魔王に捧ぐ硝子の花 | ナノ


 一日の業務が終わった。ガノンドロフが最後の書類にサインをしたのを無事に見届けたナズナは、緊張感の糸をゆるめて張り詰めていた息をゆっくりと吐き出す。窓の外に見える空はとっぷりと暮れ、星々がちらちらと瞬きだしている。ナズナは執務机に灯るランタンの明かりを頼りに、ガノンドロフに手渡された書類の束にざっと目を通して記載内容をざっと確認する。

「書類に漏れはないな?」
「ございません。今日も一日、お疲れ様でした」

 今日も随分と長く働いた。書類がばらけぬように紐で軽く纏めた彼女は、肩をぐっと後ろに引いて凝り固まった筋肉をほぐす。首から肩にかけて溜まったこの疲労は、単に長時間に及ぶ労働だけが原因ではないだろう。
 ……近頃、ガノンドロフと共にいるのがある種の苦痛になっている気がする。
 彼への想いを諦める。そう決めたはいいものの、一度抱いてしまった彼への期待はたやすく断ち切れるものではない。褐色の指が閃くのを目に映し、無機質な眼差しを肌に感じ、事務的に言葉を交わす――たったそれだけで、決心はたやすく揺らいでしまう。募りに募って汚泥のように心にこびりついた恋心を手放すには、自ら求めたこの距離が最大の障害だった。
 いっそのこと彼の誘いに身を委ねれば、未練を消し潰してしまえるのではないかとも考えた。彼がこちらの心を眼中に入れることなく好き勝手に体を蹂躙してくれれば、恋が報われる可能性など考えなくて済む。そうしたら、ただの『見返りを求めない都合のいい玩具』として存在することを自分に許せるようになるのかもしれない。……だがその道も、あえなく彼自身に断ち切られてしまった。
 ナズナは帰り仕度をするガノンドロフの背をぼんやりと見つめる。――人形で遊ぶ趣味はない。彼の行為に無抵抗だった自分に叩きつけられた言葉が脳裏に甦る。……つまり、彼は何を言いたかったのだろう。その意味するところを知ろうと深くに潜り込もうとした自分の思考を、ナズナは強制的に引き戻した。ガノンドロフが、ふと思い出したようにこちらを振り返ったのである。
 金色の瞳が、暗がりの中で自分を見据えている。静かなその眼差しは、まるで獲物を狙う猛禽だ。ナズナは内心たじろぎながらも、やわらかな笑みを装って首をかしげる。――だがその甲斐もなく、直後に彼女の笑みは凍りつくこととなった。

「オレのパートナーを務めろ」
「はい?」

 一切深読みをするな。口の端を引きつらせながらも自分にそう命令を下したナズナは、深く息を吸って頭を空っぽにする。別に彼は生涯を共にする存在になれと言ったわけではない。ナズナは問い質したい衝動を堪えてガノンドロフが次に口を開くのをじっと待つ。

「十日後、ゼルダ姫の誕生会が催されることは貴様も聞き及んでいるだろう」

 ナズナの反応を不審に思った様子もなく、ガノンドロフは平然と言葉を続けた。――なんだ、そのことか。彼女は吸い込んだままだった息をそっと吐くと、安堵して肩の力を抜いた。
 ゼルダ姫の生誕を祝う夜会が開かれる。忙しそうに動き回る使用人達の華やかな笑い声や、練兵場に集う男達の何気ない会話。その中にちらほらと挟まれるめでたい話は、ナズナの耳にもしっかりと入ってきていた。先日、ゼルダ本人にも確認を取ったばかりだ。
 それはどうやら、大小様々な貴族やハイラル軍の主だった将が参加する、大々的な舞踏会であるらしい。いくら直属の上司がハイラル王の重臣であるとはいえ、たかが一補佐たる自分には縁がないものと思っていたのだが――。

「いいえ、あなたは絶対に来ることになりますよ」

 自分は参加できないから直接誕生日を祝えそうにない。心にちくちくと刺さる申し訳なさに指を絡ませながらナズナが告げると、幼い王女は穏やかな笑みを返した。その時のゼルダの眼差しの奥に楽しげにきらめいていた、意味深長な輝きが思い返される。

