魔王に捧ぐ硝子の花 | ナノ


 鼻をかすめた美味しそうな匂いに、ふっとナズナの意識が浮上する。
 重たい瞼をなんとか持ち上げると、そこそこに高い石造りの天井が見えた。枕に預けていた頭を動かすと、豪奢でありながらも落ち着きのある調度の部屋が目に映る。家具の種類や具合からして客室だろうか。そもそも、ガノン城に客室があるのかどうかすら怪しいところだが。

「ガノン城……なんだよね、ここ」

 確かめるように呟いたナズナは、気だるい体を叱咤して上半身を起こす。裸の胸元が露にならないよう、肌触りのよいシーツを掴みながら。見ている者などいるはずもないのだが、気持ちの問題である。

「どういうつもりなんだろ、あの人」

 ぼんやりと窓の外を眺めながらひとりごちる。
 熱に浮かされて意識は朦朧としていたが、彼女ははっきりと覚えていた。洞穴の中でガノンドロフに抱きかかえられ、馬に乗って平原を駆けたこと。その途中、顔見知りの反魔王勢力に道を阻まれたこと。どうやら自分を慕っていたらしい若者が無惨に死んでいったこと。――知り合いが死んだというのに悲しみひとつ覚えない自分の淡白さには、さすがに少々嫌悪感を覚える。
 ともかく、ガノンドロフが何を考えているのか、ナズナにはさっぱり分からなかった。魔王たる彼がわざわざ労力を割いてまでナズナを助ける理由はない。敵意があろうとなかろうと、彼女が勇者の伴であることに変わりはないのだから。
 残念ながら、ナズナに対する愛慕や憐れみなどではないことは確かだ。そんなものがあったら彼は魔王になどなってはいないし、反魔王勢力にあれほど強く憎まれることもなかっただろう。
 では、人質にするつもりでナズナを城まで連れ帰ったのか。人質を取ったところでさほど有用性があるとは思えないが、相手は謀略にも長けるガノンドロフだ。もしかしたら、ナズナの予想の遥か上をいく活用法を見いだしたのかもしれない。
 ベッドサイドのテーブルには、ナズナの衣服が綺麗に畳まれて置いてあった。雨に濡らし、絞った上でさらに荷物袋に突っ込んだというのに、チュニックから下着に至るまでシワひとつない。その隣には、やたらとアンティークなワゴンに乗った簡単な朝食が用意してあった。平べったいパンにまだ温かそうなベーコンエッグ、みずみずしいサラダに恐らくロンロン牧場産のミルク。どうやら、先程のいい匂いの正体はこれだったらしい。
 ――いったい誰が服を洗濯し、食事の用意までしてくれたのだろうか。
 あまり深くは考えないことにして、彼女はとりあえず服を着ることにした。




 腹ごしらえまで終えたナズナは、ゆっくりと筋を伸ばしながら体の調子を確かめる。多少気だるくはあるものの、熱は残っていないようだ。ゆっくりと眠ったお陰もあるが、それ以上にガノンドロフにもらった薬が効いたのだろう。弱っていたとはいえ敵に薬を飲ませるとは、魔王の癖につくづく何を考えているのか分からない男である。
 そんなことを考えていたナズナの耳に、ギィと扉の軋む音が届く。顔を向けると、扉を閉めてこちらを振り返ったガノンドロフと目が合った。噂をすれば、である。ナズナはあらかじめ身なりを整えておいた自分に感謝をしながら魔王に笑いかけた。

「おはようございます」
「今は昼だ」
「あら、そうなんですか。外がアレなんで気づきませんでした」

 彼女は言いながら窓の外の空を示す。溶岩の反射で赤黒く染まった厚い雲が渦巻いているせいで、昼だか夜だか分かったものではない。ガノンドロフもそれは自覚しているらしく、ちらりとそちらを見て皮肉げに唇の端を持ち上げた。

