魔王に捧ぐ硝子の花 | ナノ


 週に一度の安息日にも関わらず、ナズナは自らの勤務地であるハイラル城に赴いていた。目的は無論仕事ではなく、ゼルダ達にガノンドロフの動きを報告するためである。平日は予定に忙殺されて互いになかなか身動きが取れないため、急なことがない限りはこうして休日にまとめて情報を伝達しようと話し合ったのだ。
 ざっくりと報告を終えた後はインパが気を利かせて退出し――実のところ、退出したと見せかけて影から監視しているらしいのだが――ナズナとゼルダは友人として他愛のないおしゃべりに時間を費やす。それが、ここ最近の彼女達にとっての新しい習慣だった。

「そういえば聞きましたよ、ナズナ。近頃、ガノンドロフと槍の鍛練に励んでいるとか」

 ふと思い出したように切り出された話題に、ナズナは思わず苦笑を漏らした。

「あはは……やっぱりゼルダちゃんの耳にも入ってたんだね」

 ゼルダの侍女の中には、一人とんでもなくおしゃべりな少女がいる。城内に流れる他愛のない噂話から城下町の流行ファッション、果ては貴族達のとんでもない醜聞まで――それはもう、とにかく舌を休めることなくひたすらに喋り続けているのだそうだ。しかも仕事中であるにも関わらず、である。恐らく黙ると死ぬタイプの人間なのだろう。
 そんな彼女を側に置くことにインパはあまりいい顔をしないようだが、王女として行動が制限されがちなゼルダにとっては貴重な情報源であるらしい。……例えそれが、女性向けの週刊誌に載っていそうなゴシップばかりだとしても。
 そんな訳だから、ナズナのここ最近の行動もご多分に漏れず筒抜けだったようだ。彼女は困ったように頬をかく。

「そっか。じゃあひょっとして、私が『ケモノオンナ』って呼ばれてることも知ってたりする?」

 ――獣女。それは、練兵場でガノンドロフ相手に短剣一本で立ち回ったナズナにつけられたあだ名である。四つん這いに近い姿勢で転げ回りながら、あらゆる手段を用いて相手の隙を突く……そんななりふり構わぬ獣のような戦い方から、裏でひそかにそう陰口を叩かれるようになったのだ。
 あまり幼気な少女の耳に入れるような話題ではないのだが、あの侍女のことだ。ガノンドロフと訓練するようになったことを話したのなら、当然それに関しても喋っているはずだ。ナズナの予想は残念ながら当たっていたようで、ゼルダは申し訳なさそうに軽く目を伏せる。

「……ええ。酷いあだ名です」

 その表情を見るに、どうやら本気で痛ましく思ってくれているらしい。ナズナはくすぐったくなって、ふっと微笑を浮かべる。

「大丈夫だよ、全然気にしてないから。むしろ、そういう悪名が流れてた方がいいこともあるし」
「そうなのですか?」

 きょとんと瞬いたゼルダにナズナは頷きを返す。
 初めは人々の心ない言葉や態度に多かれ少なかれ傷つきもしたが、仕方がないと割り切ってしまえばどうということもない。そもそも、最も反応を危惧していたガノンドロフが拍子抜けするほどあっさりとナズナの戦い方を受け入れてくれたのだ。ならば頭を悩ませるだけ無駄である。
 むしろ、考えようによってはなかなかに使い勝手がいい。物騒な異名であるために陰口は叩いても興味本意で近寄ってくる者はほとんどいないし、良くも悪くも初対面の人との会話の取っ掛かりにもなる。懐の深い人物なら噂とは真逆の人柄に好感を示してくれることもあり、良好な人脈を築く手段としても活用することができる。これを便利と言わずなんと呼ぶのか。

「悪くないでしょ?」

 ナズナの話を聞き終えたゼルダは首を傾けて一度考え込み、それでも納得がいかなかったのか煮え切らない表情でじっとこちらの顔を見つめてきた。

「……その、ナズナはとても前向きな人なのですね」
「素直に変人って言ってくれていいんだよ」

 苦笑を浮かべてそう言うと、ゼルダはほっとした様子で「では次からそうします」と頷いた。……このところ、変人だと言われることに抵抗感を覚えなくなってきたことに悲しさを覚える。

「それで話を戻しますが」
「あ、うん」

 ゼルダの切り替えの早さに若干置いてけぼりになりかけたナズナは、なんとか記憶をたどって話の流れを遡る。確か、ガノンドロフと槍の訓練に励んでいるという話をしていたはずだが。