「誕生会の席であなたに会うのが楽しみです」

 ――成る程、彼女が言っていたのはそういう意味だったのか。
 舞踏会ではダンスで余る人間が出ないよう、男女一組での参加が鉄則だ。通常は夫婦や兄弟姉妹がペアになるものだが、生憎ガノンドロフには身近にそのような女性が存在しない。現時点で最も近しい女であるナズナを連れて行こうと結論を出すのは自明の理である。

「今まではどうされてたんですか?」

 重要書類をしまった戸棚に施錠をしながら、ふとした興味で問いかける。ガノンドロフはその質問をくだらぬものと判じたらしく、ふんとつまらなそうに軽く鼻を鳴らす。

「ゲルドの砦からその都度違う女を呼び寄せていた」
「……そんなことだから、あらぬ噂が流れるんですよ」

 ナズナは呆れ混じりの眼差しを彼に送った。いくら社交界に疎い彼女でも、毎回連れている女が違う男に対してどのような目が向けられるかは推測できる。故郷では毎晩違う女を取っ替え引っ替えだったという噂は、彼の境遇への妬みや邪推のみからくるものではなかったようだ。
 視線の先で、ガノンドロフが口の端をにやりと持ち上げる。その表情を目にしたナズナは、彼が自らの悪評を疎ましく思うどころか、むしろ積極的に煽っていたのだと悟ってため息をつく。

「人を寄り付かせないため、ですか?」
「察しがよいな。加えて、多少は付け入る隙を与えていた方がこちらもやりやすい」

 その含みのある口振りから察するに、その隙に付け込もうとした者達には己が身の破滅が待ち構えているのだろう。『獣女』という悪名を存分に利用して立ち回っている自分が言えた義理ではないが、性悪な男である。

「夕刻からの開催に備えて、当日の業務は日の高い内に終わらせる。衣装の都合がつかねば三日前までに相談しろ。それと――」
「ち、ちょっと待ってください、ガノンさん」

 矢継ぎ早に言葉を繰るガノンドロフを遮れば、彼は不可解なものでも見るかのような目つきでこちらを見つめながら、眉間に刻んだシワを深めた。眉をひそめたいのはこちらの方だ。まだなんとも答えていないのに、引き受けることを前提で勝手に話を進められては困る。――とはいえ、彼の決定を拒むだけの明確な理由がナズナにあるわけでもない。

「……私が、あなたの伴として、隣を歩いてもいいんですか?」

 ナズナは躊躇いがちに口を開き、不安を混ぜ込んだ問いを投げかける。

「オレでは不服か」

 ガノンドロフはすっと剣呑に目を細める。ただそれだけの動作で彼の気配は鋭さを増し、ナズナは気道が狭まるような息苦しさを覚える。彼女はなんとか微笑を口元に浮かべると、首を横に振って彼の問いかけを曖昧に濁した。

「いえ、そうじゃないんです。ただ、また例の噂に拍車がかかっちゃうんじゃないかと思いまして――」
「不服か」

 ガノンドロフは静かな声で繰り返した。真っ直ぐにこちらを見据える眼差しに、ナズナは自分が徐々に追い詰められていくように感じて体を強張らせる。
 ――ガノンドロフが何を考えているのか分からない。それが、ここ最近のナズナを混乱させている原因だった。
 人の悪い笑みを浮かべてからかわれていただけの頃なら、まだこちらの反応を楽しんでいるのだと判断できた。叶わぬ恋に身を焦がしつつも、その望みのなさがある種の安心感に繋がっていたことは否定できない。
 だが近頃の彼は、ふとした瞬間にこちらをじっと見つめてくることが多くなった。からかうでもなく、遊ぶでもなく、ただ問いを突きつけて静かにナズナの返答を待つのだ。
 今回だってそうだ。ナズナを夜会に随伴させることが、『ガノンドロフとその補佐官はただならぬ仲である』という噂を増長させてしまうのは目に見えている。こんなことを続けていれば、いつか外堀を埋められて本当にナズナを娶るしか道がなくなる可能性だって考えられる。それが分からない彼ではないだろうに。それとも、そんな可能性ごとこの国を潰すつもりだから、一向に意に介していないのだろうか。
 何を考えているのか分からない。何を求めているのか分からない。いっそのこと、直接訊ねて彼の意図を確認できればどれだけ楽になれるのだろう。……だがそうしようと口を開く度、一切の望みを断ち切られる恐怖が身をすくませる。こうしてあと一歩を踏み出せないのが、ナズナが未だに彼に対する期待を捨てきれていない証拠なのだ。
 彼女は耐えきれなくなって、ガノンドロフの真っ直ぐな眼差しから目をそらした。

