魔王に捧ぐ硝子の花 | ナノ


 近頃のガノンドロフが何を考えているのか理解できない。そう語ったナズナに返ってきたのは、ツインローバのにんまりとした笑みだった。彼女らはティーカップをぴんとシワだらけの指で弾くと、互いに顔を見合わせて笑う。高く細いその声音はいかにも老婆らしく上品だが、その目つきには隠しきれない性の悪さがにじみ出ていた。

「あれほど分かりやすいのも、そうそうないと思うんだがねぇ」
「そう言われましても……」

 どうやらコウメとコタケの二人は『ガノンドロフがナズナに好意を抱いている』と確信しているらしい。まさかガノンドロフを最もよく知っている乳母の二人からお墨付きを貰えるとは思わなかったナズナは、だが困り果てて眉根を下げる。自分から相談を持ちかけておいてなんだが、どうにも彼女達の言葉を信じきれない。……いいや、違う。浮かれたいのは山々なのだが、安易に信じようとする心を理性が強固に押し止めているのだ。
 ――浮かれて、調子に乗って、後戻りできないほどに執着して、もし万が一違っていたら。そんなナズナの迷いが透けて見えたようで、コウメとコタケは一転して不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「ふん、面倒な子だこと。せっかくアタシらが太鼓判を押してやったってのにさ。ねぇコウメさん」
「そうですよねぇ、コタケさん。一体全体、何がそんなに不安だって言うんだか」

 同じ顔を互いにつき合わせながら会話する双子の老婆に、ナズナは思わず苦笑をこぼした。こちらを非難するつもりで口にしたのであろう彼女達の言葉が、図らずも的を射ていたのである。
 不安。まさしくその通りだ。自分は期待が裏切られて傷つくのを異様に恐れている。臆病になるあまり、自ら殻を作って希望を拒絶しているのだ。だからこそ、ツインローバが保証してくれていても素直に受け入れられないのだろう。
 だが、二人の言葉を――いや、ガノンドロフの行動を信用できない原因はそれだけではない。もうひとつ、ナズナの心の中にずっと以前から引っかかっているものがあった。それさえなければ、恐らく彼女が逃げ道の有無を気にかけることもなかったはずだ。
 ナズナはティーカップを持ち上げてその冷たい縁に口をつける。それほど長く話したわけでもなかったはずなのに、紅茶はすっかり冷めてしまっていた。生ぬるい水面で乾いた唇と舌をそっと濡らして、彼女はため息と共にぽつりと言葉をこぼす。

「そもそも、あの人が誰かを愛したことがあると思えないんです」

 直後、紅茶を飲み干そうとしていたツインローバが同時に咳き込んだ。どうやら口を開くタイミングが悪かったようだ。口元を押さえて何度も咳き込んでいる様子を見ていると、歳も歳なだけにポックリと逝ってしまいそうで不安になる。
 突然血を吐いて倒れてしまわないかと内心ハラハラしながら見守っている内に、ようやく咳が収まったらしい。二人は同時に顔を上げると、ナズナに向かって口々に喚き立てた。

「と――とんでもないことを言うもんだね、アンタは!」
「危うく殺されるところだったよ、まったく!」
「ご、ごめんなさい。失礼だってことは分かってるんですが」

 間髪入れずに「分かっているとはとても思えないけどね」とコウメに半眼で返されて、ナズナは返す言葉が見つからずに軽く視線をそらす。これまでにも散々ガノンドロフやゼルダに無礼だの失礼だのを働いてきたことは自覚しているため、非常に耳が痛い。もっともそれを本人達が許してくれている手前、態度を改める気はさらさらないのだが。
 ――それはともかく。ナズナは肩をすくめると、静かな手つきでティーカップをソーサーに戻した。陶器の触れ合う軽い音に、室内の空気がかすかに震える。

「どうしても、理解してもらえていない気がするんですよね」

 ナズナの己に向ける恋心をからかう時、ガノンドロフはしばしば彼女を誘惑した。あからさまな意図を持って肌に触れ、睦事を思わせる言葉を甘く囁き、自分を求めるよう仕向ける。
 自分を慕う女ならば体を求めて然るべきだ。体を繋げさえすればこの女の欲望は満たされるのだろう。――彼の言動は、ナズナの想いをそう捉えていると感じさせるには十分すぎた。
 ガノンドロフは愛を知らない。肉体以外の繋がりを、それを強く欲する心を知らない。だから何度も『理解できない』とナズナの態度に眉を寄せるのだ。……それがナズナの出した結論だった。