「訓練中のあなた達は、とても仲睦まじい様子だそうですね」

 ――仲睦まじい、だって? さらりと飛んできたその言葉に、ナズナは思わず息を詰まらせる。その拍子に唾が気管に入り、思いっきりむせてしまった。
 ゼルダから顔を背けて数度咳き込んだ彼女は、なんとか呼吸を落ち着かせてから涙のにじんだ瞳を幼い王女に向ける。

「あれはね、『仲睦まじい』じゃなくて『遊ばれてる』って言うんだよ」
「遊ばれて――成る程。それはつまり、『愛憎渦巻くどろどろのトライフォース関係』というものですか?」
「ごめん、それも違う」

 お上品な姫君の口から出てきたあまりにも俗な言葉に、ナズナは思わず真顔で返してしまった。この聖なる神器に失礼な言葉を彼女に教えたのもほぼ確実に例の侍女だろう。純粋培養のはずの姫君は、着々と俗世間に染まりつつあるらしい。

「そうじゃなくて、からかわれてるだけってこと」

 ガノンドロフの行う指導は、初めに宣言された通りそれほど厳しいものではなかった。以前にも何度か武術を教授する機会があったらしく、教え方も非常に分かりいい。実戦で使える技の知識も豊富で、彼が力任せに武器を振り回しているだけではなかったのだと改めて思い知った。
 ――それだけならば問題はないのだが。
 ガノンドロフはこのところ、ナズナを玩具扱いしている節がある。型を覚えさせることを口実に、わざと手を触れたり身を寄せたりして彼女の挙動を楽しむのだ。その度に大袈裟に反応してしまう自分も悪いのだが、そもそも弱いところばかりを狙ってくる向こうに非がある。しかも脇腹や肩口など、傍目からは決していやらしくは見えない箇所に触れてくるものだから、こちらは公然と怒ることすらできない。
 また、教えたことが身に付いているかを確かめる実戦形式の訓練を行うこともあるのだが、これがまた酷い。彼は必死に槍を振るうナズナを軽くあしらい、圧倒的な実力差を見せつけながらギリギリまで追い詰めてくるのだ。その瞳に見え隠れする嗜虐的な表情から、ナズナをいたぶって遊んでいることは火を見るよりも明らかである。

「私で遊んでるだけなんだよ、あの人は」

 ナズナはそう言って困ったように笑ってみせる。そんな彼女をじっと見ていたゼルダが、ふっと唇に弧を描いて頷いた。

「成る程、納得がいきました。そうやってからかわれている様子が、彼女達には仲睦まじく見えていたのですね」
「そうみたいね。……待って、彼女『達』って言った?」
「ええ。城内では噂の的のようですよ。『あの堅物にもようやく春が来たか』と」
「う、嘘でしょ……」

 なんたることだ。ナズナは顔を覆って俯いた。顔が火を噴きそうだ。個人にそう思われていただけならまだしも、よもや城中にそのようなこっ恥ずかしい噂が蔓延していようとは。『獣女』以上のダメージである。
 まさかガノンドロフに付き従って城内を移動している時に感じる背後からの視線は、『獣女』に対しての侮蔑ではなく『春が来た』ガノンドロフへの暖かい眼差しだったとでもいうのか。……これをガノンドロフ本人が知った時にどのような反応をするか、想像するだに恐ろしい。

「ですが、噂が広まるのも無理もないと思いますよ。これまで、ガノンドロフが他人とそれほど近しく接することなどありませんでしたから」
「そうなの? ……ああ、それもそっか」

 言われてみれば、ガノンドロフが私的に交流を持っている人物をナズナはほとんど知らない。恐らくは国家転覆の計画を誰にも悟らせないため、人付き合いは怪しまれない程度に控えているのだろう。そう考えると、今のナズナがいかに特殊な立ち位置にあるかということがよく分かる。
 人を不必要に寄せ付けないガノンドロフの傍に控え、その仕事を影に日向に補佐する女。無愛想で素っ気なく仕事の鬼として知られる彼に疎まれることもなく、それどころか積極的に手をかけて育てるほどに気に入られているらしい。しかもやたらと距離が近いときた。……確かにこれでは、色眼鏡で見られるのも仕方がない。

