魔王に捧ぐ硝子の花 | ナノ


 ――汚らしい。ナズナは自分の体を見下ろしてそっと眉をひそめた。せっかく仕立ててもらった文官服は土埃にまみれ、シワひとつなかった上衣はすっかりよれてしまっている。だが、あれだけ激しく転げ回って戦ったというのに、どこも破れたり解れたりしなかったのは奇跡に近い。さすがはシーカー族の末裔が贔屓にしている仕立屋が作った服なだけはある。……だがやはり、これほどまでに汚れてしまうのは勘弁してほしい。次回からは簡素な装いで訓練に臨むことにしよう。
 汚ならしいのは無論服だけではない。毎朝整えている髪は無様にほつれ、薄化粧を施していた顔も汗と土で酷い有り様だ。地面を掴んで立ち回っていたせいで、手の平には擦り傷までできている。
 自分の惨状を改めて見下ろして、ナズナはげんなりとため息をついた。こんな見苦しい格好では、城内で業務を続けることなど到底できっこない。

「ガノンドロフ様。申し訳ありませんが、一旦帰宅させていただいてもよろしいでしょうか」

 そっと声をかけると、ガノンドロフはじろりとこちらに金色の瞳を向けた。こんな汚ならしい有り様を想い人の目に晒すのは居心地悪いが、そもそも自分をこんな状態にしたのは彼自身なのだ。自分は悪くない。
 物でも見るような目つきでしげしげとナズナの全身を眺めていた彼は、小さく鼻を鳴らす。

「確かに、その泥だらけの格好で仕事をさせるわけにはいかぬな。構わん、一度戻って――」
「なれば、誰ぞ適当な者に服を借りればよろしい」

 ガノンドロフの言葉を遮って、自分の指導をしてくれていた隊長が口を開いた。直後、会話を邪魔されたことに気分を害したらしく、ガノンドロフの眉間にあからさまなシワが寄る。それを目の当たりにしたナズナは思わず顔をひきつらせた。
 先頃から思っていたが、この男はよくよくガノンドロフを怒らせるのが得意だと見える。その怒りのツボの突き方の的確さは、いっそわざとかと疑いたくなるほどだ。

「で、でもそんな、ご迷惑では」
「なあに、一声かければ服の一着くらいはすぐ手に入りましょう。ガノンドロフどの、しばしナズナどのをお借りしても?」

 ナズナの肩に大きな手が親しげに添えられると、ガノンドロフはますます不機嫌になって目を細めた。わずかに開いた口から覗く歯がいかにも恐ろしげで、ナズナは肩を強張らせる。
 ガノンドロフはにかりと笑った男と視線を泳がせるナズナをじっと睨み付けながら、しばらく黙り込む。恐らく着替えるためにナズナを帰宅させるか、この不快な男に全てを任せるかと考えているのだろう。感情を優先するか、それとも合理性を取るか――。

「構わん」

 どうやら彼の中では合理性が勝負を制したらしい。残された昼休みもそう長くはない。所要時間の長さを考えれば当然の帰結である。ナズナはガノンドロフの英断を心の中でこっそり賞賛した。仕事を行う上で、効率と正確性に勝るものはない。
 隊長は口を大きく横に広げて豪快な笑みをその精悍な顔に浮かべる。

「おお、それはようござった! ささ、ナズナどの、着いてきてくだされ。私めに少々心当たりがございますれば」
「は、はあ……」

 彼は気安げにナズナの肩を抱くと、淑女をエスコートでもするかのようにそっと促す。獣のような大立ち回りをしてみせた女相手にここまで自然に接することができるとは、彼の紳士精神も見上げたものだ。
 ナズナが男に穏やかな笑みを返すと、途端に背中に冷たい視線が突き刺さるのを感じた。……自分で決定を下したのだから、文句をつけるのは筋違いである。浮かべた笑みがぎこちなく引きつるのを感じながら、ナズナは隊長に促されるままに屋内へと入っていった。




