魔王に捧ぐ硝子の花 | ナノ


 バケツをひっくり返したような雨、というのはまさにこのことだろう。
 鼓膜をびりびりと刺激する轟音を伴いながら、大きすぎる雨粒が容赦なく体を叩いている。ぬかるみを通り越して沼地と化した大地とブーツの中でじゅぷじゅぷと波立つ不快な感触が、体力を消耗させると同時に神経を逆撫でする。
 ――本当にひどい雨だ。前もろくに見えないどしゃ降りの中、全身をしとどに濡らしたナズナはため息をついた。
 ハイラル湖を意気揚々と出発した時は確かに抜けるような青空だった。幸先がいいぞと喜んだのも束の間、一時間もしないうちに雲行きが怪しくなり、見る間に降りだしてこの様だ。素直にみずうみ研究所かつりぼりで暇を潰せばよかったと思うも後の祭りである。
 ハイラル湖に戻るにはすでに道を進みすぎているし、かと言って目的地のカカリコ村は遠すぎる。どこかで雨宿りをしようにも、ハイラル平原にはこの豪雨をしのげるほど大きな木はない。

「こんな中、馬を呼ぶのもかわいそうだしなぁ……」

 そうこうしている内に、周囲が暗くなってきた。日が暮れかけているのだ。本来の予定では今ごろロンロン牧場あたりに着いて一晩泊まらせてもらう交渉をしているはずだったのだが、今日はいかんせん足元が悪すぎる。恐らく予定されていた道筋の半分も進めていないだろう。
 ナズナがもたついている間も時間は待ってくれない。夜はどんどん迫ってきて、頼りにしていたコンパスの針も読み取りづらくなってくる。
 ――これ以上はもう本当に進めない。あまり意地を張って歩いても、広大な平原で迷子になるだけだ。
 ナズナは立ち止まって辺りを見渡す。雨をしのげなくても構わない。せめて、どこかに背を預けられる木があればいいのだが。ほとんど役に立たない目を凝らして休む場所を探していた彼女の視界に、不意にあるものが飛び込んできた。

「……洞窟?」

 もっと正確に言えば、人の背丈ほどもある横穴だ。それが、切り立った断層面にぽっかりと空いている。知らぬ間に平原の端に来ていた自分に呆れながら、ナズナは首を捻る。

「あんな穴、あったかしら」

 考えていても始まらない。きっとハイラルの神様か何かがこの国の為に頑張っている自分へ報いてくれたんだろうと都合のいい解釈をして、彼女は躊躇いなくその穴へと足を向けた。




 穴はナズナが思ったよりもずっと深くに続いているようだった。暗くて見えない奥に向かうのは少し怖かったので、彼女はとりあえずぎりぎり雨の届かない入り口付近でたっぷり水を含んだ髪を絞っていた。ほんの少し手に力を入れるだけで、面白いようにぼたぼたと水が滴り落ちる。
 前髪も含めて丹念に水を落とし終えると、今度は愛用しているワンピースを着たままの状態で絞っていく。後でシワになってしまうだろうが、そのときはまた洗い直せばいい。それが済むと、最後に片足ずつブーツを脱いで中に入り込んだ水を流した。

「お風呂入りたいなぁ」

 そうぼやいた彼女は、吹き込んできた風に大きく身震いする。秋の冷たい風は、濡れた体には非常に辛い。
 ナズナはふと穴の奥に目をやる。真っ暗で、何があるかは全く見えない。ひょっとしたら凶暴な動物や魔物のすみかである可能性もある。だが、いくらなんでもこの状態で風に身をさらしたまま夜を越すのは体に障る。ナズナは腰に提げてある短剣の柄を手でまさぐると、意を決して暗闇に向かって歩き出した。
 ――鬼が出るか、蛇が出るか。ナズナはぴりぴりと警戒を全身に張り巡らせて慎重に一歩一歩足を前へと運ぶ。視界の利かない暗闇では、聴覚や触覚をより意識して働かさねばならない。
 しばらく進んでいると、前方に微かな光が見えてきた。オレンジ色にゆらめく、あたたかな火の光だ。
 ナズナはほっと体の力を緩める。どうやら、自分の他にも雨でここに避難した人間がいるらしい。もし同席を許してくれるような優しい人物だったら、一晩火に当たらせてもらおう。彼女はわざと足音を立てて明かりの元へ歩んでいった。




