魔王に捧ぐ硝子の花 | ナノ

 小さな古いテレビの前に、コントローラーを手にした十にも満たない少女が座っている。
 その真剣な眼差しの先では、緑の服を着た青年が巨大な怪物と戦っていた。青年は画面越しにいる少女の指示通りに多様な武器を振るい、徐々に怪物を追い詰めていく。
 ――ついに怪物が膝をついた。そこへ姫君が聖なる光をぶつけ、弱った怪物の動きを止める。後は青年が退魔の剣でとどめを差せば、すべてが終わる。悪は封じられ、世界は救われるのだ。
 だが、その最後の一振りを――ボタンをたった一度押すだけの動作を――少女はどうしてもできないでいた。苦しげに呼吸を繰り返す怪物をじっと見つめたまま、彼女の指は凍りついている。
 ぐずぐずしている少女に痺れを切らしたのか、操作してもいないのに画面の中の青年が動き出した。剣を振りかざした青年に、少女はコントローラーを放り出してテレビに手を伸ばす。待って、と叫びかけたその時、画面が目を刺すほどのまばゆい光を放って――。




 ナズナは目を覚ました。大きく肩で呼吸をし、前髪をかき上げながら綿が入っていてなお固い寝台から上半身を起こす。辺りはまだ暗く、夜が明けきっていない時間帯であることはすぐに分かった。次いで周囲を見渡した彼女は、寝る前の光景と少しも変わっていないことに安堵と落胆の入り交じった複雑な吐息をこぼす。
 一年前にもナズナは同じ夢を見た。テレビゲームで遊んでいる小さい頃の自分。画面の中で繰り広げられる勇者と魔王の最終決戦。懐かしい思いと微かな痛みが胸を衝く、そんな夢だ。
 フクロウらしき鳥の声にその夢から覚めた時、いつも通りの朝が始まるのだと思っていた。眠気をこらえながら食事をして、身なりを整えて、毎日同じ場所でタスクをこなす。たいして代わり映えのしない、それでいてかけがえのない一日を送るのだと。
 だが、開いた目に映ったのは幻想的な光の舞う森だった。彼女はいつの間にか、夢に見たゲームのステージであるコキリの森に倒れていたのだ。
 その日から、彼女は子供ばかりであるコキリ族の生活を手伝いながら、この森に居候させてもらっている。
 この世界に来たきっかけは夢だった。だから、同じ夢を見れば帰ることができるかもしれない。そんな淡い希望を持ちながら日々を過ごしてきたのだが、どうやらそう甘くはなかったようだ。

「……風、ひどいな」

 家の入り口に垂らしてある布が激しい音を立ててなびいている。風がごうごうと唸り、草木をなぎ倒さんとばかりに荒れ狂っているのが聞こえてくる。寝入る前から強かった風が、今やまるで嵐である。
 彼女は風になぶられている垂れ布を見つめて、ぎゅうっと自分にかかっている毛布を握った。不安を掻き立てる暴風のせいか、はたまた先ほどの夢のせいか、どうにも心がざわつく。今から横になっても、きっと眠れはしないだろう。
 ――幸い雨は降っていないようだし、少し外の様子でも見てこよう。そう思い立ったナズナは枕元に畳んであったケープを羽織ると、同居人であるサリアを起こさないようこっそりと寝床を抜け出した。




 コキリの森の木々は、ナズナが思っているよりも遥かに丈夫であるようだ。立っているのが危うくなるほどの風であるにも関わらず、折れた小枝どころか千切れ飛ぶ木の葉すらほとんど見当たらない。これで朝に風がやんでいれば、誰もこの嵐が存在したことに気がつかないだろう。これも、森の守り神であるデクの樹の恩恵なのだろうか。
 ナズナは夜空が白んでくるまでの間、騒ぐ森をぼんやりと眺めていた。まだ目は冴えているが、いつまでもこうして立ち尽くしていても仕方がない。サリアが目を覚ます前に屋内に戻ろうときびすを返したその時、不意に木々のざわめきがやんだ。

「……え?」

 ナズナは足を止めて森を振り返る。先ほどまであれほど吹き荒れていた暴風はすっかりなりを潜め、森は木の葉の一枚すら音を立てない静寂に包まれている。
 その異様な現象に、彼女は息をのむ。言い様のない不安と焦燥が胸の内に羽虫のようにたかってくる。
 先ほどの夢が脳裏に甦った。あの夢で青年が――リンクが戦っていたのは、すべての元凶である魔王だった。その魔王はリンクの冒険が始まる直前、デクの樹に呪いをかけに森を訪れる。冒険が始まる直前。それはつまり、ちょうど今頃のことではないだろうか。
 ――あの暴風がもし、外敵から森を守るためのものだったとしたら?