「それから、ベッドとお薬、ありがとうございます。お陰さまですっかり元気ですよ」

 すると、彼は嘲笑とも取れる短い息を吐く。

「呑気なものだ。自分が今どこにいるのか、分からぬわけではあるまい」
「ええ、まあ」

 言われずとも理解はしているつもりだ。ここはガノン城。ロングフックですら侵入不可能な陸の孤島に佇む、魔王ガノンドロフの本拠地である。
 そして現在、ナズナは友であり主戦力であるリンクから遠く引き離され、その城の一室に連れ込まれている。囚われの身であると言っても過言ではない。逃げ道は――ない。ワープの力を秘めた旋律はいくつか覚えがあるものの、それらはリンクが持つ時のオカリナでなければ発動不可能。宙に浮いた城から徒歩で逃げるなど論外だし、外部の助けなど望めるはずもない。
 つまり彼がその気になれば、何をされようが逃げることも抵抗することも叶わないわけで。
 ――改めて見直してみると、実に抜き差しならない状況である。ガノンドロフの目的が不明なため、自分の身がどうなるかも予測できない。それが余計にナズナの不安を煽る。

「……その、できれば痛いことはしないでいただけると助かるのですが」
「ほう、では痛みがなければよいのだな」

 にやりと不敵な笑みを浮かべたガノンドロフは、マントをばさりと手で払いのけるとゆったりとした歩調でこちらに歩み寄ってくる。……いや、ちょっと待て、何をするつもりだ。確かに痛いのは嫌だと言いはしたが、痛くなければ何をされてもいいという意味では決してない。
 ガノンドロフは混乱して固まっているナズナのすぐ目の前で足を止めた。覆い被さられるような圧迫感に、ナズナは思わず後ずさる。――と、ふくらはぎの辺りにさらりと布の触れる感触がした。しまった、後ろはベッドだ。
 ガノンドロフは好機とばかりに笑みを強め、大きく一歩を踏み出す。恐怖心から距離を取ろうとした彼女は寝台にぶつかってバランスを崩し、さらに肩を掴まれてそのままベッドに押し付けられた。
 反射的につむってしまった目を再び開いた瞬間、ナズナの息が止まる。自分にのし掛かる大きな体。鼻がついてしまいそうな近さにある顔。肩に触れる固い手のひら。その全てを一度に意識してしまったのだ。
 かっと全身が熱くなり、肺と心臓が縮こまる。暴力的なまでの野心と自信を秘めた黄色の瞳に縫い止められ、自由なはずの腕をすら動かすことができない。

「――ククッ」

 頭が真っ白になっていたナズナの耳に、ガノンドロフが喉を鳴らす音が聞こえた。呆気に取られている彼女を尻目に、彼はあっさりとナズナを押さえつけていた手を離して立ち上がる。そこでようやくからかわれたことに気づいて、ナズナはむっと唇を曲げた。上半身を起こし、ベッドの縁に腰かける体勢で魔王を軽く睨む。

「イジワルですね」
「不満そうな顔だな。期待でもしていたか?」

 小馬鹿にするような眼差しに、ナズナはぐっと言葉を詰まらせて視線をそらす。否定はできない。恐怖や不安に混じって、背筋を走る怖気にも似た期待を感じていたのは確かだからだ。
 想い人に全てを捧げたい。けれど秘めたるものを暴かれるのは怖い。何もかもをさらけ出して奪われたいと感じる反面、自分の底の浅さを知られて失望されてしまうのが恐ろしい。そんな女としての葛藤をすら見抜かれたようで、ナズナは悔しげに顔を歪ませる。リンクの前では決してしない表情だ。

「……ホント、イジワルですね」

 ふてくされたように繰り返す。ガノンドロフの満足げなにやにや笑いが余計に腹立たしい。この話を引っ張ってもろくなことにならないのは目に見えているので、ナズナはさっさと話題を変えることにした。

「それで、どのくらい寝てましたか、私」
「薬を飲んでから丸一日、といったところだ」

 丸一日。となると、ナズナがリンクと別れてからほぼ丸二日経過したことになる。彼女は遠くの友人を思って目を軽く伏せた。これだけ時間が経っていれば、リンクはとうに水の神殿をクリアしてカカリコ村に着いているはずだ。先に出発したはずの友人がまだ村にいないことを、彼はさぞ不思議がっていることだろう。

