smile! | ナノ


 ピーチとの遭遇の後は、目的の部屋に辿り着くまで誰とも出会うことはなかった。とはいっても、館に誰もいないわけではないらしい。時おり上の階の廊下をどたどたと走り抜ける音が響くこともあれば、窓から見える庭に何人かの人影を確認することもできる。ただ単に巡り合わせが悪かっただけのようだ。
 ともかく、スミレはマリオと共にマスターハンドがいるという部屋の前に立っていた。扉自体はなんの変哲もない木製のものだが、そこに取り付けられた金属プレートにはデフォルメされた右手が描かれている。

「さあ、ここがマスター……もとい、マスターハンドの部屋だ。この中へは、すまないが君一人で入ってほしい」
「一人で、ですか?」

 不安げにマリオと扉を交互に見やる彼女を勇気づけるように、彼は力強く頷く。

「大丈夫、彼は決して怖い人ではないからね。きっと君が納得できるような説明をしてくれるはずだよ」
「……ありがとうございます。じゃあ、行ってきます」

 スミレはドアノブを捻り、扉を押し開けてその中に足を踏み入れる。
 始めに目に入ったのは、何物にも遮られることなく一面に広がる星空だった。靴の底に触れたのは材質の分からない人工的な床。宇宙空間を思わせる光景とフラットでだだっ広い床面は、どことなく『終点』のステージを思わせる。
 そこに、巨大な白い右手が浮かんでいた。

「――初めまして、スミレと申します」
「ああ、知っているとも。君を呼んだのは他ならぬこの私、マスターハンドなのだから」

 深く響くような男性の声が空間に木霊する。

「スミレ。すでにマリオから聞いているだろうが、私は君を特別枠のファイターとして招待した」
「はい」
「説明も承諾もなしに、突然乱闘中のステージに落としてしまったことをまずは詫びよう。すまなかった」

 マスターハンドは指を揃えて力なく下を向く。顔も何もない手だけの存在のはずなのに、謝罪の気持ちはきちんと伝わってくるというのが不思議なものである。

「い、いえ。気にしてませんので」

 スミレは困ったように笑いながら顔の前で両手を左右に振る。先程から色々な人に謝られてばかりだ。そうされなければならないほど酷いことなどされた覚えはないのだが。
 彼は気を取り直すようにぎゅっと拳を作り、次いで力を抜く。

「さて、色々と気になることはあるだろうが、まずは私の話を聞いてほしい。君は『大乱闘スマッシュブラザーズ』のゲームについては知っているね?」

 スミレは頷く。

「話が早くて助かる。手っ取り早く表現すれば、この世界はそのゲームの中だ。厳密には違うのだが、君にはそう言った方が分かりやすいだろう」
「はい」

 やはり、とスミレは内心ため息をつく。ここはゲームの中だったようだ。『厳密には違う』点についてもっと知りたいところだが、彼は質問を挟むいとまもなく喋り続ける。

「私はこの世界を創造し、神として統括している。その一環として大乱闘を運営しているのだが、少々新しい試みを取り入れたくなってね。この世界の外から君という存在を呼び寄せてみたというわけだ。いやあ、見事に成功してくれて私はとても嬉しいよ」
「は、はぁ……」

 マスターハンドの指が楽しそうにわきわきと動いている。どうやら自分がここに来たのは、彼のちょっとした好奇心というか、チャレンジ精神が原因らしい。なんともリアクションの取りづらい理由だ。

「ということで、君には是非ここでファイターとして生活してほしいのだ。なあに、戦いの経験がなくてもなんら支障はない。ここにはそういった人も多くいるからね。君も先程の乱闘で気づいたとは思うが――」
「あ――あの! ひとつ、よろしいですか?」

 スミレは慌てて口を挟んだ。このまま何も言わず話を聞いていると、流されてここに住まうことになってしまう。

「何かね? ここで暮らす上での注意点なら、後でマリオから説明させるつもりだが」
「その、帰らせていただきたいのですが」

 おずおずとした申し出に、マスターハンドの動きがぴたりと止まった。彼の喜びと期待に水を差してしまっただろうか。申し訳なく思いつつ、彼女は言葉を続ける。こちらにも引けない理由はあるのだ。

「お誘いはとっても嬉しいのですが――家族に心配をかけてしまいます。それに、明日は仕事ですし」

 スミレは一人で生きているわけではない。共に暮らしている人もいれば、社会人としての責任もある。それらを疎かにすることはできない。だが、それを聞いたマスターハンドは「ああ、そのことか」と拍子抜けしたように口にした。

「それならば問題はない。データというのは実に使い勝手のよいものでね。あらゆる事象をただの数字として置き換えることができるのだよ。そうとも、時間の経過という概念すらも数字の羅列として平面に表現することが可能なのだ。素晴らしいとは思わんかね?」

 スミレは首をかしげる。つまり、どういうことなのだろう。

「もう少し平易な言葉に置き換えようか。つまり、君がこの世界で何年過ごそうとも、外の世界では一瞬たりとも時間は経っていないということだ」
「そ、そうなんですか? でも、私……」

 スミレは驚きよりもむしろ困惑に目を瞬かせた。理論は分からなくとも、本当にそれが可能だとしたら確かに家族や仕事の心配をしなくても構わなくなるだろう。だが、それでもスミレはこの世界に留まってみようとは思わなかった。地に足のついた平穏な日常を愛する彼女にとって、未知なる世界や人々との触れあいは不安や恐怖を煽るものでしかない。
 表情が曇ったままの彼女の心を察したのか、マスターハンドはゆったりと言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

