虚弱系男子 | ナノ


▽ 風邪



彼、鉄郎が、普段の性格に反して意外とマメだということは、付き合ってから知ったことだった。いつからか、彼の朝練が始まる直前にモーニングコールをしてくれるのが当たり前で。あたしも自力で起きてはいるけれど、彼の声を聴いてスッキリ目覚める心地良さに気付いてしまっていた。とは言うものの、彼も人間だ。寝坊してギリギリの時や、部活のことで忙しい時は連絡が無かったりする。そういう時は大抵、学校に着いてから声を掛けてくれるから特に気になることもないのだけれど。

『てつろー?』

今日は、そのどちらでもなかった。朝の電話もなければ、学校に着いてからも彼には会っていない。さっき教室の前を通り過ぎていったバレー部の集団の中にも彼を見つけることは出来なかったし、部長の用事で後から来るのかとも思ったけれど、そんな様子もなく。同じクラス、少し離れた鉄郎の席はチャイムが鳴っても空席だった。
メッセージを送れば、案外すぐに携帯が彼からの返信を知らせて震える。

『がっこうやすむ』
『どうしたの?』
『ねつでた』
『大丈夫?』
『けっこーげんき』

それが彼なりの見栄だということはすぐにわかった。短文、平仮名、顔文字記号など一切無い、なんて彼らしくない。ふざけて平仮名ばかりの長文を送ってくる時もあるけれど、それにしたって内容がそっけないのだ。つまりは、体調が悪すぎてメッセージを送るのですら辛い、ということではないだろうか。若しくは、元気だけれど熱に浮かれて頭が回っていないか。どちらにしろ、心配なことには変わりないのだけれど。

不安いっぱいで過ごした一日は、いつもの何倍も長く感じたし、彼の家までの道のりは果てしないんじゃないかとさえ思えたけれど。漸くそこに辿り着けたあたしは、空いている手で何度も押したことのあるチャイムを鳴らした。もう片方の手にある袋には、途中のスーパーで買ってきた果物やゼリーが入っている。
少しして「はい、」と聞こえた機械に名乗れば、ゆっくりと開いた扉から彼が顔を覗かせた。

「……お前、何で来てんの。」
「先に言っておくけど風邪うつすから帰れってのは却下で。お邪魔しまーす。」

彼が言いたいことはすぐにわかって。そんな彼を無視して一歩踏み出せば、彼は観念したのか、大きく溜息を吐きながら道をあけた。それからいつもより少し遅いペースで部屋へと向かう彼に「熱どれくらい?」と聞けば、少し間を置いた彼は「はち、くらい」と。いつもより格段にレベルの下がった隠し事に、今度はあたしが溜息を零す。部屋に戻ると倒れ込むようにベッドに項垂れた彼の脇に、了承もなくあたしに挟まれた体温計は、39としっかり彼の嘘を証明してくれた。

「……とりあえず、替えの冷えピタとか取ってくるから。」
「ん。」
「寝てていいからね。」
「ん。」

布団を掛けながら睡眠を促し、買ってきたものを片付けるべくリビングへと向かう。何も食べていないとのことだったから、ゼリーくらいは食べてもらいたいところなんだけれど。
というのも、少し前に寄ってきたスーパーで、あたしは不意に声を掛けられて。誰かと思えば、彼のお母さんが駆け寄って来るのが見えた。「もしかして、鉄郎に?」そう言うおばさんに素直に頷くと、おばさんは笑顔で「ありがとう」と。けれど、それからすぐに「あの子、昨日の夜から何も食べてなくて。」と眉を下げた。
おばさんの話によれば、今日は遅番のシフトらしく、早くても9時過ぎになってしまうとのこと。遅ければ10時になるかもしれない、なんて言葉に「じゃあ帰ってくるまで待ってますね」と約束してしまったのだから、しっかり鉄郎の看病をしなければならない。

