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俺の同室者である小島は言った。
恋愛感情と性欲が別だなんてふしだらであると。
曖昧にぼかした慎二さんの話と一緒にそれを伝えると、外部生仲間かつ知らないうちに彼氏ができていた友人安田は、1つ頷いてから言った。
好きだからしたいってのは正しいけど、したいから好きってのは違うんじゃないかな、と。
そして、それを横で聞いていた同じく外部生仲間かつこちらも部活の先輩とめでたく付き合い出したらしいもう1人の友人、上野は言った。
そりゃ確かにそうだけど、恋の始まりとして性欲もあっていいんじゃないの、つーかきっかけはどうあれ自分が好きだと思えば好きでいじゃん、と。
三者三様なるほどと頷ける意見だが、さてここまでが前振り。
本題は、副会長に告白されてから数日経ってもぐるぐる悩んでいた慎二さんにそれを話したことだ。といっても別に慎二さんのためだけに友人達に意見を聞いたわけではなく、半ば自分のためなのだが。というのも、
「あーなるほど、そう言われれば確かに、……ん? ってことは結局俺は……?」
好きなの? 溜まってるだけなの? とまたぐるぐる悩み出してしまった慎二さんについては考えるまでもないと思ったからだ。
だって、
「好きなんじゃないですか? 好きじゃなきゃほっぺにちゅーとかできないでしょ」
小島情報の切り札を切った俺に、慎二さんはがばりと顔を上げる。
「はっ!? 何でそれ」
「友達に聞きました。食堂でやっちゃったんでしょ? よくもまああんなに人目があるところで堂々と」
「いや、アレはついノリでっつうか、だって美波がしてって言うから」
「頼まれたって普通しませんよ。ただの男友達なら」
「う……」
顔を真っ赤にした慎二さんはまだもごもごと言い訳をしようとしているが、慎二さんを俺に、副会長を適当な友人知人にでも置き換えてみれば答えは明白だ。普通なら、というか俺なら、気色悪いこと言うなよと笑い飛ばして終わるだろう。
少なくとも、適当な友人知人というのが例えば上野や安田や小島や慎二さんであれば。
「でも確かにそうだよなあ。普通男にキスなんか頼まれたってしねえよな」
「しませんね」
「やっぱ好きなのかなあ」
「俺はそう思いますけど。どこが好きなんですか?」
「知らねーよそんなん。つうか……」
悩んでいたかと思えば、突然押し殺したような笑い声。思わず首を傾げると、慎二さんはとうとう噴き出した。
「ふは、ほっぺにちゅーってなんだよ。なんで言葉のチョイスがそんなかわいーの!」
あ。
「いや、違いますよ! 目撃者情報をそのまま言っただけですって」
「は、ははっ! 似合わねー! ちょっともっかい言ってみ?」
「嫌ですよそんな。というか笑いすぎでしょ!」
元気が出たのはいいことだが、いやはやなんとも恥ずかしい。
が、笑い転げながら俺をからかっていた慎二さんは、突然ふと動きを止めた。それまでが嘘のような真顔で辺りを見回し、表情を険しくする。
「慎二さん?」
怪訝に思って開いた口は、正面から伸びてきた手にぱしんと塞がれた。黙れ、と低い声で囁かれ、さすがに異常事態を察する。咄嗟に荷物を掴んでそのままの体勢で固まること数秒、腰を低くして立ち上がった慎二さんは、俺を乱暴に引きずりながら側の茂みに飛びこんだ。
「いっ、」
その拍子に、草、というか枝が俺の腕に引っかき傷を残す。が、上がりかけた声は途端に再び塞がれ、その勢いのまま地面に頭を押さえ込まれた。何なんだ一体、と状況を把握しきれていない俺の頭は不満を覚えたが、それも一瞬のこと。そろそろと上げた視界の中に一拍遅れて校舎方面の木の陰から人が現れたことで、ようやく慎二さんの意図が分かった。
短い黒髪に長身でがっしりした体つき、厳つい顔の中でも鋭い光を放つ目つきの悪さ。学園内の有名人の顔と名前にことごとく疎い俺が自衛のために唯一覚えた人物。規律に厳しく違反者への指導は鬼と名高い風紀委員長が、そこに立っていたのだ。
やばい、と体が硬直する。それから心臓が早鐘をうちはじめ、背中をたらりと冷や汗が流れた。どうしてこんな所に、今までここは安全だったのに。口の中に溜まった苦い唾液を飲み込みたいが、それでバレてしまったらと思うと呼吸をすることすら恐ろしい。
身じろぎもせずに固まる俺の視界の中で、風紀委員長は腕を組んで辺りを見回した。気づかないでくれ、という俺の祈りが伝わったのかどうなのか、その視線は俺たちのいる茂みを素通りしていく。
が、安堵のため息を口の中でついたのもつかの間、委員長はさっきまで俺が座っていた所に腰を下ろし、それから違和感を覚えたのか再び立ち上がってベンチに手のひらを当てた。
指先がひやりと冷えた。ついさっきまで俺が座っていたところだ、おそらく温もりでも残っていたに違いない。そしてそれが残っているということは、座っていた人物はまだそう遠くないところにいるということだ。
委員長も同じことを考えたのだろう、鋭く辺りを見回し、しかし思い直したようにもう一度そこに腰を下ろした。
「……」
しばらくの沈黙。
息もろくにできないまま、俺の上にのしかかっている慎二さんの体重がだんだんと重く感じてくる。それなのに、俺達の緊張とは裏腹に委員長はここでしばらく一休みとでもいうかのように緩く目を閉じて寛ぎしたのだ。一刻も早くどこかへ立ち去ってくれないだろうか、と思うも時間だけがじりじりと過ぎていく。
そして、無理な体勢のまま手足がだんだんと痺れだした頃。不意に長い息を吐き出した委員長はようやく立ち上がった。途端にほっとして、そっと全身の力を抜く。
だが気を抜くのはまだ早かったらしい。去り際にひょいと身をかがめた委員長は、ベンチの下から何かを拾い上げたのだ。目をこらし、瞬間息が止まりそうになる。帰り際に拾おうと思って、足元でもみ消したままにしていた吸い殻。迂闊だったと内心ほぞを噛んでいると、何かを確かめるようにまじまじと吸い殻を見つめていた委員長は不意に小さな笑い声をもらした。そして。
「見ーっけ」
そう独り言をもらして口の端を上げた委員長は鬼のように怖かったと、俺は後に小島に語った。
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