 穴のゆるやかなカーブを越えたところで、ナズナはようやく光源である火を目にすることができた。その側にひとりの人物が腰を下ろしている。彼女は安堵の息をついてその人物に声をかける。

「あの、すみませ――」

 振り返った人影に、ナズナはびしりと固まった。見覚えのありすぎる赤毛に高い鼻、そして猛禽類を思わせる鋭すぎる金の眼。
 あまりにも予想外な展開に彼女の頭は一瞬の思考停止の後にフル回転し始めた。
 ――なんで、魔王がこんなところにいるんだ。
 火で明かりと暖を取っているのは、いま現在このハイラルを支配している魔王であり、実はこっそりナズナの片想いの相手でもあるガノンドロフだった。この時代に入ってからはてっきりガノン城にこもりきりだと思っていたが、こんなハイラル平原の真っ只中の横穴にいるなんて想定外にもほどがある。というか何をしているんだこの人は。ラスボスなんだから城の最上階で大人しくふんぞり返っていてほしいものだ。
 いや、そんなことはどうでもいい。問題はこれから自分が取るべき行動である。
 失礼しましたときびすを返そうにも、外は豪雨の夜の真っ只中。かといって、友人リンクの宿敵でもある魔王ガノンドロフと席を同じくしてもよいものか。というか同席して何事もなく夜を明かせるのか。どちらの行動を取るにしてもどうにも踏ん切りがつかない。
 迷うナズナの目に、ふと彼の隣で明々と燃えている火が映った。通常の薪を使ったものではなく、ガノンドロフの魔力を糧に燃え続ける魔法の炎である。燃料は大分ファンタジックではあるが、炎であることには代わりがない。無論、その明るさと熱は本物だ。

「すみません。その、火……当たらせていただいても?」

 冷たい雨に打たれてすっかり凍えきってしまっていたナズナは、友人に義理立てして外に飛び出すことよりも、魔王の傍らにある火のぬくもりを選んだ。
 ガノンドロフは不安げに立ち竦むナズナを鋭い眼差しでじっと睨んでいたが、しばらく観察して彼女に敵意がないことを察したのだろう。

「構わん」

 そう短く答えると、彼は再び揺らめく火に視線を戻した。

「じゃあ、失礼します……」

 いそいそと彼の近くに寄ったナズナは、ガノンドロフの正面――ではなく、そこから三十度ほど左にずれた場所を選んで腰を下ろした。真っ正面から彼の顔を見る度胸はないし、もっと狭い角度だと距離が近すぎてしまう。ちょっと眼を動かして彼を覗き見ることのできる、このくらいの位置が一番ちょうどいい。
 ナズナは攻撃しない意思表示として腰のベルトから短剣を取り外すと、荷物袋の中に入れて手を伸ばしただけでは届かない場所に投げ置いておく。
 そうしてから、彼女はかじかむ手を火に向けた。じんわりと指の先から伝わってくる熱に、少しだけ安堵する。濡れそぼった服を着ていては体を芯から暖めることは難しいが、そこは我慢しよう。露出した腕が暖まるだけでもありがたい。
 くしゅん、と小さなくしゃみをする。

「小僧はどうした」

 不意に耳を刺激した低い声に、ナズナはびくりと肩を揺らす。

「――リンク君は水の神殿です」

 答えながら、ちらりと目だけでガノンドロフを伺う。相も変わらず、泣いている子供が気絶しそうな凶相である。七年経ってさすがに若々しさには陰りが見え始めているものの、代わりに魔王らしい落ち着いた威厳が全身からにじんでいる。

「小僧のお守りはせずともよいのか?」
「ヘビィブーツがひとり分しかなくて。それで、先にカカリコ村に戻ろうとしたんですけど、この雨で」
「そうか」

 話している内に、体の緊張が徐々にほぐれてきた。誰が相手でもこうしてすぐに警戒心を解いてしまうのが自分の悪いところだとナズナは自覚している。

「ガノンドロフさんは、どうしてこちらに?」
「貴様に話す筋合いはない」

 相づちを打とうと開いた口から、今度は二連続でくしゃみが出る。一拍置いて濡れた体に悪寒が駆け抜けた。

「……失礼。何はともあれ、災難でしたね」

 誤魔化すように笑って顔を上げると、思いがけず金の瞳と目が合ってどきりと心臓が跳ねた。ガノンドロフはどぎまぎするナズナの胸の内を知ってか知らずか、彼女をまっすぐに見つめたまま口を開く。