「様々な方面からの話を聞く限り、あの男は相当あなたに気を許しているようですね」
「いやその、それは、ほら。私があの人の本性を知った上で味方してるからじゃないのかな」
「かもしれません。ですが、それにしても――」

 ゼルダは顎に指を添えて少し考え込む仕草をする。こうして伏し目がちになると、普段は幼さが勝る可愛らしいゼルダの顔が一瞬はっと息を飲むような色気を帯びる。七年後も大層な美人だった彼女だが、この齢からすでにその片鱗が垣間見えていようとは。ハイラル一美しいという城下町での評判も納得である。
 このままガノンドロフが事を起こすことなくハイラルの平和が続けば、彼女がこれからどう成長していくのかを見守ることもできるだろう。……ガノンドロフの野望の火が消えない限り、望み薄ではあるが。

「……ナズナ、これは私の勝手な憶測なのですが」
「ん、なあに?」

 青い瞳を繊細に縁取る金の睫毛に見とれていたナズナは、顔を上げたゼルダの言葉にゆるく笑みを向ける。ゼルダは居住まいを正すと、こちらに軽く身を乗り出して口を開いた。

「ガノンドロフは、あなたを女性として少なからず好ましく思っているのではありませんか?」




 書類を相手に難しい顔をしているガノンドロフを、ナズナはぼんやりと眺めていた。眉間にシワを寄せた彼は、実際に小さな子供が『魔王が出た』と泣き叫んだほどの強面である。そんな凶相でさえ、ナズナにとっては彼の魅力のひとつでしかない。
 ――高い鷲鼻が彫りの深い顔に影を作る。向けられる度に身が竦む鋭い眼は、今は軽く伏せられてその視線を書類に落としている。幅広の口から時折漏れる、かすれ気味の低い唸り声と舌打ち。鮮烈に燃え盛る炎のような赤い髪。血管の浮き出た太い首。がっしりとした広い肩。筋肉に覆われた力強い腕。ともすると羽ペンを折ってしまいそうなほどに大きな手が、ふとその動きを止めて――。

「おい、ナズナ」

 向けられた眼差しに、ナズナはびくりと肩を揺らした。――しまった、ぼんやりし過ぎていた。

「は、はい。いかが致しました?」
「インク壺が空だ」

 ガノンドロフはその太い指で小さなインク壺を持ち上げてみせる。それを見たナズナはさっと血の気が引いた。朝一番に備品の確認をしていたはずが、今日に限ってうっかり見落としてしまっていたらしい。

「も、申し訳ありません、すぐ取り替えます!」

 ナズナは慌てて戸棚に向かい、予備の壺を取り出す。ガノンドロフの元に戻ろうと踵を返した時につまづきかけて、彼女はひやりとしたものを背に感じた。危うくインクを床にぶちまけるところだった。本当に、今日の自分はどうかしている。
 なんとか無事に新しいインク壺を執務机に置いた彼女は、こちらに胡乱な眼差しを向けてくるガノンドロフから目をそらしながら空の壺を受け取る。これにインクを補充するのは明日にしよう。今やろうとしたら絶対に失敗してしまう。
 ガノンドロフはそんなナズナの様子に呆れたのか、椅子の背もたれに体重を預けると軽く鼻を鳴らした。

「どうした、今日は一段と腑抜けているな」
「いえ、その――」

 顔を上げてガノンドロフと目が合った瞬間、ナズナの脳裏にふとゼルダの言葉がよぎる。

「……ただの寝不足です。お気になさらず」

 彼女ははゆるゆると首を横に振ってそう答える。寝不足というのも、あながち間違いではない。――もしも彼が、本当に自分を好いてくれているのだとしたら。そんな仮定がぐるぐると頭の中で回り続けて、昨夜は一晩中眠れなかったのだ。

「業務に差し障るようならば仮眠を取っておけ。オレの手を煩わせる前にな」
「――ありがとうございます。ですが、それほど辛いものでもございませんので」

 ガノンドロフの言葉は事務的で素っ気ないものだったが、ナズナはふっと目元に笑みをのぼらせた。例え上司としての儀礼だと分かっていても、こうして体調を気遣われることは素直に嬉しい。――いや、もしかするとこれがゼルダの言う好意の表れなのだろうか。ふとそんなことを思ってしまって、ナズナはそっと呼吸を止める。期待は禁物だ。ゼルダや周囲の目にそう映っているからといって、自分まで踊らされては目も当てられない。
 と、不意にガノンドロフが低く息をついた。

