魔王に捧ぐ硝子の花 | ナノ


「馬鹿ですか、あなたは」

 開口一番のゼルダの言葉に、ナズナはぐっと息を詰まらせた。
 ぴんと背筋を伸ばしてソファに腰かけているゼルダは、呆れたようなため息をついて白皙の美貌を曇らせる。隣に座っているナズナは耐えきれずにその横顔から目をそらした。

「百歩――いえ、千歩譲って、不覚にもガノンドロフに弱った体を預けてしまったことは許しましょう」
「……うん」
「世話になった上で借りを返そうとしたのも、まあ、分からなくもありません」
「……そ、そうね」

 これは怒っている。ちらりと横目で顔色を伺うと、眉間にしわが寄っているのが垣間見えた。居たたまれなくなって視線を下に落とせば、膝に置かれたゼルダの手がぎゅっと固く握りこぶしを作っているのが目に映る。怖い。
 ゼルダは気を落ち着かせるようにゆっくりと深呼吸をして、静かに切り出した。

「ですが、何故……何故そこでガノンドロフに身を捧げようなどということに繋がるのです?」
「ゼ、ゼルダちゃん、私そこまで言ってない」
「同じことです!」

 ひぃ、とナズナは情けない悲鳴を上げる。下手すると魔王を相手にした時よりも怯えているような気もするが、それも当然だろう。
 ゼルダの言うことは全面的に正しい。たかが一宿一飯と薬の恩のために、自分の未来全てを委ねようというのだ。ナズナ自身の目から見ても正気の沙汰ではない。もし自分が逆の立場だったら、何がなんでも止めにかかるだろう。
 加えて相手は烈火のごとく怒りを露にする美人である。ただでさえ女神もかくやというほどの美貌だというのに、それが表情を変えると迫力が段違いである。美人が怒ると怖いとはよく聞くが、それはどうやらまごうことなき真実だったようだ。

「そのような口約束など、反故にしてしまいなさい。くだらない義理のために、ナズナが人生を棒に振る理由などありません」
「そんな、ダメだよ。反故になんてできない」
「何故ですか!」
「ほ、ほらだって、自分から言ったんだし」

 詰問するようにこちらに顔を向けたゼルダに、ナズナは曖昧な笑みを返す。その態度が気に入らなかったのか、ゼルダは不満げに眉を潜めてため息をつく。

「これはあまりにも不公平な契約です。リンクが勝つにせよ負けるにせよ、あなたの身の破滅は決まってしまったようなものではありませんか。結局あなたは、ガノンドロフ、と――」

 ゼルダは喋っている途中で何かに気がついたらしく、顔を強張らせながら徐々に目を大きく見開いていく。

「まさか、あなたは……!」

 向けられた驚愕の眼差しに、ナズナは顔を俯けて苦笑を漏らす。さすがに知恵のトライフォースを宿しているだけはあって、ナズナが何を思ってそんな行動を取ったか気づいたらしい。
 ――共に封印されること、自分を自由にさせること。どちらもナズナの方から言い出したことである。しかもそれを撤回する素振りすら見せていないことからして、おのずと察しはつくだろう。

「二人きりになったところで、ガノンドロフを完全に討ち果たすつもりなのですか!?」
「いや、違う違う」

 どうしてそうなった。確かによくよく考えてみるとそういった線もあり得なくはないが、それだったらナズナももう少し神妙な顔をしているはずだ。間違っても照れたりしない。
 ナズナの否定を受けて、ゼルダが重いため息をつく。

「ではやはり、あなたはあの男を慕っているのですね」

 ……先程のは彼女なりのジョークだったらしい。
 心底落胆したようなゼルダの言葉に、ナズナは罪悪感の混じった苦い笑みを返した。余人ならともかく、自分が想いを寄せる相手は目の前にいるゼルダの大切なものをことごとく壊してしまった大悪党である。気まずいにもほどがある。

「その、ごめんね」
「……いいえ。あなたが謝る必要はありません。悪いのはひとえにあなたの趣味なのですから」
「え、う、うん」

 残念ながら全くフォローになっていない。それとも、暗に貶されているのだろうか。本音を探ろうとも、その沈痛な表情からは読み取ることができない。

「そうですよ、何がどうしてガノンドロフなのですか、ナズナ。あの色黒で全身筋肉ダルマで前髪が後退していて内面がにじみ出ているような悪人面であるあの男のどこが良いのですか」
「ひ、酷い言いようだね」