「女」
「は、はい」
「服を脱げ」
「――はいっ?」

 衝撃の一言である。思わず出てしまった大きな声が穴の中に反響して、ガノンドロフが露骨に顔をしかめる。一方のナズナは驚愕と混乱のあまり口をぱくぱくさせながら爆弾発言の主を凝視する。この暗くて狭い場所に二人きりの状況で服を脱げってどういう意味だ。まさかそういう意味か。真意を確かめようにも恐ろしくて言葉が出てこない。

「濡れた服を着たまま火に当たってどうする」
「あ……ああ、そういう。びっくりした」

 ナズナはほっと胸を撫で下ろした。彼はただ心配してくれていただけだったらしい。少々邪推しすぎてしまったと彼女はひとり反省する。ガノンドロフが他人を心配したということだけでもリンクが聞いたら仰天するほど大事件なはずなのだが、安堵のあまり彼女はそこまで気が回らなかった。

「でも、いまは着替えも、隠すものもありませんし」
「持っていないのか?」
「預けてあるんです。カカリコ村に。今回の旅じゃ、どうせみんな濡れちゃうからって」

 そう言っている間にも鼻がむずむずして、彼女は顔をそむけてもう一度くしゃみをする。

「仕様のない。これでも使え」

 ガノンドロフは呆れたようにため息混じりに言うと、自分の肩から垂れ下がるマントを指差した。最終決戦でお馴染みの、深緋色の魔王マントである。それで体を覆い隠せと言っているらしい。ナズナは驚いてまばたきをする。

「……汚しちゃいますよ?」
「どうせ洗うものだ。それよりも、貴様のくしゃみが煩くてかなわん」

 そう言いながら肩当ての前面にある留め具を外すと、今度は顎をしゃくって自分の背後を指し示した。

「後ろは貴様が外せ、女」

 その言葉にナズナはまたもや瞠目した。魔王たるものが仮にも勇者の旅の供をしている人間に背後を許すとは――と、そこまで考えてふと思い直す。
 ――ああ、眼中にないのか。確かにナズナはリンクの旅に付いて回っているが、それだけだ。マスターソードを持ってもいなければ暗殺できる技量があるわけでもない。おまけに唯一の武器である短剣は荷物の中。警戒する要素などひとつとして存在しないのだろう。
 それならいいか、と彼女は立ち上がる。足に力を入れた瞬間に軽く立ちくらみが起きたが、大したことではなさそうだ。ここ最近ハードスケジュールだったせいで疲労が溜まっているのかもしれない。

「それじゃあ、失礼します」

 ナズナはガノンドロフの後ろに回り、そっとマントと鎧の境目に触れる。彼とはこれまでに何度か邂逅してきたが、自分からこれほど接近するのは始めてだ。しかも、無防備な背中側に。
 ゲルド族特有の鮮烈な赤髪に、自然と眼差しが吸い寄せられる。このまま後ろから首に腕を回してしなだれかかったら、彼はどんな反応をするだろうか。ナズナは軽く目を伏せ、胸の内の悪戯心を理性でねじ伏せる。殺されかねない行為など、止めて然るべきだ。

「えっと、どのへんですか?」
「背の鎧の裏側だ」
「んー……あ、あったあった」

 三つあった留め金を手探りで見つけた彼女は順序よくそれらを外していき、落ちかかるマントを手繰り寄せた。腕にかかった生地が意外にも重い。肌触りや心地よさよりも重厚さを意識したものらしい。保温性にも優れていそうだ。