「それで、確信を持てないってのかい」

 コタケの問いに、ナズナはゆっくりと首肯した。その視線は、ティーカップの中で湯気も立てずに自分の顔を映すまろやかな水面に落とされている。ふと、視界の外で二重のため息が聞こえた。

「ま、相手が相手だからね。慎重になる気持ちは分からなくはないさ」
「けどそれで自分の首を絞めちまうなんて、そりゃただの馬鹿のやることだよ」
「ご、ごもっともです……」

 二人の責めるような口調に、ナズナは後ろめたさを覚えて肩をちぢこませる。相手を信じきることのできない自分の愚かしさは十分すぎるほどに承知している。だがどうしても疑念と恐怖が先立って、一歩を踏み出す気になれないのだ。
 ナズナはちらりと目線を持ち上げて、ツインローバの様子を伺う。コウメとコタケは渋い顔をして、大きな鷲鼻の頭をかいたり腕を組んだりしている。
 ナズナを非難しつつも、彼女達はこちらの勝手な見解を否定も肯定もしなかった。つまりは、二人もガノンドロフがまともに人を愛したことがあるかどうか確信が持てないのだろう。あれだけ多くの女性に囲まれて育ったというのに恋のひとつも知らなかったというのは不自然にもほどがあるが……いや、むしろ彼にとってはその環境が逆効果だったのかもしれない。
 ――そろそろ、紅茶を新しく淹れ直そうか。ナズナは思案を中断して、自分のティーカップに残った紅茶を飲み干した。

「それにしても、コウメさん。ただお傍にいるためだけに共に封印までされようとした娘が、ねぇ」
「ええ、コタケさん。まさか、そんなところで二の足を踏むとは思いませんでしたよ」
「ホント、あの思いきりのよさはどこへやっちまったんだか」

 ……そんなことまで喋らされたのか、自分は。ナズナは交互に口を開く双子の魔女にじとりと湿気た視線を送る。たが、過ぎたことをとやかく言っても仕方がない。むしろ、そこまでこちらの想いを知って、なおかつ受け入れてもらえていることを喜ぶべきだろう。ナズナは浅くため息をつきながら立ち上がる。

「ただ傍にいるだけじゃ、満足できなくなっちゃったんです」
「ほう?」

 彼女は脇に追いやっていたトレイを手に取ると、一言断りを入れてティーカップを回収していく。ふと視線を感じて顔を上げると、ツインローバが何かを含んだような眼差しでじっとこちらを見つめている。小さく首をかしげながら微笑んでみせると、二人はコロコロと楽しそうに笑った。

「成る程ねぇ。欲が出て、あのお方の心が欲しくなっちまったってことかい」
「いいえ」

 ナズナは首を横に振ってきっぱりとその言葉を否定した。ツインローバは口を閉じ、大きな目玉をぎょろりと見開いてナズナの笑みを見上げる。
 ……毒を食らわば皿まで、と言う。二人にはここまで心の内を見せている。その奥底にあるものをさらけ出したとしても、今さら支障はないはずだ。むしろ、最大の理解者となってくれる可能性もあるのだ。この機会を逃す手はない。

「私が欲しいのは、あの人の心じゃありません。――」

 彼女は目を細めて、ツインローバの二人にそっと顔を近づける。そしてただひたすらに穏やかで純朴な笑みを浮かべながら、ゆっくりと唇を動かした。




 ガノンドロフが低く重たげな息を吐いた。書類を行き先ごとに仕分けしていたナズナがちらりとそちらに目線を動かすと、顔に濃い影を落としたガノンドロフが視界の隅に映り込んだ。その表情にはいくらかの疲れが見え始めている。
 彼が疲労を感じるのも当然だ。近日行われるゼルダ姫の誕生会への出席に向けて、業務をできる限り前倒しで行っているのだ。普段から空が真っ暗になるまで働いているというのに、である。おまけに華々しい夜会が近づいてきてみな浮かれているのか、書面の間違いや手続き上のミスなどが次第に目につくようになってきた。その修正に追われることも増えたため、体感ではいつもの倍は忙しい。その上、夜会の運営に関するあれこれなどの余計な仕事もついてくるという地獄仕様。
 お陰様で今日も二人は無事に仕事場で夜を越え、穏やかな日差しが窓から降り注ぐ中当然のように休日勤務を行っているのである。窓の外でのんきに歌っている鳥が心底恨めしく感じる。二人で朝を迎えちゃったわ、などとふざけたことを思わないとやっていられない。
 ――こんなにも忙しいなら、それにかこつけて出席を辞退すればいいのに。そんな思いが去来したりもするが、真面目一徹の忠臣を演じているガノンドロフの身ではそういうわけにもいかないらしい。難儀なものである。
 しばらく額に拳を当ててじっと俯いていたガノンドロフが、ゆらりと椅子から立ち上がる。