 悲痛な表情で滔々と語られる罵詈雑言の数々に、ナズナは引きつった笑みを浮かべた。儚げな外見の姫様は、意外にも毒舌家だったらしい。

「酷いのはあなたです。傍にリンクのような美少年がいて何故ガノンドロフに走ったのか、実に理解に苦しみます」
「ゼルダちゃん、実はちょっと面白がってるでしょ」
「……分かりましたか?」

 悪戯っぽく持ち上がった彼女の口角を確認して、ナズナは肩の力を抜く。先程泣きそうになるまで精神的に追い詰められていたゼルダだが、ふざけた会話ができる程度には気を持ち直してきたようだ。
 ゼルダは額にたおやかな指を添えて悩ましげに首を横に振る。

「それにしても、まさかここに至って恋愛沙汰とは……リンクといいあなたといい、どうしてそう破天荒なのですか」
「やだなあ。リンク君ほど酷くないよ、私」

 なかなか面白い冗談だと笑い飛ばすと、思いがけず冷ややかな眼差しが返ってきた。青い瞳から放たれる鋭い視線の矢に、ナズナの笑い声はだんだんと乾いていく。
 ――なんだろう。自分はそんなにもおかしな人間なのだろうか。以前ガノンドロフにもそう指摘されたし、最近ではリンクやナビィにも変人扱いされる始末だ。誰でもいいから、具体的にどこがどう変なのか教えてほしい。ついでに何が普通で何がそうでないのかの基準も図解つきで丁寧に解説してくれると助かるのだが。
 普通と変人の境目についてナズナが悶々と考えていると、ゼルダはふと真剣な顔つきになって問いかけてきた。

「リンクには伝えてあるのですか、ナズナ?」

 それを聞いたナズナは、ゆるりと首を横に振る。

「言ってない。止められそうだし」
「そうでしょうね。彼は、あなたのことを実の姉のように慕っているようですから」

 その言葉にナズナも同意して頷く。リンクは困っている人なら誰であろうと助けに向かう活動的なお人好しだが、こと共に旅をする仲間に関してはその傾向が強い。これまでも、彼はナズナに身の危険が迫れば――そのような事態は滅多に起きなかったが――何があっても全力で彼女を救ってきた。
 そんなリンクがこのことを知れば、きっとナズナの想いを無視して本気で止めにかかるだろう。ともすると、ガノンドロフを封印することなく本当にとどめを差してしまいかねない。ハイラル的には完全無欠のハッピーエンドだが、ナズナにとっては最悪の結末だ。

「ねえ、ゼルダちゃん。ごめんだけど、あの子には最後の最後まで黙っててくれないかな」
「……そう言うだろうと思っていました」

 呆れたようにゼルダはため息をつく。その表情は、何を思っているのか悲しげだ。

「ですが、あなたのその選択を目の当たりにしたリンクは、きっととても傷つきますよ」
「知ってる」
「それに、あなたがいくら想いを寄せても、あの男の心があなたに向くとは限りません」
「……それも知ってる」

 ナズナの穏やかな声音に、わずかに苦いものが混じる。分かっている。彼女の言い分は正しい。自分の選んだ選択肢が間違いだらけであることなど、とっくのとうに理解している。
 ――それでも。

「それでも、あなたは自分の選んだ道を歩むつもりなのですか?」

 ゼルダは真っ直ぐにナズナを見据える。ハイラル湖のように深く澄んだ、叡知の煌めきを宿す青い瞳で。これは確かにリンクが見惚れるのも分からなくはない。ナズナは笑って、その綺麗な瞳を同じく真っ直ぐに見返した。

「私は、自分がその時幸せなら、それでいいと思ってる」

 ちょっと冷たいかもしれないけどね、と小声で付け足して肩を竦める。リンクやゼルダが悲しもうと、ハイラルの大地がどうなろうと……そして、例えガノンドロフがこちらの想いに応えてくれる可能性などないのだとしても。それでもナズナは、彼の傍にいられるだけで幸せなのだ。
 ――本当に、なんて自分勝手で薄情な恋なんだろう。ナズナが苦笑すると、ゼルダは困ったように目尻を下げながら微笑んだ。