「じゃあ、お借りしますね。……あの、言うまでもありませんけど、こっち向かないでくださいよ」
「そこまで飢えておらん」
「うわ、ひどいですね」

 何気に傷つく言葉である。
 彼女は少し距離を取ると、ガノンドロフに背を向けてマントを羽織った。大柄な男性のものだけあって、全身くまなく覆い隠せそうなほどに大きい。その分裾をひきずってしまうことになるが、そのあたりは向こうも承知の上だろう。
 時おり振り返って彼の様子を確認しつつ、彼女は一枚ずつ衣服を脱いでいく。革のブーツ、びちょびちょの靴下、日本からの持ち物であるジーンズ、コキリ仕様の袖無しワンピース、その下に着ている半袖のシャツ、幅広の布で作った簡易ブラ。――そして、最後の砦である下着に手をかけてしばし逡巡した。
 何事も中途半端はまずかろう。下腹部を冷やしたせいで後々腹痛などを起こしても困る。しかし、想い人の目の前で裸マントはさすがに難易度が高すぎやしないか。字面だけ見ると変態臭いのも躊躇いに余計な拍車がかかる。
 ――ええい、ままよ! 彼女は覚悟を決めると思いきって下着をおろした。脱いだそれを畳んだ服の間に素早く挟んでようやく安堵の息をつく。これでひとまず山場は越えた。同時に羞恥心をひと摘まみほどなくしてしまったような気もするが、過ぎたことを言っても仕方がない。
 ナズナは素肌をさらさないように気を付けながらブーツと畳んだ衣類を手に持つと、そろそろと火の元に戻っていく。そして衣服を荷物の中に無造作に突っ込むと、自分も先程と同じ場所に腰を下ろした。厚手のマントを通してじわりと伝わってくるぬくもりに、ナズナはほっと息をつく。
 ふと顔を上げると、じっとこちらを見ているガノンドロフと目が合った。どこか値踏みでもしているようにも感じられるその眼差しに、なんとなく居たたまれなくなって視線をそむける。

「……なんですか」
「いや。勧めたオレが言うのもどうかとは思うが、よく敵の前でそんな格好ができるな」

 呆れたような物言いにナズナは盛大に脱力した。そう思うなら最初からあんな提案するな。喉まで出かかったその言葉は寸でのところで飲み込まれた。ならマントを返せとでも言われたら困る。代わりに、彼女はふてくされたようにそっぽを向く。

「それを言うなら、そちらだって同じじゃないですか」
「何がだ」
「無防備に背中なんかさらしたりして。ぶすっと刺されでもしたらどうするつもりですか」

 ふん、とガノンドロフは鼻で笑う。

「侮られたものだな。貴様程度が、このオレ様をどうこうできるとでも?」
「まさか。言ってみただけです」

 ナズナはくすくすと笑う。魔王相手に不意を突こうなど、自殺行為もいいところだ。もっとも、仮にそれができる実力があったところで実行しようとは夢にも思わなかっただろうが。
 二度くぐもったくしゃみをしたナズナは寒気を感じてぶるりと身を震わせる。冷えきった体を暖めるにはまだまだ熱が足りない。暖を取るためにマントをしっかりと体に巻き付けようとして、ふと何かの香りが鼻を掠めた。

「あれ。なんかいい匂いしますね、これ」
「匂いだと? 香など焚いた覚えはないが」

 片方の眉を器用に持ち上げるガノンドロフを他所に、ナズナはマントの端を持ち上げてくんくんと匂いを嗅ぐ。

「そうなんですか? でも、確かに……うーん、なんの匂いでしょ」

 さらにマントを顔に近づけて、彼女は首をかしげた。確かに、香水の華やかさとも香木の穏やかさとも違う。なんと表現したらいいのか、安心すると同時に胸が甘く締め付けられるような、包み込むような香りである。

「……あ」

 ――ふと、微かな記憶が呼び起こされた。
 何年か前、テレビでこんな話を聞いたことがある。女性は好みの男性のフェロモンを嗅覚で認識していて、遺伝子の配列パターンが遠い男性――つまり、相性のいい男性であればあるほど、その体臭をいい匂いであると感じるのだそうだ。事実、付き合っている彼氏の体臭が好きだと答える女性も相当数いるらしい。

「どうかしたか」
「いえ、なんでもないです。その、ちょっと恥ずかしくなってきまして」

 ナズナはさらに深くマントに顔を沈め、赤くなっているであろう頬を隠す。ガノンドロフが怪訝そうな顔をするだけで深く追求してこなかったのがひたすらにありがたい。
 くしゅん、と小さなくしゃみが出た。





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