 足首まである黒いドレスと白い前掛けが、歩く度にひらひらと脚に纏わりつく。たっぷりとした布地が脚を撫でる感触は、まるで自分が年端もいかぬ娘になったようでどこかくすぐったい。優雅に揺れる布の隙間から覗く靴すら履き慣れない小綺麗なもので、それがますます夢の中にいるような非現実感を強めている。
 ようやくたどり着いた執務室の前で、ナズナはそっと息を吸った。――普段と異なる装いに身を包んだ自分の姿に、彼はどう反応するだろうか。高鳴る鼓動を抑えるように胸元に手を置きながら、いつもと同じく――だが少し浮わついた気分で扉をノックする。

「ただいま戻りました」
「ああ、遅かっ――」

 扉を開いたナズナの目に、顔を上げたガノンドロフが一瞬硬直したのが映った。書類仕事の手を止めたまま、まじまじとこちらを見つめている。彼がこうやって意表を突かれ、驚きを露にするのは珍しい。にこりと笑いかけると、彼は呆れたようにため息をついた。

「……貴様か。使用人の格好なぞしおって」
「ふふ、びっくりしました?」

 ナズナはくすくすと笑うと、借り物のエプロンドレスをつまんで裾を持ち上げてみせる。
 あの後、隊長はナズナを一人の人物に引き合わせた。城中の使用人を纏める立場である――ナズナが胸の中だけでこっそりとメイド長と呼んでいる――初老の女性である。
 ただでさえ目つきの鋭い彼女は泥だらけのナズナを見るなり眉を怒らせ、隊長に散々暴言を吐きつつ追い出し、神業とも言うべき手際でナズナの汚れた服を剥いてしまった。そしてナズナはあれよあれよと言う間にどこからともなく集まってきた使用人達によって全身を洗われ、服に押し込められ、髪型や化粧に至るまでされるがままに整えられたのだ。
 お陰で、今のナズナは頭の先から足の先まで完全に使用人仕様である。この執務室にたどり着くまでにも、あまりの完璧なメイドっぷりに何度か間違って声をかけられたくらいだ。ガノンドロフが驚くのも無理はない。

「素敵ですよね、メイド服。ふふ、実は一回着てみたかったんですよ」
「理解ができぬな。たかが使用人の服のどこにそのような価値がある」
「だって可愛いじゃないですか、ほら」

 ナズナは跳ねるような足取りでガノンドロフの執務机に近寄ると、くるりとその場でターンをする。裾の長いエプロンドレスがやわらかく広がるのが楽しくて、ナズナは目を細めて微笑んだ。
 白と黒のシックで清潔感のあふれる装いはいかにもナズナ好みだ。その上ヘッドドレスやエプロンについた控えめなフリル、ドレスの肩の膨らみや裾にできたひだなど、女心をくすぐる要素がメイド服には満載だ。城下でも、この制服を着て働きたいという声はなかなかに多いと聞く。
 だがガノンドロフにはその趣が理解できなかったようで、ますます怪訝そうに眉を寄せた。メイド服は男性にもウケがいいと思っていたのだが、彼にとってはそうでもないらしい。ハイラル王国に仕えている間に見慣れすぎてしまったのだろうか。

「そうだ。せっかくメイドさんの格好なんですし、今日一日ガノンさんのこと『ご主人様』って呼びましょうか」

 ふと思いついて提案を冗談のつもりでしてみれば、ガノンドロフはあからさまに馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「呼称だけ変えてどうする。いっそのこと、使用人に相応しい振る舞いでも演じてみせてはどうだ?」
「し――使用人らしい振る舞い、ですか」