「仮眠を取る。一刻で起こせ」
「はぁい、承知いたしま――、あっ」

 疲労のあまり『部下としての顔』を保つことすら面倒になってきたナズナが気の抜けた返答をしかけた時、ふと思い出されたことがあった。そういえば、こういう時に使えるものをあの乳母達から渡されていたのだった。

「どうした」
「いえ、ちょっとだけ待っててください」

 ナズナはガノンドロフに手のひらを向けて微笑むと、追求を受ける前に先んじて仮眠室へと足を踏み入れた。忙しさにかまけて近頃ろくに掃除も出来ていなかったため、空気が少々埃っぽい。
 彼女は真っ直ぐに棚に向かうと、奥にしまい込んであった口の広い小さな香炉を取り出す。植物を模した異国情緒の漂う模様に、ちょこんと生えた四つ足が大層可愛らしい代物だ。
 厚みがある陶器のため見かけの割に存外重く、ともするとうっかり手を滑らせて落としてしまいそうだ。両手で慎重にそれを抱え持って、仮眠に使う寝台のサイドテーブルの上へと移す。ナズナはほっと安堵の息をつきつつ、己の中にある魔力を使って指先に小さな火を灯すと、すでに中に設置してある香に軽く触れた。
 香炉に蓋をすると、中に充満した白煙が穴から少しずつ外に染み出してくる。……ガノンドロフが好んで使うと渡されたのだが、果たしてどのような香りなのだろうか。顔を近づけて嗅いでみたナズナは、思わず顔をしかめて三度咳き込んだ。鼻の奥にこびりつくような、ひどく甘ったるい匂いである。誰よりも男性的なガノンドロフにはとてもではないが似合わない。ツインローバの言葉が俄然怪しさを帯びてきた。
 ともかく準備は整えたことだし、ガノンドロフを呼びに行かなければ。徐々に甘く霞んでいく空気から顔を遠ざけながら、ナズナはなんとか呼吸を整える。――と、不意に執務室に繋がる扉が開いた。
 ナズナがなかなか仮眠室から出てこないので、しびれを切らしてしまったようだ。寝台の脇に佇む彼女と目を合わせたガノンドロフは、怪訝そうに眉を寄せながら扉を閉める。

「ナズナ、そこで何を――」

 こちらに歩み寄ろうとしていた彼は、だがその途中で部屋に充満つつある香りに気づいたらしくふと足を止めた。その正体を探り当てようとしてか、視線がほんのわずかに宙をさ迷う。
 一呼吸置いて、ガノンドロフの瞳に剣呑な光が宿った。――しまった、ハズレだ。

「貴様、それはなんのつもりだ」

 やはりツインローバの言葉は偽りだったらしい。この胃にもたれるような匂いを放つ香は、いっそ嫌われてしまえば想いを諦められるだろうという彼女らなりの心遣いだったか。突きつけられた鋭い眼差しに冷や汗を感じながら、気力でいつも通りの微笑を顔面に張り付けたナズナは苦し紛れに弁解を図る。

「その、ガノンドロフ様が好む香だと聞きまして。いい夢が見られると。な、何か、問題でも――」

 ツインローバに伝えられた情報を口にしながら、ナズナは恐る恐る相手の顔色を伺う。……怒っている。彼はただ静かにこちらを見つめているだけに過ぎないのだが、その細められた金眼から冷たい威圧感がひしひしと伝わってくる。仕事でミスした時と同じ緊張感と気まずさが足元から徐々に体を這い上がってきて、腹の奥がぎゅうと縮こまる。
 次第に強張っていく肩を意識しながら、彼女はくゆる甘い煙にちらりと目を向けた。老魔女らの企みにまんまと乗せられてしまったのはもう仕方がない。だが例え好みでなかったとしても、この香のどこにそこまで彼を怒らせる要素があるのだろうか。――確かに、疲れた身には強くて妙に頭のくらくらする香りではあるが。
 ナズナをじっと睨んでいたガノンドロフは、軽く舌打ちをすると大股でこちら詰め寄ってきた。壁が迫ってくるような圧迫感に思わず後じさったナズナを尻目に、彼は寝台の脇で白煙を細く立ち上らせている香炉を無造作に手に取る。小さな蓋を軽く指で撫でると、何をどうしたのか――恐らく魔力を使ったのだろうが――ふつりと煙が途切れた。中の香はどうなっているのだろう。首を傾けて覗き込もうとすれば、さっと素早く遠ざけられる。