「参ったな、リンク君に心配かけちゃったかしら」
「いや、それはないだろう。何せ、まだ水の神殿の解放さえできておらんからな。小僧は貴様がいなくなったことにすら気づいていないはずだ」
「え? そんな苦戦してるんですか、あの子」

 今までの経験則からして、神殿はどれだけまったり攻略してもせいぜい半日程度だ。確かに水の神殿は『時のオカリナ』屈指の難所だが、それでも二日は時間をかけすぎである。それほど謎解きが難しいのだろうか。まさか途中で詰んでしまった、なんてことは――。
 悪い方へ悪い方へと向かうナズナの想像を否定するように、ガノンドロフは苦い顔で首を横に振る。

「いや。攻略に飽いて釣り堀に入り浸った末に、今しがたハイラルどじょう掴み取りに成功したところだ」
「うわっ……。あの子ったら、なんて野生児な」
「反応するのはそこか」

 非難がましげなガノンドロフをよそに、ナズナはほっと目元を緩める。ルト姫をほったらかして遊んでいるのはいただけないが、やんちゃなリンクが寄り道に走るのは恒例行事のようなものだ。きっとナビィは今回もリンクを諌めきれなかったのだろう。何はともあれ、大事はないようでよかった。
 胸を撫で下ろす彼女をつまらなそうな眼差しで見下ろしていたガノンドロフが、不意に短く笑う。自嘲にも似たそれにナズナが顔を上げると、彼はいつもの尊大な笑みで腕を組んでいた。

「小僧の元に戻りたいか?」
「――そうですねぇ」

 ナズナは困ったように笑う。このまま想い人に閉じ込められるのも悪くはないが、やはりリンクのことが気がかりだ。あの体力無尽蔵なやんちゃ坊主のストッパーがナビィだけというのは心もとない。まともに全神殿を攻略できるまで、かなり紆余曲折ありそうである。
 さて、そうは思うものの、ガノンドロフがそう簡単に帰してくれるものだろうか――。

「構わんぞ」
「えっ?」

 思いがけない言葉にナズナはすっとんきょうな声を上げた。いや、確かに解放してくれるのはありがたい。ありがたいのだが、こうもあっさりと放されてしまうと逆に不安になる。

「ほ、本当にいいんですか?」
「構わんと言っているだろう。それとも、そんなにオレの側がいいか?」
「ぐっ……やっぱりイジワルですね。私が反論できないの分かっててやってるでしょう」
「さて、どうだろうな。――で、どうする?」

 面白がるような金色の瞳を見上げながら、ナズナは首を横に振る。

「それでも帰りますよ。せめて賢者全員を目覚めさせるまでは見とかないと、心配で胃に穴が空いちゃいます」

 腹をさすっておどけたように笑うと、ガノンドロフは堪えきれないといった様子で小さく噴き出した。

「道理だ」

 その表情を見たナズナの心臓がどきりと跳ね上がる。それは嘲りも皮肉もない、彼女が見た中で一番穏やかな笑みだった。




 城内の諸々の雑事は、スタルフォスやダイナフォスなどの二足歩行の魔物が担当しているらしい。部屋に入ってきた骸骨剣士から自分の荷物を受け取りながら何気なくガノンドロフに訊くと、そう返ってきた。魔物たちよりずっと使い勝手の良さそうなゲルド族はどうしたのかというと、原則城内立ち入り禁止らしい。

「魔物たちが嫌がったり襲ったりするんですか?」
「表向きの理由ではそうなっている」
「……ああ、なるほど」

 にやりとした笑みでなんとなく察した。この城は彼にとっての安息の地であるようだ。
 とすると、服を洗濯したり食事を作り置いてくれたのも魔物達なのだろう。礼を言い損ねてしまったのは少し心残りだ。
 ――返してもらった荷物をひっくり返し、しっかりと装備を整える。とりあえず城の出口まで転移の術で送還してもらえることになったが、そこから平原に抜けるにはリーデットの巣窟と化した城下町を抜けなければならない。殺気を出さず足音を忍ばせればやりすごせると知ってはいるものの、怖いものは怖い。
 城下町を廃墟にするだけならまだしも、リーデットを複数配置するなど嫌がらせにもほどがある。そこで自分の支度を待っている責任者に文句を言ってやりたいほどだ。……またからかわれるネタが増えそうなので意地でも言わないが。
 ――それにしても、なかなか見つからない。荷袋をがさがさと漁っていると、痺れを切らしたガノンドロフがイライラと口を挟んだ。