 下らぬ、あるいは好きにしろと一蹴されるだろう。そう思っていたところに返された予想外の言葉に、ナズナは戸惑って目を瞬かせた。……涼しい顔をしておいて、実は彼も一度そういう扱いをナズナからされてみたかったのかもしれない。意外だ。
 さて、それはそれとしてメイドらしい振る舞いとはどのようなものだろうか。
 現在ナズナが就いている補佐職と使用人は、同じ上に立つ者を助ける役職であるがその職務内容は大幅に異なる。補佐が支えるのはあくまで上司の仕事であり、使用人が支えるのは主人の私生活。そう、私生活なのだ。おはようからおやすみまで、甲斐甲斐しくお世話をするのがその役目なのだ。羨ましい。……では、私生活を補佐するものとしてふさわしい態度とはなんだろう。
 指を顎に添えて首を傾けたナズナの脳内に、薄ぼんやりとした元の世界の記憶が甦る。「お帰りなさいませ、ご主人様っ!」「はわわ〜、失敗しちゃいましたぁ!」「萌え萌えキュンキュン、おいしくな〜れっ☆」――全く参考にならない。それどころか実行したら確実にドン引かれる。
 ナズナはさらに記憶を探る。ありとあらゆるメディアに存在したメイドを思い返していた彼女の頭に、ふとひとつの台詞が浮かぶ。これしかない。

「せっ、誠心誠意ご奉仕させていただきます、ご主人様!」

 ――口にしてから気づいた。この台詞は駄目だ。想い人であるガノンドロフ相手に言うのはなおさら駄目だ。ただでさえ深読みできる言葉であるというのに、心の底からそういう意味にしか聞き取れない。ナズナは頬が次第に紅潮していくのを感じつつも、内心を悟られまいと表情を装った。
 ――気取られるな。相手が言葉の含みに勘づいたら一巻の終わりだ。ガノンドロフは残酷無比なる魔王である。恐らく、いや確実にナズナが悶死する未来しか残してくれないだろう。

「ほう、では実際にやってみるがいい」
「えっ」

 今度こそナズナは言葉を失った。彼女の心情を知ってか知らずか、ガノンドロフはにやにやと表情を歪めながら執務机に肘をつく。

「口先だけならばなんとでも言えよう。貴様が使用人として、オレにどう奉仕するのか見せてもらおうではないか」

 ――まさか本気なのか。奉仕という単語の裏に含まれた意味に気づいた上で、本気で言っているのか。

「どうした、ナズナ?」
「う、あ、ぅ……」

 愉悦に細められた金の瞳に見据えられて、ナズナはみるみる全身を火照らせる。本当に、本当にやらなければならないのだろうか。例えばそう、開かれた脚の間にそっと膝をつき、焦らすように相手の下衣の前をくつろげ、「お掃除させていただきますね」と上目遣いに微笑みながらその手を――。

「む、無理です、ダメです! そんな、ふ、ふしだらな……!」
「待て。貴様、使用人をなんだと思っておる」

 耐えきれずにガノンドロフから目をそらしたナズナに、低く唸るような声が降りかかる。――もしかして、もしかすると。恐る恐る窺うと、心底呆れ返った眼差しが突き刺さった。……早とちり、だったらしい。
 先程とは別の意味の羞恥心が込み上げてきて、ナズナは顔を覆って俯く。穴があったら入りたい、という言葉の意味を今日ほど実感したことはない。

「……その、ですね。平たく言いますと、男の夢なんです」

 ガノンドロフを直視することができず、ナズナは顔を伏せたまま小さく呟く。そのたった一言で、ガノンドロフは大まかな事情を察したらしい。彼は腕を組んでゆっくりと重心を後ろに移動する。寄りかかられた椅子の背もたれがぎしりと軋んだ。

「成る程な。貴様の言う『メイド』とやらが実際の使用人とかけ離れていることはよく分かった」
「ううぅ、だって仕方ないじゃないですか」

 ナズナは真っ赤になった顔を上げて泣き言めいた言い訳をこぼす。故郷で一般的な庶民として暮らしていては、使用人やハウスキーパーを生業としている人物になどまずお目にかからない。おまけにメディアで見かけるメイドは大半が男性を喜ばせるため魔改造された萌え萌えキュンなものばかり。資料を集めでもしない限り、邸宅に雇われる本物の職業メイドがどのような振る舞いをしていたかなど知る由もなかった。
 こちらに来てからだって、まともな情報は何一つ得ていない。ハイラル城で働いていると、確かにメイドを目にする機会は多い。だがそれはあくまで城の環境を整えるための人員だ。個人に仕えるメイドとは異なる。
 だから自分がメイドらしい振る舞いを勘違いしていたからといって、責められる謂れは全くもって存在しないのだ。ナズナは懇々とそう主張する。