「イジワルなこと、訊かないでください」

 ――あなたは、どうしてそんな風に私を惑わせるんですか。あの日飲み込んだその問いかけは、ナズナの中で未だにぐるぐると渦を巻いていた。




 インパの足を踏みつけそうになったことに気づいたナズナは、慌てて爪先で飛び跳ねて身を引いた。組まれた腕がほどけ、頭の中で刻んでいたリズムがふつりと途切れる。もう少し集中できていれば、失敗も上手くカバーできたはずなのだが。ナズナは眉根を下げて苦笑しながらインパに謝った。
 ガノンドロフのパートナーとして舞踏会に随伴する役目を命じられた翌日、ナズナはインパにダンスの手解きをしてほしいと頼み込んだ。だが仕える姫君の誕生日が近い今、その乳母であり守人である彼女も多くの仕事や懸念事項を抱えている。そのため『教わるのは基本的な足運びとマナーだけ』という条件を出して、なんとかレッスンの約束にこぎつけたのだ。それだけ教われば、後は自分自身の機転でなんとか乗り切れる。
 ……だが、これがどうにも上達しない。かつてナズナに城内での立ち居振舞いを指南していたインパは、その飲み込みの悪さに違和感を覚えたらしい。練習を続けようとするナズナの手をそっと押し留めると、見上げる彼女の顔を覗き込んだ。

「心ここにあらず、といった様子だな。気がかりなことがあるのならば聞くぞ」

 生真面目で険しい彼女の顔つきは変わらない。だがその眼差しの中にやわらかな思いやりを感じて、ナズナはほっと心をゆるめる。
 この際、インパに相談してみるのもいいのではないだろうか。一人で抱え込んでいても、思考の沼に足を取られて沈んでいくばかりだ。ガノンドロフと敵対している彼女なら、自分とは異なる見方で何かしらのアドバイスをくれるかもしれない。そうでなくとも、話すだけで気が軽くなることもあるだろう。

「――その、ですね」
「なんだ?」

 穏やかな声音に促されて口を開いたナズナは、だがすんでのところで言葉を飲み込んだ。
 ――ガノンドロフは本来、処刑されるはずだった。リンクのもたらした情報が彼の反逆の意志を明らかにし、その世界を飲み込む野心を危険視したハイラル王によって排除されてしまうのだ。それを先延ばしにしてくれているのは、あくまでもナズナへの温情に過ぎない。勇者の友であるナズナがガノンドロフにただならぬ想いを抱いているからこそ、ゼルダとインパは彼女の出した条件を飲んで待っていてくれているのだ。そうでなければ、国を危険に晒してまでガノンドロフを生き長らえさせはしない。
 もしナズナがその恋心を手放してしまえば――その可能性を匂わせでもすれば――彼女達がガノンドロフを生かしておく理由がなくなってしまう。
 ――それだけは、なんとしても避けなければ。ナズナは困ったような笑みをこぼすと、軽く肩を竦めた。

「いえ。ただ、あの子の誕生日にどんな贈り物をしようか考えてまして」

 インパはシーカー族特有の鮮やかな紅の瞳でじっとナズナを見下ろす。情熱的な血潮の色とは正反対の静謐な眼差しが、人の心を見透かすというまことの仮面を思い起こさせて、ナズナは知らず息を潜める。……どれだけの間、そうして見つめ合っていただろう。ふっと、インパの目尻に笑みがにじんだ。

