息が上がる。後方から追いかけてくる何かが、確実に己の名を呼んでいることに気付いていたが、尚更サクラはそれに捕まらないよう躍起になって走った。執拗に追いかけるそれは、ぐんぐんと距離を縮めて行く。仮にも女子が全速力で逃げる事情を察知して欲しいものだ。まったくデリカシーの欠片もない奴。自分に掛けられる名前がとうとう真後ろに迫った気がした。
そういえば、つい最近もこんな状況があった。あの時は只管に逃げろと警告をくれた脳が今回は何の指令も出してはくれない。心臓が爆発する直前のように脈を打っていることに気付いてサクラは限界だと思った。
ぐんと腕を強い力に引っ張られるのを感じて、ついに、サクラは失速した。

「捕まえた」

男の手ががっちりと彼女の手首を掴み上げた。浅く早く繰り返される呼吸を整える間も無く、全力で地面を蹴ったサクラの足はもつれるように崩れた。
あわやアスファルトに跪く格好になるのを、軽々とナルトが阻止する。

「サクラちゃん、急に止まると余計にしんどいってばよ。ゆっくりでいいから、歩こう」

同じ距離を走ってきたはずなのに、大して息の上がっていない男に支えられながら、サクラはゆっくりと一歩ずつ歩き出した。当たり前のように自分の手を引く彼の手を今更振りほどけるわけもなく、この時ばかりは大人しく従った。
暫く行く当てもなくして、無言で歩いていた二人だったが、ついに沈黙を破ったのはナルトだった。
押し殺すような笑いが、堪えきれなくなって声に出たという感じだったが、そこから歯止めが効かなくなり男はけらけらと笑い出した。

「サクラちゃん、超足はえーんだもん」

それの何が面白いというのだ。悪いが運動神経はいいほうなのだ。
褒めているのか貶しているのかわからない男にサクラは口を引き垂れる。

「結局あなたに追いつかれたわ」
「当たり前、俺元陸部だってばよ」

得意げに男は笑った。何故かしてやったりの顔に罵声の一言でも浴びせてやりたい乱暴な感情に駆られるが、例えサクラが何を言おうと返ってくるのは笑顔だとわかってしまったので、特に放つ台詞もなくただ荒かった呼吸が少しずつ落ち着きつつあったのを大人しく感じていた。
さっきまで、私を捉えていた部屋を思い出してみる。あんなところもう二度と踏み入れないのだから、潔く忘却する選択が賢いのだと思う。

「あんなに全力で逃げるなんて、イタチに何かされたのか」

心配そうな蒼い双眸を向けられて、サクラは微かに首を振る。

「そんなんじゃないの、大丈夫」

さて、どうやって言い訳をしようか。全く接点のないはずの彼の家に私がいた不自然を納得できる理由。
休んでいた彼の元へ、担任に頼まれたプリントを届けに来たの。
そうだ、さらりと、するりととぼけるのが一番いい。

「あの」

言いかけて、サクラは生まれて初めて言葉を飲み込んだ。文字通り飲み込んだのだ。ナルトの、いや人のこんなにも柔らかい笑顔に出会ったことがあっただろうか。

「ならいいんだ」

怯んだと言ってもいいと思う。刀や鉄砲を携えて戦闘態勢が整ったときに、敵が丸裸で笑いながら走ってきた、例えるならそんな感じだ。その滑稽さに毒気を抜かれた。と、同時に懐かしい安らぎを覚えてしまう。
ああこれは、侵食されたら駄目なやつだ。
サクラは繋がれていた手をそっと解き立ち止まった。

「私家帰るから」

そっけなく、あまりに気の利かない言葉が音になる。ナルトは解かれた手をとっさにパーカーのポケットに突っ込むと、少し上気した頬を釣り上げて、にかっと笑った。

「俺んち、ここなんだ。遅いから送ってくってばよ。バイクすぐ取ってくるから待ってて」

サクラの返事を待たずして、ナルトはライトがぱっと照らされた扉に迎え入れられる。彼が消えていった家は決して大きくはない。何処にでもありふれている、普通の戸建て住宅だ。なにも珍しくない、ドラマで見る一般家庭が暮らすのに一番適しているような家。
慌ただしい足音がサクラにまで届く。

「ただいま!」

ナルトの元気な声が響いたかと思うと、

「あんた家の手伝いもしないで何ぷらぷらしてたのよ!」

それを上回る女性の声が勇ましくも彼を叱りつけているようだった。

「ごめん、母ちゃんあとで肩揉みするから!父ちゃん、バイクのキー貸して!」

彼とその家族のやり取りに何故か心臓がぎゅうっとした。嫌な感覚ではない。自分が得られなかった家族に嫉妬したわけじゃない。帰るはずだった足は不思議と全く動かなくなった。彼らの目に見えないやり取りをずっと待ち望んでいた自分が居たように、ああ私はこの光景を見てみたかったんだと素直に納得出来てしまう。そう思っている自分に一番戸惑う。目の奥が熱くなり、涙が溢れそうになる。流石に泣くのは不気味だろう。唇を結んで、ただそこにサクラは佇んでいた。
消えた時と同じくらいどたばたとまたナルトが現れた。そこに彼女がいることが奇跡だといわんばかりに特上の笑顔をくれる。

「帰っちゃうかと思った。急いでよかった」

いつだって私だけを見ているこの男を私は知っている。かつて、化け物と呼ばれた少年、両親がおらず幼い頃からひとりぼっちで、里の皆に忌み嫌われていたこの男。あれは何処だっけ。
遠い記憶なのか、夢の話かわからないけれど、私は彼と友達だった。否、友達だということにしておきたかった。彼は私を好きでいてくれた。ずっとずっと好きでいてくれた。私はそんな彼を拒んでまで、ずっとずっと好きだった人がいたはずだ。そこだけがすっぽり抜け落ちている記憶。