「申し訳なさそうに言う台詞じゃありませんよ」

 そう言った彼女は、ナズナの手をそっと自分の両手で包む。薄手の手袋越しに触れ合った指先から温もりがじわりと伝わってきて、ナズナはふっと息を吐いて目を伏せた。




 ゼルダは部屋にひとつしかない寝台の縁に腰掛けて、窓の外を眺めていた。夜だというのに、城の下方に煮えたぎる溶岩のお陰で部屋の中はぼんやりと明るい。
 ベッドの中では、ナズナがすうすうと安らかな寝息を立てている。ゼルダはそんな彼女をふと見下ろして、口元に薄い笑みを浮かべる。敵の居城でこうも穏やかに眠っていられるとは。肝が据わっているのか、警戒心がないのか。あるいは、何も考えていないだけなのかもしれない。
 ナズナの寝顔をじっと見ていたゼルダは、ふと気配を感じて顔を上げる。そこにあった姿を目に映して、彼女は敵意と警戒を静かに張り詰めさせた。

「やはり来ましたね、ガノンドロフ」

 寝ているナズナを起こさぬように、声を低くして侵入者を睨みつける。

「このような夜更けに断りもなく女の居室に立ち入るとは、いささかどころではなく失礼ではありませんか?」

 転移で部屋の中央に現れたガノンドロフは、ゼルダの突き刺すような眼差しを受けて不快げに短く息を吐く。

「貴様の方から誘っておいて、よくそのような口が利ける」
「誘うだなどとは心外ですね。私は目がさえて眠れず、ただ暇をしていただけです」

 そう言い放てば、魔王は顔をしかめて舌打ちをした。

「どこぞの誰かに似て、口の減らぬ小娘だ」
「どうとでも」

 ゼルダは肩をすくめながら、ふと今は闇の賢者として賢者の間で待機している乳母のことを思い出す。
 ハイラル城が陥落する前、インパはガノンドロフと顔を合わせる度に舌戦を繰り広げていたらしい。正直なところ出会い頭に斬りつけたいものの立場的に不可能なため、鬱憤が溜まってつい口が出てしまっていたのだそうだ。何を言い合っていたのかはついぞ教えてくれはしなかったが、ガノンドロフの苦々しげな表情を見る限り、相当激しい応酬だったのだろう。

「――あなたとナズナの間に交わされた取り決めの内容は聞きました」
「ほう?」

 静かに切り出したゼルダに、ガノンドロフは面白がるように唇の端を持ち上げる。

「それがどうした。知ったところで、貴様には関わりのないことだろう」
「……ええ。大層気に入りませんがね」

 ゼルダはあからさまに眉を寄せながら肯定する。これに関しては、ナズナ自身が考えを改めない限りどうしようもない。
 本当に、何故彼女はこんな男を好きになったのだろうか。会話はもちろんのこと、もうこの嫌味な顔を見ているだけでも無性に腹立たしくなってくる。仮にハイラル乗っ取りを起こさなかったとしても、ゼルダは絶対にこの男のことだけは好きにはなれなかっただろう。
 ゼルダは苛立ちを隠しもせず短いため息をつく。

「私が訊きたいのはそれに関してではありません。――ガノンドロフ、あなたは何故そこまで彼女に執着しているのですか?」
「執着だと? このオレ様が、その女にか?」

 ガノンドロフは小馬鹿にしたように鼻で笑う。

「戯れ言を。あれはこの女がすり寄ってきているだけにすぎん。オレはそれを許しているまでよ」
「ならば、彼女をこの城に連れてくる必要はないはずです。ナズナの方からすり寄ってきているのであればなおさら、取り決めが反故にされる懸念はないでしょう」

 刺々しい彼女の反論に、何かしら思い当たる節があるのだろう。ガノンドロフは口を閉ざしたまま、険しい目付きでそれを聞いている。
 ――ナズナの話を聞いた時から、ゼルダはガノンドロフの行動に違和感を覚えていた。自分と共にこの城に誘拐してきたことはもとより、そもそも体調を崩した彼女を連れ帰って面倒を見ていたこと自体がすでにおかしい。しかも、捕らえた彼女に何をすることもなく、単なる口約束を交わしただけで帰すとは。弱者に対して容赦のない彼が、ナズナを相手にした時に限って不可解な行動を繰り返すのだ。異常であると言うほかない。
 だから、ゼルダはこう推測を立てたのだ。