「昨日、あの王女に何を吹き込まれた?」

 その言葉に、ナズナはぎくりと一瞬体を硬直させる。……どうやら、週末にゼルダに会いに城に通っていることはお見通しだったらしい。

「いえ、大したことでは……」

 彼女は両手をひらひらと振る。自分を女性として好いてくれているかどうかが気になるなどと、とても本人に言えたことではない。ナズナはわずかに視線を泳がせると、続けて口を開いた。

「ただその、こんなことを教えていただきまして。……ガノンドロフ様は、私達の関係がどのように噂されているかご存じですか?」

 ――話題の矛先をほんの少しだけずらし、相手から追求される可能性を潰す。ガノンドロフの後ろに補佐として控えていると、しばしばこうした人の目をごまかす手段を目にする。いつか使えるかもしれないと常日頃から彼の手法を観察しておいて本当に助かった。
 それはともかくとして、問題はガノンドロフの反応である。これから噂の内容を知った彼が、果たしてどのような顔をするのか。彼女の不安と期待に揺れる眼差しの先で、ガノンドロフはゆっくりと腕を組み、ふんと鼻を鳴らす。

「それがどうした。あの程度、大して害のある噂でもなかろう」

 自分の思惑を見事なまでに裏切ってくれた彼の言葉に、ナズナは再度硬直した。

「え、ちょっ――えっ? ご、ご存じだったんですか? いつから?」
「貴様が『獣女』と呼ばれ出した辺りだったな。……まさか、把握しておらなんだか」
「昨日初めて知りましたよ!」

 ガノンドロフの呆れ返った眼差しが突き刺さって、ナズナは顔を覆ってか細いため息をついた。彼の情報収集能力が卓越しているのか、それとも自分が周囲の視線に鈍すぎるのか。……恐らく両方だろう。
 それにしても『ガノンドロフとその補佐役が仲睦まじい』という噂が害のあるものではないとは一体全体どういうことか。ひょっとして、まさかとは思うが、ゼルダの言葉がどんぴしゃだったなどということは――。
 ナズナは赤くなっているであろう顔をゆっくりと上げ、ガノンドロフを上目遣いに見やる。

「で、でも、お嫌ではないんですか? 私と、その――」
「むしろ好都合だ。噂が立った直後から、煩わしい問答がなくなったのでな」

 ……煩わしい問答? 首をかしげたナズナの視線の先で、ガノンドロフは思い出しただけで苛立ったのか軽く舌打ちをした。

「所帯を持て、子を作れというくだらん催促だ」
「所帯……ああ、そういう」

 ようやく納得がいって、ナズナはほっと安堵しながら頷いた。成る程、特定の女性との噂が立てば、周囲から結婚を促されることはなくなるだろう。噂を煙たがるどころか逆に利用すらしているのが彼らしくて、ナズナはくすりと笑みをこぼす。

「でも、言われてみれば確かに結婚してもおかしくない歳ですよね、ガノンさん」

 むしろ、ハイラル的な価値観から見ると彼の年齢で妻がいない方がおかしい。七年後の世界でもそういった相手がいなかったことから見るに、よほど女を見る目が厳しいのだろうか。……あるいは、異性と共にあること自体に欠片も興味がないのかもしれない。
 仮に後者だったとしたら、自分の努力には果たして意味があるのだろうか。そんなことを考えながら、ナズナは小さな苦笑をこぼす。

「お眼鏡に叶う子、いらっしゃらなかったんですか?」
「馬鹿を言え」

 何気ない風を装って探りを入れると、ガノンドロフはあからさまに顔をしかめた。

「仮に伴侶として迎えるなら、最低限オレの野心に理解があり、なおかつ二心を抱かぬ女でなければならん」
「ゲルド族の方々みたいに?」
「オレはあれらを女として認めん」

 酷い言い草である。

「欲を言えば共にいるのが苦痛でなく、面倒な気を遣わずとも済む女であればなお良いが……そうそういてたまるものか。探すだけ労力の無駄だ」
「成る程、それは……難しいですね」

 ナズナは困ったように首をかしげる。
 確かに、ガノンドロフの上げた条件を満たす女性をハイラルで探すのは難しいだろう。何よりリスクも高い。
 ガノンドロフの野望を知っても恐れおののいたり反感を抱いたりせず、決して裏切らない信頼のおける女性。そして共にいてもガノンドロフの不興を買わないどころか、気を許して接することのできる女性。片方だけならまだしも、両方を兼ね備えた人物など――。
 そこまで考えて、はたとナズナは思考を止める。