「ねぇナルト、私のこと憶えてる」

思わず口をついてでた。彼が少し驚いた顔をしているのに触れ、口にすべきでなかったと後悔する。

「ごめん、変な事聞いた。今の忘れて」

顔を伏せると、返事の代わりにヘルメットを渡される。彼は着ていた上着を脱いで、サクラの肩に掛けた。

「寒いから、羽織ってて」

ナルトは思い出していた。初めてサスケに出会った時、彼も尋ねた。悟った瞳でお前は俺を覚えているか、と。初対面なのに何を馬鹿な事を言っているのだとその時は一笑したけれど、今回ばかりは笑えなかった。二人とも己の記憶に自分の存在を確認するが、身に覚えがなさすぎるのだ。サスケとは中学に上がった時、女子の人気を独り占めしていることに嫉妬して、喧嘩を売った。サクラとは高校生なって、初めて廊下ですれ違ってから密やかに想いはしているものの、言葉を交わしたのはつい最近。それだけだ。彼らが求めているであろうそれ以上の記憶が、自分にはないのだ。
彼女を送った帰り道、ナルトは慎重に緩やかに記憶を辿ってみた。それでも蘇るものなど何もなかった。






もう三年近く続けている仕事は、はっきり言って体力がいる。搬送する荷物を夜のうちに仕分け朝方に経つトラックの出発に間に合うように運び込む。おかげでジムになど通わなくとも十分すぎるくらい体は鍛えられるし、何より割がいい。この仕事が続く、一番の理由だ。
脇腹の火傷が疼くこともあったが、痛み止めを上手に使って今日の仕事を終えたサスケは、閑散とした倉庫の前に、ひとりの金髪が佇んでいるのを見つけた。闇夜によく映えるブルーの瞳をこちらに向けて、彼は手を振った。

「珍しいな。何の用だよ」

そっけなく問いかけると、まぁまぁと窘められてしまう。

「ちょっと散歩しようと思ってよ。一緒に歩かねぇか」

いつもぎゃあぎゃあ喚き散らす煩い奴が、こうも静かだと気味が悪い。構わず彼の前を通り過ぎると、サスケの速度に合わせてナルトが後ろをついてくる。

「前に貸したモデルガンあっただろう。今日お前んちに取りに行ったら、サクラちゃんが泣きながら飛び出て来たんだ」

サスケの足が一瞬、止まったように見えた。が、彼の表情は相変わらずでナルトに落とす視線すらなかった。

「もう遅かったし、送ってったんだ、俺。そしたらサクラちゃん、お前と全く同じ事聞いた」

ねぇ、ナルト。私のこと、覚えてる。

自分より少しだけ前を歩くサスケの足が、とうとう止まった。くるりと振り返って、その漆黒が焦点を合わせた。

「なぁ、お前らさ、何隠してんだよ」

サスケに誤魔化される前に、ナルトは視線を逸らさず問いかけた。自分だけ知らない記憶があるのであれば、それは嫌だ。お前の記憶にもし俺がいるのなら、俺の記憶にも、お前がいるはずなのだから。

「お前はサクラにそれを聞かれて、何かを覚えてるのか」
「いや、そんなんじゃねぇ」
「なら、この話は終わりだ」

サスケはコートに手を突っ込むと、また先程と変わらぬ速度で歩き出した。この男が、必要以上に口下手であることは、もう知っている。だが、今回だけは引き下がれない。

「サクラ、なんて何でお前が呼び捨てにするんだよ。お前ら、そんなに親しかったのか」
「小学校が一緒だった。ちっせぇ学校だったからな、ガキの頃に一緒に遊んだことくらいはある。皆がそう呼ぶから俺も呼んだ。問題あるか」

もうサスケは振り返らない。頑なにナルトを見ようとしない。目を合わせれば、どうなるかわかっているからだ。お願いだからそれ以上お前は関わるなと柄にもなく縋ってしまいそうなのだ。
ナルトには人の心に介入する力がある。かつて、幾度となく救われたその力が今は無性に怖かった。

「なぁ、お前が何を隠してようと構わねぇんだ。例え何があっても俺はお前を絶対に軽蔑しねぇから。だから、教えてくれ。俺にもお前と同じ記憶があるはずなんだ」

そうだとも。俺とお前は嫌でも同じ記憶を共有している。一番強烈な記憶だ。忘れ去りたいと、解放されたいといくら望んでも消えてはくれなかった。まるで、俺に苦しめと言っているようなそれは、もう喪いたくないと願う彼らさえも奪っていくのか。

「俺は人を殺したことがある」

少し投げやりにも聞こえた。思いもしなかった台詞の衝撃に一瞬怯んだのは事実だ。しかし、そこに生まれた一瞬をサスケは見逃さなかった。

「引いてんじゃねぇか」

息を吐いて笑う彼が悲しげな表情を浮かべた。

「ちが、」
「ばーか、冗談だ。真に受けんな」

一瞬だ。いつもサスケは一瞬を許さない。そう感じる節が今まで何度もあった。
例えば彼は、避けるのが得意だ。会話から、関わりから、相手に気付かれることなくするりとその身を交わすのだ。いつもの面子で集まる時も、彼にだけは踏み込めない何かがあった。決して踏み込ませてはくれない、サスケの闇。
とうとうナルトが押し黙った。サスケはそれを異様な光景だと、他人事のようにさえ思った。

「今は、勘弁してくれ。いつか絶対話すから」

俯いて顔を上げないナルトにそう声を掛けることが、サスケなりの精一杯の解答だった。

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