魔王に捧ぐ硝子の花 | ナノ
ゲルドの砦の入り口を守る番は日替わりの当番制となっている。理由は単純、あまり人気がないからだ。
集落内の見張りはまだ楽な方だ。ルートが決まっているとはいえ歩き回れるし、定時報告と称したお喋りもできる。だが一方の門番はというと、柵の外側でただぼーっと突っ立って橋を見張っているだけ。しかも日がな一日、炎天下の中たった一人で、である。退屈以外の何物でもない。
この日ゲルドの谷の門を守っている彼女も、ご多分に漏れずこの仕事が嫌いだった。暑いわ渇くわ暇だわで、いいことが何一つとしてない。いっそ眼下の谷間に流れる川に飛び込んでしまいたいくらいだ。……実際にやったら死んでしまうので、本気でやろうなどとは断じて思わないが。
昼下がりの太陽がじりじりと照りつける中、彼女は退屈を持てあまし、ぼんやりと対岸を眺めながら滝の音を聞いていた。
――よし、今日の仕事が終わったら酒を一杯ひっかけよう。そう心に決めた時、ふと視界の端に緑色のものが見えた。
「うわあ、たっかいなー」
「あんまり乗り出すと落ちちゃうよ。ここ柵ないんだから」
「あっ、あんなとこに牛がいる! 水飲んでんのかな」
「……リンクったら全然話聞いてないネ、ナズナ」
対岸に姿を現したのは、緑の装束に身を包んだ二人組だった。白い肌と金の髪を持ったハイリア人らしき少年に、おっとりとした雰囲気の大人しそうな女。会話の内容を聞くに、少年の名前はリンク、女の方はナズナというらしい。彼らの周囲をふよふよと飛んでいるのは、トンボに似た羽を持つ青白い光の玉だ。――あれはなんだろう。おとぎ話に聞く妖精だろうか。
「リンク君。ほら見て、あそこにも滝があるよ」
「滝! すげー、ゾーラ川のよりでっかい!」
それにしても仲が良さそうな二人だ。年齢差からして姉弟かとも思ったが、それにしては見た目があまりにも違いすぎる。しかも女の方は耳も短く、純血のハイリア人に見える少年と血が繋がっているとはとても思えない。
いったい二人はどういう関係なのだろう。そんなことを訝っている内に、彼らは谷に掛けられた橋を渡ってきた。
「うわ、綺麗な人がいる! こんにちは、おねーさん!」
「こんにちは」
片方は元気よく片手を振り、もう片方はにこやかに会釈をする。この挨拶ひとつで、二人の性格は手に取るように分かった。……少なくとも、少年の方の将来は確実に女泣かせだ。
「アンタら、この谷になんの用だい? ここは子連れで来るような場所じゃないよ!」
腕を組んで警告の声を上げはしたが、どうやら彼らにはたいして効果がなかったようだ。リンクという少年は背伸びをして柵の向こう側を興味津々といった様子で覗き込み、ナズナは申し訳なさそうに笑いながらこちらに軽く頭を下げる。
「すみません。その、ちょっとした観光のつもりでして」
「観光だって? ハッ、のんきなもんだ。ここがアタイらゲルド族の土地だって分かって言ってるんだろうね?」
その言葉に、少年が大きく目を見開いて驚いた。
「ゲルド族!? それってガノンドロフの!?」
「ガノンドロフ様と呼びな、坊や」
彼女は声を潜めて少年に注意した。ここにいるのが自分だからまだ良かったものの、忠誠心の高い過激派に聞かれたら子供だろうがタダではすまない。リンクは「えー」と不満そうに唇を尖らせているが、そんな可愛い顔をしても無駄だ。
それにしても、と彼女はほんの少し誇らしい気持ちになった。こんな年端もいかないような子供にまでその名が知れ渡っているとは、我らが首領も高名な存在になったものだ。それもこれも、彼がハイラル王の臣下として城に仕えているためだろう。――仕えているといっても、表向きにという意味だが。
ハイラル王に対する忠誠が偽りのものであることはゲルド族全員が承知している。その裏では、実り豊かなハイラル王国そのものを奪い取る計画が着々と進められているのだ。時が満ち、計画がまさに実行されんとしている今、誰であろうと戦仕度をしている砦を見られるわけにはいかない。――そう、例え目の前の見るからに能天気そうな二人組であっても。
そんな彼女の思いなど微塵も知る由もなく、少年はぴょこぴょこと飛び跳ねながら話しかけてきた。
「なあなあ。向こうにいるの、女の人ばっかりだな。なんで?」
「当然だろ。アタイらは女だけの種族なんだからね」