「おい、さっさとしろ。何を探している」
「いえ、ベッドとお薬のお礼したいなと思ったんですけど、ろくなもの持ってなくて。……うーん、ルピーいります?」

 ナズナがぱんぱんに膨らんだ財布を持ち上げると、彼はふんと馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

「そんなはした金なぞいらん」
「あら酷い」

 おとなのサイフがいっぱいになるまで頑張ったというのに、はした金とはとんだ言い草である。だが相手はハイラルを支配する魔王。たかだか二百ルピーなど物の足しにもならないのだろう。これだから金持ちは困る。

「にしても、困ったなぁ。借りっぱなしは性に合わないんですよ、私。かといって返す宛も機会も――あ、そうだ」

 ふとあることを思い付いて、彼女は魔王に向き直る。

「もしあなたが負けて、封印されることになったら――」
「このオレ様があの小僧に劣るとでも?」

 露骨に顔をしかめるガノンドロフに、ナズナは思わず苦笑する。

「もし仮に、ですよ。そうなったら、一緒に封印されてあげます」

 ――彼女は『この先』を知っている。

「復活するまで暇でしょうし、話し相手くらいにはなりますよ」

 リンクはガノンドロフに打ち勝ち、ゼルダ姫を含めた七人の賢者が力を合わせて魔獣と化した魔王を封印する。『時のオカリナ』のゲームはそうして幕を閉じるのだ。
 正しい歴史を歩めば、彼はナズナがどう手を伸ばしても届かない場所に行ってしまう。彼がいずれ復活することなど分かりきっているが、それはこの時代が伝説になるほど遥か未来のこと。それほど長く、彼女は生きていられない。
 だが共に封印されれば、共に時を越えることができる。さらにうまく立ち回れば、ハイラルが消滅するその時までずっと一緒にいられるだろう。

「ならば、オレが勝った時はどうするつもりだ?」
「うーん……」

 ナズナは曖昧に笑いながら考えるふりをする。彼が勝ったとしても、最終的な結果は変わらない。残された賢者や人々が最終手段を用い、聖地ごとトライフォースと魔王を封印するのだ。その場合歴史はリンクが勝利した場合とは異なる道を辿ることになるのだが、それはまた別の話である。
 もしリンクが負けたとしても、やはり一緒に封印されることにしよう。勝手に心に決めながら、ナズナは首を横に振る。

「思い付かないですね。その時は、煮るなり焼くなり好きにしちゃっていいですよ」
「くだらん。そのような取り決めをせずとも、小僧が負けた時点で貴様に自由はないだろう。オレのうまみがない」
「でもほら、抵抗して逃げちゃうかもしれないですし」

 怖いの苦手なんですよね、と言いながらナズナは肩をすくめて悪戯っぽく笑ってみせる。するとガノンドロフは何事か企んでいるかのような含みのある笑みでこちらを高みから見下ろした。

「ほう。では貴様は、オレが何をしようと逃げも隠れもしないと言うのだな」
「うっ……も、もちろんです。正々堂々、真っ向から受けて立ちますよ」

 念を押すようなガノンドロフの言葉に何をされるのかと一瞬ひるんでしまったが、女に二言はない。それに、どうせ大口を叩いたところでそれが実現する可能性は薄いのだ。何を言っても構うまい。

「その言葉、違えるなよ」

 ガノンドロフの悪どい笑みを最後に、ナズナはガノン城の一室から不意打ちで飛ばされた。――ひょっとしたら、とんでもない約束をしてしまったのかもしれない。転移の影響でふらつく頭を押さえながら、彼女は自分の大言壮語をほんの少し後悔した。





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