「……つかぬことをお伺いしますが」
「なんだ」

 ガノンドロフは普段通りのしかめっ面をこちらに向ける。彼女は心臓が口から飛び出そうな緊張感をごまかそうと、腹の前でそっと指を絡ませる。

「ガノンさん。それ、特定の誰かを意識して言ってたりしませんよね?」

 ナズナの言葉に、彼は訝しげに片方の眉を上げた。……口角は上がっていない。瞳の奥に愉悦の色は見えない。――からかっている、わけではない。
 ナズナはゆるゆると首を横に振ると、できるだけ自然に見えるよう意識しながら微笑みかける。

「ごめんなさい。やっぱり、少し仮眠を取らせていただきますね。どうも疲れているみたいで……」

 ガノンドロフは眉を寄せたまま、ナズナをじっと見据える。その鋭い眼光に何もかもを見透かされてしまいそうで、彼女は平常心を装って小さく首を傾ける。
 ――ふ、とガノンドロフは口を開いて何かを言いかけた。気づかれたか、とナズナは思わず肩を強張らせたが、彼はそんな彼女の反応をよそに思い直したように目を伏せる。そして軽くため息をつくと、休ませていた羽ペンを再び手に取った。

「そうか。しばし体を休めておけ。用があれば呼ぶ」
「はい、ありがとうございます」

 ナズナは穏やかに笑いかけると、彼に一瞥すらくれずにそそくさと隣の仮眠室へ足を急がせた。
 音を立てぬように後ろ手にそっと扉を閉めた彼女は、ガノンドロフの視線から解放されてほっと肩の力を抜く。そしてふらふらと覚束ない足取りでベッドの前へ歩いていくと、やわらかい寝台にぼすんと前のめりに倒れ込んだ。冷たいシーツに顔を埋めてか細く震えるため息をつけば、その息が熱を持っているのが手に取るように分かった。
 ――嬉しかった。想い人が伴侶として必要だと何気なく上げた条件に、自分がぴたりと当てはまっていたのだ。最低限満たさねばならない必要条件でしかないと言えばそれまでだが、これが嬉しくないはずがなかった。
 もしかしたら昨日のゼルダの言葉通り、ガノンドロフは本当にナズナに女性として好意を抱いてくれているのかもしれない。――少なくとも、側に置いてもいいと無意識に思うくらいには。ナズナは火照った頬を意識しながら、細く息を吸い込んだ。

「……違う」

 胸元を強く掴んで、ナズナは自分に言い聞かせるように低く冷たい声で呟く。苦しい。呼吸が上手くできない。ぎゅっとしぼられた心臓がこのまま破裂してしまいそうだ。彼女はそんな中でなんとか息を吸うと、くしゃりと泣き出しそうに顔を歪める。

「違う。そんなわけない。あの人が、私を愛してくれるはずなんてない」

 ――ナズナは割り切って生きてきた。
 元の世界と家族を捨てた。戦いの中で散っていく命を無感動に眺めた。手の届かないところに封じられた愛しい人を振り返りもせず、二度と会えなくなる友人に笑顔で永遠の別れを告げ、自分達と決別しようとした妖精には手を伸ばすことすらしなかった。そうやって未練や悲しみを切り捨てるのは、彼女にとっては息をするように簡単なことだった。
 ……だって、全て初めから諦めていたことなのだから。
 ナズナは器用に足だけでヒールを脱ぎ捨てるとベッドに潜り込み、自分の身を守るように小さく丸まった。胸の中で様々な感情がごちゃ混ぜになり、洪水を起こして荒れ狂っているのを感じる。苦しみも切なさも愛おしさも、一斉に同じことを喚き立てている。――愛して欲しいと、全身全霊で叫んでいる。

「お願いだから、期待なんてさせないでよ……」

 歓喜と恐怖に悲鳴を上げる心臓を、ナズナは震える両手で掴んだ。このままではいけない。過度な期待はやがて執着となり、ナズナの退路をゆるやかに塞いでいく。逃げ道が完全に閉ざされた時、自分は果たしてどうなってしまうのだろう。彼女はぎゅっと目をつむり、肺の中の空気を限界まで押し出した。
 ――自分が壊れてしまう前に、諦めなければ。





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