「まあ、仕方がない。望郷の念というものは誰しも持ち合わせているものだからね。だが、もしも君がそれで帰りたいと望むのならば――少なくともふた月は待ってもらわねばならないな。帰還のためのプログラムを組む必要があってね」
「ふた月、ですか」

 そんなにも長くかかるのか。向こうの世界で送るにはあっという間の日数だが、これからのことを思うと気の遠くなるような時間だ。

「君はプログラムの完成までの間、ここに滞在する必要がある。せめてその間だけでも、ファイターとして活動してほしい」
「私が、ですか?」
「そうだ。ファイターと言っても日に一度、指定された時間に乱闘してくれるだけで、後は好きに過ごして構わない。それとも、戦うことが不安かね?」
「え、ええ……」
「心配は無用だ、スミレ。今の君の魂には『Mii』という殻を被せてある。先程の乱闘で感じただろうが、戦うこと自体は造作もなくできたはずだ。無論、間合いの見切り方や技を出すタイミングなどの技術は磨かねばならんが……それでも、能力だけなら歴戦の勇士と同等のものとなっている」

 マスターハンドの言葉に、スミレはファルコとの追いかけっこを思い出して頷く。確かに、あの時の自分の身体能力には驚いた。軽く地面を蹴れば身の丈の数倍は跳ね上がり、身を守ろうとするだけでシールドが発動し、おまけに思う通りに体が動いて練習したこともない技を繰り出せる。普段の自分からは考えられない機敏さだった。

「それからサービスとして、その殻には『Mii』特有の三種の戦闘スタイルのデータも入っている。乱闘中以外でなら自由に切り替え可能だ。――で、だ。引き受けてくれるかね?」

 彼の口調はあくまで気安げだ。まるでおつかいでも頼むような口ぶりに、スミレは苦笑を浮かべるしかなかった。マスターハンドはどうしてもこちらをファイターにしたいらしい。ここで再び理由を付けて断ろうとしても、きっと無駄だろう。なんだかんだで逃げ道を潰してきそうな気がする。

「分かりました。二ヶ月だけでしたら、お引き受けします」

 するとマスターハンドは喜びを表現するようにぱっと指を広げた。

「いやあ、よかったよかった! これで私も安心して職務に戻れるよ。ああ、細かい規則やらなんやらはマリオにでも確認しておいてくれ。では――」
「あっ、すみません、あともうひとつだけ」
「何かね?」

 後ろを向いて星空の彼方に消え去りかけたマスターハンドを慌てて呼び止める。

「どうして私だったんですか?」

 この世界に招待されたと知って、まず疑問に思ったのがそれだった。内向的で変化を好まないスミレが、見知らぬ世界で見知らぬ人々と暮らしたり戦ったりすることに積極的になれないのは火を見るより明らかだ。そんな彼女よりも社交的で活発な人間の方が、この世界や住人たちにも上手く馴染んでいけるに違いない。
 だからこそ、不思議でならない。開口一番のマスターハンドの言葉は、意図してスミレを呼び出したかのようにも聞こえた。なぜ自分なのか。彼の求めに喜んで応じるような活動的な人間ではなく、なぜ他者との不要な関わりを拒みたがる自分でなければならなかったのか。
 マスターハンドは数秒の沈黙を挟むと、低い声でゆっくりと答える。

「……君のような大人しい子が、一人くらいいてもいいと思ってね」

 それはきっと、本当の理由ではない。スミレはそう感じたが、あえて彼を問い詰めることはしなかった。恐らく、どう訊ねたとしてものらりくらりと躱されることだろう。実に食えない人物である。
 マスターハンドが消え去ったのち、彼女は軽いため息をひとつ吐いて踵を返した。




 扉を潜って元の場所に戻ると、壁に寄りかかって待っていたマリオが顔を上げた。

「今後のことは決まったかい、スミレ?」
「はい。これから二ヶ月間、ファイターとしてお世話になることになりました」

 スミレはいつもの微笑みを浮かべる。たった六十日の付き合いだ、それほど深く関わるつもりはない。とはいえ、人間関係を疎かにすれば今後の生活に悪影響が及んでしまうだろう。そういうときの表面的な付き合い方を、スミレはよく心得ていた。

「そうか。二ヶ月後には帰るつもりなんだね?」
「はい。……その、申し訳ございませんが」

 頬に手を当てて目を軽く伏せる。せっかく歓迎してくれているのに、その気持ちを無駄にしてしまっているようで非常に心苦しい。

「構わないよ。誰だって故郷は恋しいものだからね。けれど、もし二ヶ月の間にここが気に入ってくれたら、それ以降も残ってくれると嬉しいな」
「それって、いいんですか?」
「勿論だ。それでここに留まっている人も結構いるからね」

 マリオの言葉にスミレはそういうものかと頷く。確かに、二ヶ月もいたら慣れるなり絆されるなりして、もう少しここにいてもいいかと思うこともあるだろう。自分がそのときこの世界をどう思うようになっているかは分からないが、残るという選択肢が含まれることも覚えておいた方がいいかもしれない。

「さて、と。それじゃあ、ひとまず君の部屋まで案内しようか。そこに今後必要となるものが置いてあるはずだから――」

 言いながら歩き出したマリオにスミレは慌てて着いていく。もうふわふわと夢の中を歩くような非現実感はない。足の裏に感じるのはしっかりとした地面だ。
 ――二ヶ月。これから元の平穏な日常に帰るまでの間、気持ちを改めてこの世界で生きていかなければ。穏やかな微笑みの裏で、スミレはひっそりと決意を固めた。




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