「で、つまるところ貴様はその『男に夢を見せる使用人』になろうとしていたというわけか」
「……まあその、否定はしません」

 素直に肯定するのが少々気恥ずかしく感じて、ナズナは視線を執務机の角に落とす。
 ――せっかくメイド服を着せてもらったのだ。それを利用して普段とは違う役柄になりきり、好いた相手に気に入られるように振る舞ってみたいという気持ちはあった。仕事のパートナーとしてではなく強固な主従関係で結ばれた使用人として、彼に尽くし、その望みに応え――あわよくば支配されてみたかったのだ。こんな浅ましい欲望を、ありのままにさらけ出すことなどできるはずもない。
 と、ガノンドロフが不意に低く喉を鳴らして笑う。ちらと目線を持ち上げると、そこにはガノンドロフの人の悪い笑みがあった。

「よかろう。ならば貴様の望み通り、そのふしだらな欲求を存分に満たしてやろうではないか」

 にやりと目元を歪めた彼の言葉に、ナズナは知らず呼吸を止める。見透かされたかと目を見開いた彼女をひたと見据えて、ガノンドロフは静かに言葉を紡ぐ。

「――茶を淹れてこい」

 ……なんだその、ちゃっちい命令は。どんな無茶を命じられるかと身構えていた分、盛大に拍子抜けしてしまった。ナズナは肩を落としてため息をつくと、呆れ混じりの眼差しをガノンドロフに向ける。

「そ、それって、いつもと変わらないんじゃ……」
「ほう、主に口答えをするか。どうやら立場を理解しておらぬらしい。――生意気な使用人には、従順になれるよう仕置きをせねばならぬな」

 ガノンドロフは眉を上げると声を低く潜め、囁くようにナズナをなじる。狙い通りと言わんばかりのその表情に、彼女は口をつぐんだまま胸元に強く拳を押しつける。
 ぎしりと椅子を軋ませて立ち上がった彼は、その妖しく輝く瞳をナズナから反らすことなく、ゆったりとした威厳のある足取りで机を回り込む。距離が近づくごとに体が強張っていく。ガノンドロフという絶対的な存在が、自分を縛り付けていくのが分かる。
 全ては彼の手の内だ。ゆるやかに上昇していく体温、浅く熱い呼吸、瞳の動きのちらつき、絡まり合う思考――ガノンドロフはナズナの全てを計算し尽くし、そして掌握している。心臓の鼓動すらも、今や彼の支配下なのだ。

「わ、分かりましたよ、淹れてくればいいんでしょう?」
「主に対する言葉遣いがなっておらぬぞ」

 ガノンドロフの指先が、無造作にナズナの喉元に伸ばされる。恐怖を覚えたナズナが反射的に後ろに身を引くと、ガノンドロフは彼女の賢明さを評価するようにその笑みを深めた。その表情を目にして彼女は確信した。――彼は本気だ。ただの『ごっこ遊び』を本気でするつもりなのだ。
 ナズナは自分の背筋に嫌な汗が伝うのを感じた。自分には知識が足りない。粗相をすれば『ご主人様』に何をされるか分からない。一寸先も見えない恐怖がナズナの足元をじわじわと浸食していく。……だがそれにも関わらず、彼女は口元に笑みを浮かべていた。

「かしこまりました、ご主人様」

 ナズナは両手の指を腹の前で組んで、完璧な角度で頭を下げる。そちらがその気なら、自分も一日限りの戯れ全力で楽しんでやろう。言葉のひとひら、一挙手一投足、表情のほんのわずかな変化まで、全てをガノンドロフの望み通りに演じてみせる。
 ――今の自分は、血の一滴すら彼のもの。嗜虐的でほの暗い笑みをこちらに向けるガノンドロフと視線を交わらせたナズナは、舌先が痺れそうになるほどの甘美な感覚に目を細めて微笑んだ。




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