「助言が必要になれば、手遅れになる前に言え。力になろう」

 姫様のためにもな、と付け加えて彼女は穏やかに笑いつつ腕を組む。わずかな後ろめたさを覚えながらも、ナズナはぎこちなく笑みを浮かべて頷いた。――インパは恐らく、こちらが隠し事をしていることに気づいている。それでいて、あえて問い詰めないでいてくれるのだ。
 インパの人柄を信用していないわけではない。だが、彼女はあくまでも国を守る側の人間だ。相談を持ちかければ、確実に話はガノンドロフとの関係を終わらせる方向に動くだろう。――ナズナには、まだその覚悟はなかった。
 ありがとうございます、と小さな声で囁くと、インパは眉間にうっすらとしわを寄せて笑った。




 インパにこそ打ち明けることはできなかったが、誰かに相談するというのは悪くないアイデアかもしれない。ナズナはインパとのダンスの特訓の帰りに、廊下を歩きながらつらつらと考えていた。
 真っ先に思い浮かんだのはゼルダであったが、インパと同じ理由で彼女に相談を持ちかけることは難しい。リンクに手紙を出してみようかとも思ったが、当たって砕けろとしか返ってこないのは目に見えている。彼に悩みを話すのは、背中を押してほしい時に限る。廊下で世間話をする仲の使用人、いつも世話になっている兵士、自分とガノンドロフの鍛練を見守ってくれている隊長――。交遊関係を隅から隅まで洗ってみても、適役はなかなか見つからない。
 ナズナの苦悩には、ガノンドロフ自身の内面が深く関わってくる。話をするとしたら、彼の素顔を知っている人物というのが絶対条件だ。そしてできることなら人生経験が豊富で、なおかつ女性であれば文句はないのだが――。

「ヒッヒッヒ、随分と悩んでいるようだね」

 唐突に背後から聞こえてきた声にぞわりと背筋を総毛立たせたナズナは、反射的に床を蹴って前方へと跳んだ。同時に脚を広げて姿勢を低くすると、隠してある短剣を引き抜こうと服の内側に手を伸ばす。――が、そこにあった二つの顔を見て彼女は動きを止めた。

「ホッホッホ、アタシら相手にやり合おうってのかい?」

 宙に浮く箒の上でころころと楽しげに笑っているのは、ガノンドロフの乳母でもある双子の老魔女だった。彼女達が来ると連絡を受けた覚えはない。さしずめ、またガノンドロフに黙って勝手に城を訪れたのだろう。ナズナは肩の力を抜くと、立ち上がって構えを解いた。

「全く……コウメ様もコタケ様も、驚かすなんて人が悪いですよ」
「なに、アンタがあんまりにも辛気臭い顔をしてたもんでね」
「ちょいと、からかってやりたくなったのさ」

 袂を口元に添えてにやりと互いに目配せをするツインローバの二人に、ナズナはあからさまに呆れの混じったため息をついてみせる。やんわりとした言い回しで入城許可を取ったのかと確認すれば、「アタシらを誰だと思っているんだい」と怪しげな笑みが返ってきた。……あまり深く突っ込んでいい内容ではなさそうだ。後で、ガノンドロフにそれとなく報告させてもらおう。
 ひとしきり笑った彼女達は、宙を滑るように飛んできてナズナに顔を寄せた。

「――で?」
「何か、アタシらに相談したいことでもあるんじゃないかい?」

 二人の囁きに、ナズナはどきりとして目を瞬かせた。
 コウメとコタケはガノンドロフの乳母である。当然、ガノンドロフのことは幼少の頃からよく知っている。彼に対するナズナの恋心も、恐らくは承知しているはずだ。――前回の邂逅の記憶は不思議とおぼろげだが、どうせ薬か何かを盛られて根掘り葉掘り聞かれたのだろうとナズナは確信している。それに、彼女達ならば自分達の王であるガノンドロフの害になるようなことは決してしない。
 ナズナに協力して彼女達にどのような利があるのかいまいち見えてこないのが不安要素ではあるが、単純な条件だけを見ればこれ以上ない適任かもしれない。
 ぎょろりと大きな二対の瞳を交互に見つめ返し、一度目を閉ざす。ゆっくりと呼吸をしながら、彼女は心を揺らす迷いを息と共に吐き出した。

「……お話、聞いてくださいませんか?」

 顔を上げてそっと切り出したナズナに、双子の老婆はにんまりと笑って箒から降り立った。その人を食ったような表情に選択を間違ったかと冷や汗を感じたが、ナズナはその妙な予感を頭の中から追いやった。





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