざわざ現状を変化させなくともこのままの状況で何の問題があるのか、と思ってしまう自分もいるわけだ。

もちろん現状維持は先輩にとっては本意ではないだろうし、だから俺が自分の気持ちを真剣に考えずにはぐらかしているのは卑怯だろうな、とも思うのだが。

結局俺は、しばらく考えた後首を横に振って立ち上がった。

「あの、やっぱり今日は帰ります。やっぱりその、色々準備とか……」
「え、何の?」
「心の……?」

なんとも誤解を招きそうな言い方だが決してそういうわけではなく、俺が何らかの不意打ちや予測していない事態に弱いことは既にわかっている。泊まったからと言ってなにもすぐさま何かされると思うほど自意識過剰でもないつもりだが、どちらにせよ心の準備は大事だ。おそらく。

そういう俺の微妙な気持ちが伝わったかどうかは定かではないが、目を丸くして俺を見上げていた先輩は、ややあってから小さく笑って立ち上がった。

「分かった。じゃあまた泊まりはおいおいな。心の準備とやらができてから」
「う、……」

自分で言っておきながら、はたして心の準備ができる日が来ることがあるんだろうかと思った俺だったが、

「そうだ、じゃあこういうのは? 俺が将棋で大谷に勝ったら泊まるっての」
「え? いつになるんですか、それ」

そんな日が来るのかどうかの方があやしかった。

「なんだよ、言ったな」
「はは、すいません」
「見てろよ、すぐに大谷より強くなってやるからな」

笑う先輩につられて俺も笑ってしまう。
元将棋部として遊び半分ながらも中学時代に3年間指し続けた上、それ以前も将棋好きの父や祖父に鍛えられていた俺としては、今日始めたばかりの先輩にいきなり追い抜かれるという事態は避けたいが、
しかしそんな日が来るのを待つのも悪くないかもしれないな、とも少し思ってしまった。

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