「ええっ、じゃあガノンドロフって実は女!?」
連れの女が「がふっ」と思いきり吹き出した。見ると、両手で顔を覆って肩をぷるぷると震わせている。正直言って失礼だぞとはたいてやりたいが、笑ってしまった気持ちは分かる。あんな大柄でごつい強面な女がいてたまるものか。
「バカ言ってんじゃないよ! 全く、どこをどう見たらそうなるんだい」
「ちぇっ、つまんねーの」
少年が不満げに唇を尖らせる。つまらないで済んだら兵士はいらない。ひとつ間違えたら不敬罪で打ち首ものである。
度胸があるのか、それともただのバカなのか。呆れてため息をつくと、ナズナが「すみません」と謝りながらようやく顔を上げた。堪えているつもりなのだろうが、まだ顔が笑っている。
「確か、百年に一度生まれる男性なんですよね? それで、しきたりに従ってそちらの王様になったそうで」
「ふーん、女の方はよく知ってるじゃないか」
少し誉めると、ナズナは照れたように頬を染めて笑う。
「ありがとうございます。その土地の種族とか風習とか――そういうこと勉強するの、好きなんです」
「へぇ。アタイにゃさっぱり分からないけど、勉強ってそんなに面白いもんかね?」
ゲルド族は武芸が何よりも重視される部族である。かくいう彼女も、物心ついた頃から『文字を読めて簡単な計算ができさえすればそれでいい』と育てられてきたのだ。ハイラル文字を覚えるのですら苦戦した彼女にとって、それ以上の知識を身に付けたいという欲求は理解できない代物だった。
「面白いですよ。どんな価値観がどんな土壌で形成されていったかとか、知れば知るほど楽しいですし」
「ふーん、そんなもんか」
言っている意味はあまり分からないが、とりあえず適当に相槌だけ打っておく。そんな会話に飽きたらしくきょろきょろ辺りを見回していたリンクが、突然目を輝かせて走り出した。何やら興味の引かれるものを見つけたらしい。
「ナズナー、俺ちょっとあっち見てくる!」
「あっ! 待ってヨ、リンク!」
「二人とも、ここ出る時はちゃんと言ってね」
ナズナは後ろの少年達に穏やかな笑顔で声を掛ける。外見も性格も正反対の癖に、まるで本当に姉弟であるかのようだ。なんだか微笑ましく感じて、ふっとため息をつく。
「アンタらは気楽でいいね」
「そうですか?」
「ああ、自分の好きなことやってるって感じでさ」
見る限り、二人はこのハイラルの様々な場所を自由にめぐっているようだ。生まれてこの方ずっとこの砦でゲルド族として暮らしている彼女にとって、そういう生き方は少し羨ましく感じる。
だが、ナズナは苦笑して肩をすくめた。
「私は、ゲルド族のみなさんの方がちょっと羨ましいですね。だって……」
そこで口を閉ざすと、照れたように笑ってほのかに頬を染める。どういう意味なのかと口を開こうとした時、不意に妖精の甲高い悲鳴が聞こえた。
「キャー! ちょっとリンク、待ちなさい!」
弾かれるようにナズナが振り返る。何があったかと体をずらして向こう側を覗き込んだ彼女は、そこにあった光景にさっと顔色を変えた。なんと、あの少年が橋の縁に立って川に飛び込もうとしていたのだ。それを目にした彼女は慌てて制止の声を上げる。
「な、何バカなことやってんだい! 悪いことは言わないからやめときな、坊や!」
このゲルドの谷は、通称魔の谷と呼ばれている。度胸試しと称してやってくるバカな若者達のせいで、死人が後を絶たないのだ。こうして谷のすぐ側に見張りが立つようになってからは随分と減ったものの、それでも何人かは制止と忠告を振りきって奈落の底へと飛び込んでいく。彼女としてはそんなバカなど放っておけばいいと常々思ってはいるものの、いくらなんでも目の前で子供に死なれては寝覚めが悪い。
少年はそんな彼女の焦りなど全く気にも留めない様子で、へらへらと楽しそうに笑っている。
「平気平気。下は水だし、大丈夫だって」
「待ってリンク君、コッコ! そこにコッコいるから!」
「そういう問題かい!?」
確かにコッコを使えば落下スピードは遅くなるとは思うが、そもそも飛び込もうという行為自体を咎めるべきだろう。……しかも悪いことに、ナズナの助言は少年に逆効果だったらしい。
「げぇっ、コッコ!? まずい、逃げないと!」
彼は慌てふためいてきょろきょろ見回したかと思うと、そのまま綺麗なフォームで川に向かって飛び込んだ。
「り、リンクくーん!」