「それ以上嗅ぐな」

 ……嗅ごうとした訳ではないのだが。ガノンドロフの行動の意図がいまいち掴みきれない。戸惑いながらもなんとか相手の考えを読み取ろうと冷たい金の瞳を見上げていると、彼は疲労に満ちたため息をついた。

「よいか、ナズナ。これは媚香だ」
「びこう?」

 その音の並びをうまく意味のある言葉に変換できず、ナズナは首をかしげる。そのとぼけた反応に、ガノンドロフがすっと目を細めて口角を下げた。まずい、呆れられている。慌てて答えを導き出そうとしたナズナの脳裏に、ふと閃くものがあった。『いい夢を見られる』『甘い匂いの』『びこう』――。
 ……なるほど。ようやく事の次第を理解したナズナは、自分の仕出かしたことの重大さを目の当たりにして思わず両手で顔を覆った。知らなかったとはいえ、まさか自分がガノンドロフにイケナイ薬を盛ろうとしていたとは。彼が警戒して問い詰めるのも道理である。自らのふがいなさと羞恥心のあまり小さく呻くと、頭上から呆れ返ったため息が落ちてくる。

「やはり分かっておらなんだか。――で、これを誰から手に入れた?」
「ツインローバのお二方、です」

 顔が耳まで熱い。首謀者をか細い声で告発しながら、ナズナは怖々顔を上げた。その視線の先で、苛立たしげに香炉を睨んでいたガノンドロフが盛大に舌打ちをする。

「あの魔女どもめ、余計な真似を」

 全くもって同感である。『いいからつべこべ言わずにヤることヤっちまいな』と拳を振り上げながら野次を飛ばすツインローバの姿が脳裏に妙にはっきりと浮かんできて、ナズナは頭を抱えたくなった。

「本当に申し訳ありません。最初にもっとよく確認してれば……」
「まったくだ。もっとも、貴様程度が探りを入れたとして、はぐらかされるのが関の山だろうがな」
「か、返す言葉もありません」

 じろりと呆れ混じりの眼差しを送られて、ナズナは口の端に引きつった笑みをのぼらせる。あり得ない話ではない。人間の寿命を超越して生き続けている彼女らは、知識も経験もこちらの数段上をいく。ナズナが二人を上回る狡猾さを備えていない限り、四つの手の平の上で転がされるのはどうあがいても避けられそうにない。

「これに懲りたならば、二度と奴らから物を受け取るな」
「以後気を付けます……」

 ため息混じりに受け答えをしつつ、ナズナはうなだれた。ガノンドロフは軽く鼻を鳴らすと、無害となった香炉をサイドテーブルにことりと置く。
 ――それにしても綺麗な香炉だ。ナズナの眼差しがちらりと小さな陶器を盗み見て、施された細やかな紋様をなぞる。知識のない身であるためにナズナにはその価値を見定めることはできなかったが、それを抜きにしてもこの美しさには心惹かれるものがある。
 部屋を彩る置物にするもよし、念入りに洗えば別の香を焚くのにも使えそうだ。確か、カカリコ村にある薬屋のオババがそういった系統の品物を取り扱っていたはずだ。機会があったら、今度は『まともな』香を仕入れてみよう。せっかく貰ったのだから、とことん有効活用しなければ。

「……で、だ。ナズナ――」
「あ、すみません。仮眠の前に換気しないとですよね」
「人の話は最後まで聞け」

 窓を開けようとガノンドロフに背を向けかけたナズナだったが、不意に肩を掴んで引き留められた。その手の力強さを普段よりも鮮明に感じて、彼女はびくりと体を震わせる。
 振り返ると、こちらを見下ろすガノンドロフの金の瞳に視線が吸い寄せられた。……腹の底に、熾火がくすぶっているのを感じる。肺の中の空気が熱を帯び、こぼれる吐息に唇が乾く。大きく固い彼の手の平とこちらを穿つような鋭い眼差しに呼び起こされて、ぞくりと甘やかな波が背筋を駆けのぼり――。