「まさか……」

 ナズナは逸る気持ちを抑えながらデクの樹サマの広場に向かって歩きだす。コキリの森はそう広くはない。サリアの家からなら目的地はすぐそこだ。
 広場へ続く小道へ差し掛かったちょうどその時、小道の曲がり角から現れた人影に彼女は慌てて足を止める。
 黒い装束に包まれた鍛え上げられた大柄な体躯、砂漠の民であることを示す褐色の肌、サークレットでかき上げられた赤い髪。それはゲルド族の王であり、後に魔王となる男――ガノンドロフその人であった。
 彼は猛禽類を思わせる鋭い眼差しを立ち竦むナズナに向ける。

「コキリ族ではないな。何者だ?」

 ナズナは口を閉ざしたままケープの前をぎゅっと握る。混乱と恐怖と緊張で、思うように声が出てこない。それもそのはず、ただでさえ小柄で非力な彼女にとって、大きく強い男というのはそれだけで恐怖をかき立てる存在だ。その上、相手は平和なハイラルを乱す悪逆非道の魔王となる可能性を秘めている。彼女でなくとも、声を失ってしまうのは無理もない。
 加えて彼女にはもうひとつ、この男を前にして緊張してしまう理由があった。
 押し黙ったままの娘に呆れたのか、ガノンドロフはふんと鼻を鳴らす。

「まあいい。女、この森で緑の宝石を見たことはあるか?」

 緑の宝石。その言葉が何を意味するのか、ナズナは知っていた。デクの樹が守る森の精霊石、コキリのヒスイのことだ。
 ガノンドロフはその石欲しさにこの森を訪れ、デクの樹に呪いをかけた。だがデクの樹はたとえ我が身を蝕む呪いをかけられようとも、このゲルド族の男に精霊石を渡すことはなかった。少なくとも、ナズナはそう記憶している。ガノンドロフは恐らく、たまたま目についた娘が石の在り処を知っていたなら僥倖だと駄目元で聞いたのだろう。
 ナズナはゆっくりと首を横に振る。石の存在自体は彼女の知識の中にあるが、実物をその目で見たことはない。もし知っていたとしても、教えるつもりは毛頭なかった。

「そうか。ならば用はない」

 彼は興味を失ったようにナズナから視線を離すと、そのまま歩いて彼女の横をすり抜けた。一拍遅れて、強ばる肩をそっと風が撫でる。

「――あの」

 ナズナは思わず振り返って声をかけていた。ガノンドロフは堀代わりの小さな池を越えたところで立ち止まり、顔を半分だけこちらに向ける。訝しげな眼差しを向けられて、彼女は自分がしてしまった馬鹿な行動に悲鳴を上げたい思いだった。話すことなど最初から何もない。ただ、彼が行ってしまうと思った途端に焦燥感にかられ、つい呼びかけてしまったのだ。
 声をかけてしまったのはもう仕方がない。こうなったら、不自然だと思われない程度に会話を続けなければ。名前を聞こうか、目的を訊ねようか。ちょっと謎めいた感じに未来への警鐘を伝えるのもいいかもしれない。――いや、そんなことを言ってもこちらが墓穴を掘るだけだ。深く突っ込まれてボロを出さない自信がない。
 散々迷って、ナズナは結局一言だけ口にした。

「その、お気をつけて」
「…………」

 ガノンドロフは前に向き直ると再び歩みだす。ナズナはその場から動くことなく、彼が森の外に出ていくのをじっと見送っていた。
 その背が完全に見えなくなってから、ナズナはようやくほっと一息つく。間一髪、なんとか乗りきることができた。会話と呼べるほど大層な代物ではなかったものの、彼女にとっては十分な成果である。
 小さくため息をつき、彼女はデクの樹サマの広場へと続く小道を振り返る。ガノンドロフがいなくなった後も、森は風もなく静まり返ったままだ。
 ――様子を見に行った方がいいだろうか。罪悪感をにじませた複雑な眼差しでその道の向こうを見つめていた彼女は、結局首を横に振って背を向けた。
 行く必要はない。動き始めた歯車は止まらないのだ。デクの樹は枯れ果て、リンクは相棒となる妖精と共に旅に出る。精霊石を集め、大人になり、そして最後には――。
 夢を見た時と同じ胸の痛みを感じて、ナズナは軽く瞳を伏せて口元に笑みを浮かべる。

「まったく。とんでもない人、好きになっちゃったな」

 こぼれ落ちた小さな呟きは、誰に聞かれることもなく森の静けさに飲まれて消えていった。




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