「ちょっ、リン、イヤアアァァァ……」
少年の帽子にくっついていた妖精の悲鳴が段々とフェードアウトしていき、遥か下の方で小さな着水音が滝の音に紛れて聞こえてきた。
――なんて無茶なことをするんだ、あの坊やは。ナズナと共に恐る恐る橋の下を覗き込んで見ると、少しして水面に緑色の物体が浮かんできた。一瞬死体かと思ってひやりとしたが、目を凝らしてよくよく見ると何やら小さく動いている。……どうやら、こちらに向かって手を振っているらしい。それを確認した女はほっと表情を緩めた。
「よかった、生きてる」
「おっどろいた。こっから飛び込んで無事だなんて、ガノンドロフ様以来だよ」
激流に流されていく豆粒のような緑に呆れながらそうぼやけば、隣で下を眺めていた女が屈んだままくすりと笑みを漏らした。
「あら、あの人もそんなことやってたんですか」
「ああ。確かあの坊やと同い年か……もう少し上だったかな。アタイは生まれてなかったから又聞きなんだけどサ、修行の一環とか言われてコウメ様とコタケ様に突き落とされてたらしいぞ」
「それは……よく無事でいられましたね」
苦笑混じりの女の声に、しまったと彼女は口を閉ざす。少年のバカさ加減に気が緩んで、余計なことを喋ってしまった。
もしこの上、迫ってくる女達から逃げるためにもこの谷を利用していたなどとうっかり口を滑らせていたら、首領の威厳が形無しになるところだった。事と次第によっては手打ちになりかねない。
「……今の、誰にも言うんじゃないよ」
「はい。心の中に大切にしまっときます」
ナズナは頬を淡く染めて愛おしげに微笑む。その表情に父と共にいた時の母の顔が重なって見えて、彼女は口をつぐむ。もしかして、この女は――。
ナズナはふっと息をついて川の流れる先を見やった。
「この川って、確かハイラル湖まで繋がってたっけ。――じゃあ、私はこれで。あの子を迎えに行かなくちゃ」
「……、なあ」
彼女はほんの少し迷ってから、去り行こうとする背中に呼び掛けた。振り返ったナズナはほんの少しだけ首を傾けて、親の話を聞こうとする子供のように真っ直ぐな眼差しでこちらを見つめてくる。きっとそういう素直で無警戒なところが、この女を呼び止めてしまった原因なのだろう。
彼女は背後の巡回兵が一瞬遠ざかったのを確認すると、声を低くして忠告した。
「アンタら、今の内にハイラルから離れといた方がいいよ」
じきに、ハイラル王国は略奪の炎と闇に包まれる。その戦乱に巻き込まれて、この平和ボケした二人組が無事でいられるとはとても思えない。彼らにはどこか別の土地で、今と変わらずバカみたいに笑って旅をしていてほしかった。
――なんて甘っちょろいことを思っちまったんだろう。勇猛なゲルド族らしくない自分の思いに唾を吐きかけたくなって、彼女は苦い顔でそっぽを向く。
ナズナは警告の言葉にきょとんと目を瞬かせていたが、何を思ったのだろう、ふっと薄い笑みを見せた。
「私達なら大丈夫です。……ご忠告、ありがとうございました」
そう言って頭を下げたナズナは、こちらに背を向けて再び歩き出す。彼女は静かに腕を組むと、その緑色の背中が見えなくなるまでじっと見送った。
――やわらかな笑みの裏に垣間見えた、落ち着いた自信。ナズナの見せた最後の表情は、彼女の脳裏に強く焼き付いた。ひょっとしたら、あの女はこれから何が起こるか気づいているのかもしれない。気づいていて、あえてその騒乱の中に飛び込もうとしているのかもしれない。
あり得ない、とは思う。だが、もし本当にそうなのだとしたら。
「アンタも、あの坊やと同じくらい――いや、それ以上のバカみたいだね」
彼女はため息混じりに笑って、がしがしと乱暴に頭をかく。どうやら、あの二人にはいらぬお節介だったようだ。きっと彼らは、どんな逆境でも互いに支え合って乗り越えていくことだろう。
――クーデターが一段落して、この国が落ち着いた頃。もしもまたここであの勇気のあるバカ二人に再会することがあれば、その時は笑いながら頭を小突いてやろう。機会があったら、あの恋する乙女をハイラルの主となった首領に引き合わせてやるというのも面白いかもしれない。彼女は口の端を持ち上げて笑みをこぼすと、目に痛いくらいに鮮やかな空を仰いだ。
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