「鉄郎、起きてる?」
「ん、」
「ゼリー食べない?」
「いや、いい……」

部屋に戻ると、いつもの体勢では辛いのか、横向きになって小さく蹲った彼が目に入った。寒いのだろうか、小刻みに震える彼に声を掛けながら、冷えピタと氷枕を取り換える。そうすれば、彼ぐりぐりと頭を枕に押し付けて。「頭痛いの?」あたしの問いかけに、彼は小さな声で痛い、と。言いながらも寝返りを打つのは、きっとその頭痛を少しでも和らげようという、人間なりの抵抗によるものなんだと思う。苦痛のせいで眉間に皺を寄せる彼を黙って見ているなんて出来なくて、そっと髪を梳かすように撫でれば、心地良いのか少し表情を緩めるのがわかった。

「店でおばさんに会ったよ。朝から食べないから薬飲めてないんでしょ?」
「食べたら、吐くかも、」
「じゃあ坐薬にする?」
「え、」

緩まっていた表情は、あたしの一言で瞬時に強張って。おばさんから教えてもらった魔法の言葉は、あまりにも効果がありすぎたみたいだ。確かに、いい年した男の子が彼女に坐薬さしてもらうなんて、とんだ恥晒しである。しかも、オフザケ以外で甘えてくることの少ない鉄郎にとってそれは地獄でしかない。
「食べてみる」そう言ってもそもそと辛そうに体を起こす彼を支えるべく隣に座れば、自分を支えきれなかった彼の重みが全てあたしに圧し掛かった。

「はい、あーん。」
「……うまい」
「良かった。食べれるだけ食べたら薬飲んで寝ようね。」
「あぁ。」

それから何口かゼリーを口に運んだ鉄郎は、やはり食欲が出ないらしく半分ほど残してしまったが、少し食べただけマシだろうと薬を飲んで、鉄郎はまたすぐ横になった。苦しそうにする彼が少しでも楽になるようにと、先程と同じように頭を撫でれば、余程気に入ってもらえたのか、彼はほんの少し口角を上げて。「おやすみ」というあたしの声は聴こえただろうか、自然と眠りに落ちていった。
それから30分程たったであろう頃。何となしにベッドに寄り掛かりながら彼の部屋にある漫画を読んでいれば、彼が動いたらしく、布団がもぞもぞと擦れる音がして。寝ていても調子が悪いのは変わりないんだろうな、なんて思いながら様子を見ようと腰を上げた、まさにそれと同時。ごぽっ、という聞きなれない音とともに、彼の口から反吐が溢れ出した。

「え、ちょっ、鉄郎起きて!」

嘔吐が喉に詰まって窒息死、なんてどこかの誰かに聞いた言葉が脳裏に浮かんで、咄嗟に彼の体を起こす。そうすれば、寝ぼけながらも状況を理解したらしい彼は、途端に訪れた吐き気に口を手で覆った。それが最早何の意味もなさないことは彼も理解しているようで。手繰り寄せたごみ箱に顔を突っ込んだ彼の背中を擦れば、びくびくと何度も背中が波打つ。

「っ、おぇっ……げほっ、ぇ、おぇっ……」
「大丈夫、全部出していいからね。」
「げほっ、げぇ、っえ、おぇ、っ、げほげほっ」

少ししか食べていないこともあってか、すぐに吐き気が治まった鉄郎に飲み物を渡して、口をゆすぐように促す。それから脱水にならない様にと少し水分をとった彼は、すぐにぐったりとベッドに横になってしまった。吐いても熱の辛さは変わらないのだろうと、そっと背中を撫でれば、ふと鼻を啜る音が聴こえて顔を覗き込む。けれどそれに気が付いたのか、咄嗟に顔を腕で覆う彼に、思わず笑いが零れた。

「どうしたの?」
「なんか、情けなくて、すげー、恥ずかしくて、彼氏、なのに、カッコわりぃ。」

彼氏なのに。まさか彼がそんなことを考えているなんて思いもしなかった。彼氏だからって気張って頑張らなくてもいいのに、カッコよくいたいと思ってしまうのは、彼らしいと言えば彼らしいのだけれど。
寧ろ、彼氏なんだからもっと彼女のこと頼ってほしいんだけど。率直にあたしの気持ちを伝えれば、彼は困ったように笑って「がんばってみる」なんて。そんな彼の優しい笑顔が少しでも沢山見れますように、そう願いを込めて、あたしは彼に触れるだけのキスをした。


(160418)


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