「あなたの方が、彼女を傍に置きたがっているのではありませんか?」

 ほぼ断定的な色を含んだその疑問が、静かな部屋に冷たく響く。

「ガノンドロフ、あなたは彼女を――、っ!」

 不意に喉元に圧迫感を覚えてゼルダは反射的に首に手を当てる。だが、そこには何もなかった。――いや、そうではない。魔力でできた見えない縄がその細い首に巻き付いていたのだ。緩やかに絞まる首を押さえながら魔力の持ち主を見やったゼルダは、その瞬間顔をさっと青ざめさせる。
 ガノンドロフは歯を剥き出しにしてゼルダを睨み付けていた。

「己の立場を弁えろ、ゼルダ。オレは貴様をここで殺すこともできるのだぞ」

 射殺さんばかりの眼差しに、ゼルダは完全に呼吸を奪われた。喉元までせり上がる恐怖を、だが彼女は気丈にもねじ伏せて魔王を睨み返す。その反抗的な態度にガノンドロフがますます怒りを募らせ、ゼルダに仕掛けた魔術を強めようとした、まさにその直前。
 ガノンドロフの発する獰猛な殺気を感じたのか、ナズナが鼻にかかったような呻き声と共に寝返りを打った。絹のすれ合うすべらかな音と同時に、ゼルダの首にまとわりついていた圧迫感がふっと消える。軽く咳き込みながら顔を上げると、ガノンドロフは気を削がれたらしく、顔をしかめながらふんと鼻を鳴らした。

「覚えておけ。次に無用な口を叩けば、自ら死を招くことになるぞ」
「……心得ておきます」

 低い声で返すと、彼は転移の術を発動させてその場から姿を消した。それを確認したゼルダは、極限まで張り詰めていた緊張をふっとほどく。その表情は安堵というより、むしろ落胆の色が濃い。
 ガノンドロフは、どうやらすでにナズナを自分のものとして認識しているようだ。昼間から薄々と感じてはいたが、彼の言葉や態度の端々から彼女に対する独占欲にも似た感情が滲み出ている。――それが純粋な愛情から来るものであると、彼の思考をうまく誘導できれば良かったのだが。
 悩ましげなため息をつけば、ベッドの中にいるナズナがもぞもぞと動いた。彼女はすんと鼻を鳴らして目を薄く開くと、ベッドの縁に座っているゼルダを見つけて眠たそうにゆっくりと瞬きをした。

「ゼルダちゃん?」
「ごめんなさい、起こしてしまいましたか」
「やっぱり、眠れない?」

 ナズナは上半身を起こし、気遣わしげに眉根を下げる。

「まあ、無理もないよね。でも、横になるだけでもだいぶ違うよ」
「……ええ、そうですね」
「ほら。怖かったら、手を繋いでもいいし」

 気の抜けたようなその表情に、ゼルダもつられて笑みをこぼした。ナズナの無防備な笑みは、見る者を安心させる力がある。リンクが彼女を心の拠り所にしている理由がなんとなく分かった気がした。
 ――ほっと気を抜くと、少し瞼が重くなった。ゼルダは靴を脱いで彼女と同じシーツの下にするりと体を滑り込ませる。ナズナはそれを確認すると、ゆるりと微笑みながらシーツを被って目を閉じた。ほどなくして、安らかな寝息が再び聞こえ始める。ゼルダは思わずくすりと笑う。

「こうして見ると、大人か子供か分かりませんね」

 やわらかな言葉遣いや落ち着いた物腰に隠れがちではあるが、ナズナの言動は純真で素直な子供そのものだ。人を疑うことを知らず、常に目の前の相手に全幅の信頼を置く。駆け引きなどは度外視で、思ったことは正直に口に出す。
 手の内全てをさらけ出して微笑む彼女は、見ようによってはただの馬鹿にしか映らないだろう。――相手の全てを許容する、理知的な色を秘めた眼差しに気づかなければ。
 ガノンドロフがそんなナズナの飾らない穏やかな好意を好ましく思っていることは明らかだ。自分を受け入れ、愛してくれる彼女を完全に自分の支配下に置きたがっていることも。だが、ガノンドロフが彼女に対して抱いているのは愛情ではない。単なる所有物に対する執着心だ。
 普段は理性でねじ伏せていようが、ガノンドロフの本質は暴虐で本能的な獣じみたものである。そんな男が一人の女を大切に扱えるはずがない。近い将来、名実ともに彼の所有物となったナズナの扱いがどのようなものになるかは未来予知などせずとも容易に想像がつく。下手をすれば、あの男は彼女の全てを食い荒らし、貪り尽くしかねない。――そう、この荒廃したハイラルのように。
 そうならないことを心から祈りながら、ゼルダはナズナのやわらかな手をそっと握った。





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