梟谷 | ナノ


▽ 拒否権なんて無いに決まってる


小さい頃から、彼女は雷が大の苦手だった。
一人で留守番していた時に限って雷雨と暴風、更に停電してしまったことが彼女に大きなトラウマを残したのだ。それは高校二年生になり、俺達の関係もただの幼馴染から恋人同士に変わった今でも、決して忘れられない記憶らしい。
そんな彼女の顔が浮かんだのは、7時頃まで行っていた部活から帰宅し、ゆっくりとお風呂上がりの髪の毛を乾かしている時のこと。室内、しかも洗面所という奥まった空間に居るにも関わらず、心臓に響くほどの轟音に思わず肩が上がる。そしてそれが雷だと頭で理解した時には既に体が動き出していた。
スマホの着信履歴の一番上。見慣れた名前をタップすれば、すぐに機械音が流れる。

「……もしもし、」
「名無しさん、今ひとり?」
「うん、」
「おじさんとおばさんは?」
「二人とも雨で電車遅れてるみたい。」

彼女の声がいつもよりもか細くて儚げなのは、決して気のせいではないと思う。数拍の沈黙の後に彼女が口にしたのは、疑問符でありながらも疑問文ではなく、頼みごとのような文でありながらも頼み事なんかではなく。「来てくれる?」その言葉を訳すとすれば「京治は来てくれるよね。」である。わかっていながらも支度をするあたり、俺も大概だ。
幸い、幼馴染と言うだけあって1分もしない距離に彼女の家がある。「ちょっと行ってくる」と返事も聞かずに傘を持って走ること数十秒。いつも通り、彼女の家はリビングだけ明かりが点いていた。

「名無しさん、大丈夫?」
「ふ、うっ、だいじょ、ぶ、っうぅ、」

お邪魔します、なんて言葉も今回ばかりはパスで、迷わずリビングに入っては、ソファの上で山を作っているタオルケットを出来るだけ優しく抱きしめた。雷が鳴れば彼女がここで必ずこうしていることは、経験上わかりきっている。そして勿論、大丈夫かと聞いたところで、彼女が泣きながらも大丈夫だと答えることもわかっていた。だからこの言葉はあくまでも形式上のもので、返ってくる言葉を求めているわけではない。
俺がここに来て出来ることはと言えば、トントンと彼女の背中を優しく叩きながら特に意味のない話を零して、彼女が落ち着くのをただ只管に待つことだけ。本当にただそれだけなのだけれど、彼女曰く、俺が傍に居るだけで良いのだとか。

「京治、ありがとう。」

雨が弱まって、雷も居なくなった頃。漸くタオルケットから顔を覗かせた彼女は、目を真っ赤にさせながらも嬉しそうに笑ってそう言った。この笑顔を見られるのなら何でもしてしまいそうな甘い自分に、それでも良いか、なんて。彼女を天秤にかけられた俺に、拒否権なんて無いに決まってる。これから先、何があっても名無しさんを守ってみせるから。



(161006)


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