「体に異常はないか」

 低く詰問するガノンドロフの声音に、はっとナズナは冷水を浴びせられたような心地に陥った。……そういえば、先程媚香を間近で思い切り吸い込んでしまっていたのだった。我に返った彼女は、宙に浮いていた手を誤魔化すように胸に当て、ゆっくりと意識して呼吸をする。無意識の内に、ガノンドロフの頬に触れようと手を伸ばしかけていたらしい。危ないところだった。
 自然を装ってガノンドロフの視線から視線を外したナズナは、今しがた体を駆け抜けた感覚から意識を逸らそうと冷静に自分の体の状態を分析し始める。

「そうですね……鼓動がいつもより速く感じます。少し目が乾いて、体も心なしか火照ってる、ような気もしますが――仕事に支障はなさそうです」
「ふむ」

 ガノンドロフはナズナを捕らえる腕を離すと、軽く自分の顎を撫でた。自分に妙な感覚をもたらす腕から解放され、彼女はこっそりと安堵する。

「あまり効かぬ体質なのだな」
「そんなに強いものだったんですか、これ」

 ガノンドロフの独り言へ呆れ混じりにため息を返しながら、ナズナは窓を開放した。カーテンが大きく膨らみ、清浄な風が甘ったるい空気を洗い流していく。ついでにとナズナは深く息を吸って肺を満たし、体の奥に澱んでいる毒気を薄めた。
 背後でぎしりと音が聞こえて振り返ると、ガノンドロフが寝台の縁に腰掛けて眉間を揉んでいた。彼がナズナの前でこれほど疲れた様子を見せることは滅多にない。ろくに睡眠を取ることもままならない連日の勤務に、どうやら相当消耗しているらしい。
 もしも彼が香の正体に気づかなければ、今頃あの寝台には裸身を絡ませて求め合う二人の姿があったのだろうか。香の虜となったナズナが彼にすがるか、もしくは知らぬ間に毒に侵食されたガノンドロフが彼女の腕を掴んで――。そこでナズナは思考を止めた。

「ガノンさん。もし仮に、ですよ?」

 涙がにじむほど明るく輝く透き通った空に背を向けて、彼女は窓の桟に体重を預ける。ガノンドロフは緩慢な動作で視線をこちらに向けた。煩わしげに投げかけられたその眼差しを、ナズナは軽く瞳を伏せて受け流す。

「もしその香がもっとずっと分かりづらいもので、気づかなかったガノンさんがもうどうしようもなく『出来上がっちゃった』として――」

 ナズナは続く言葉を濁らせる。……やはり、答えを聞くのが怖い。今さらながらに迷いが込み上げてきて、彼女はいつもと同じように質問を切り上げようと口を開きかけた。
 と、不意にナズナが背にしている窓から風が吹き込んだ。それはカーテンを小さく揺らし、ナズナの髪をやわらかくなびかせる。その風に背中を押されたように感じて、彼女は窓の桟にかけた指先にわずかな力を込めた。
 顔を上げた彼女は、穏やかな笑みでガノンドロフを見据える。

「私が本気で拒絶したら、どうします?」

 ――心臓の鼓動が速い。手の平にじとりとした汗を感じる。それでも表情で平静を保って、ナズナはガノンドロフの答えを待つ。そんな彼女の緊張を知ってか知らずか、彼は軽く鼻を鳴らして唇を笑みの形に歪めた。

「見くびるな。その程度で自制が利かなくなるオレではない」

 ガノンドロフは顎を上げると、軽く手を振ってナズナに部屋から出ていくよう合図を送る。ナズナはそれに応えて一礼すると、普段通りの静かな足取りで仮眠室から速やかに退室した。
 扉が完全に閉まったことを確認した彼女は長く息をつき、その扉に背を持たせかけた。顔が熱い。指の先が火照っている。まだ香の影響が残っているのかもしれない。ぎゅっと胸元に拳を押しつけると、じんわりとした温もりが心臓から全身へと広がっていくのが感じられる。
 ――例え自分が切羽詰まっていたとしても、ナズナの心を優先する。ガノンドロフは確かにそう言ったのだ。これまでの彼の不可解な――いや、ナズナが理解するのを拒んでいた行動の意味が、ゆるやかな一本の線で結ばれていく。まだ疑う余地は十二分に残されている。最後の最後でひっくり返される可能性だってないとは言い切れない。だが、それでも――。

「その言葉、信じますよ」

 扉の向こうの想い人に聞こえぬよう、ナズナは囁き混じりに呟く。その口元には、確かな笑みが浮かんでいた。





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