花盗人は何処 | ナノ




あれから立っていることすらままならないなまえを連れて村を回ったが、彼女の祖母の家が見つかることはなく。悄然とした様子のなまえは鬼灯が何と声をかけても曖昧に頷くだけで、心ここに在らずといった具合だった。

其れもそうだろう。地獄に堕ちたというだけでも相当な精神的負担がのし掛かっただろうし、漸く帰ることが出来ると喜びに沸いたなまえを突き落とすようなこの現実。
村の情景は何ひとつ変わらない穏やかなものなのに、心の拠り所だった祖母だけが消えたのだ。

年端もいかない少女には嘸かし辛いだろうと思う。が、落ち込んでいても状況は改善しない。鈍く軋む胸には蓋をして、鬼灯は再びなまえに言葉をかけた。


「なまえさん、何故こんな事になったか、まずそこから考えましょう」
「………何でこうなったか…」
「ええ、ゆっくりでいいので貴女が地獄に来た日のことを思い出してください」


迷い子を落ち着かせるようにゆるゆると背をさすられながらそう言われ、うまく働いてくれない思考を懸命に巡らせる。
あの日は確か、朝早くここに到着して暫く祖母と談笑した後、山に……。
考えながら群青に色づいていく空を見上げると、かすかにその身を削った月が目に入る。降り注ぐ淡い光は、暗闇に満たされた頭の中を手探りで進むなまえの足元を、明るく照らすように輝いていた。
ふと祖母の声が耳の奥に反響する。

―山に入ってはいけないよ、今日は満月だからね


「満月、」
「満月…?」
「おばあちゃん、今日は満月だから山に入っちゃだめだって言ったんです」
「……月が不思議な力を持つとは昔からよく聞く話ですが、まさかそんなことは…」


もしくはひと月に一度地獄へ開く道があり、それを通じて彼女はやって来た、か。そう仮定すると地獄と現世を繋ぐ穴が見つからなかったのも説明がつく。
どちらにしても彼女は何らかの事情で此処とは異なる現世からその道を通ってやって来たとでもいうのか。

そう思い至って、馬鹿馬鹿しい、とかぶりを振る。漫画や小説でもあるまいし、そんなことは起こる筈もない。
いくら思索にふけっても結論も答えも出ない押し問答に息をついた鬼灯は、なまえを静かに見下ろした。


「とりあえず、いつまでもここにいる訳にはいきませんから1度地獄へ戻りましょう」
「……でも」
「…なまえさん、今はこんなことになってしまった原因も解決方法も分かりませんが、帰り方が見つかるまで貴女の無事は保証します。ですからどうか、私と一緒に来てください」


1人、こういう事情に詳しそうな男も知っていることだ。非常に気は進まないが彼に訊ねることが1番の解決策だろう。
それに、彼女がこの世界で独りだという事実をまざまざと目の当たりにさせられるこの村に留まるよりは、地獄へ戻った方がずっと良いように思えた。

懇願にも近い科白をこぼしたあと、有無を言わせず彼女の氷のように冷えた手を取り歩き出した鬼灯に引っ張られるような形でなまえも足を動かす。
唯一なまえの傍に寄り添ってくれるそのぬくもりに縋るように、彼女は握られた手にぎゅっと力を込める。信じられないようなうつつを前にして、今はただ彼に従うことしか出来なかった。





地獄へと戻った頃にはもうすっかり夜も更けていたので、なまえを寝床に入らせ、鬼灯ひとりで報告に向かった。きっと寝台で眠れずにいるなまえを思い、無意識に眉をひそめながら口ではつらつらと現状を簡潔に並べ立てていた。


「つまり、なまえちゃんはワシたちが知ってる現世とは違う現世から来たってこと?」
「その可能性もあると言ったのです」


冷静に説明をする鬼灯が、頭の傍らで彼女に対して心を砕いていることは時折私室がある方角へと向けられる濡羽色の瞳が物語っていた。閻魔はそれにやわく目を細めながら今後のことを問いかける。


「それでどうするの?」
「気は進みませんが白澤さんに話を聞いてみようと思います」
「ああ…白澤君なら何か知ってるかもね」


うん、と頷く閻魔を横目に本当に気が進まない、と内心でため息を吐く。
出来ることなら鬼灯の手で解決してやりたいが、そうも言っていられない状況だ。鬼灯は明朝天国に向かうことに決め、執務室に蔓延る仕事を片付け始めるのだった。



鬼灯に半ば強引に寝かしつけられた寝台で、いつの間にか浅い眠りに引き込まれていたなまえは肩を揺さぶる手のひらに意識をすくいあげられる。鉛を抱えたように重く、ずきんと痛む頭に手をやりつつ気だるい疲れをまとった身体を起こした。
鬼灯はなまえが身を横たえていた寝台の傍に膝をつき、いくらか和らげた声をかける。


「あまり眠れなかったようですね…。これからある場所に行こうと思うのですが、平気ですか?何なら私1人で行きますが」
「私のことで、ですよね?一緒に連れて行ってください……私の問題ですから」


鬼灯はきゅっと唇を噛みしめたなまえの、薄い隈のできた目元へ、まるで硝子細工に触れるようにそっと指先を重ねた。
その優しい感触に伏せられたまぶたを縁どる影を見つめたあと、なまえの背に手を添える。鬼灯に促され、寝台からおりたなまえは隣に立つ彼を見上げて首を傾げた。


「どこに行くんですか?」
「知り合いに様々な知識に長けた人物がいるのです。彼が住む天国に行こうかと」
「…天国」


地獄の次は天国か、とゆるくまぶたをまたたかせたなまえに構わず逆さ鬼灯を負ったその背中は先を行ってしまう。気鬱に沈む心に身体を伴い、なまえは彼を追ったのだった。





鬼灯に連れられて訪れたのは地獄とは似ても似つかない、光に満ちあふれた場所だった。天国だと説明した鬼灯の言葉にも深く頷けるくらいの、やわらかで澄み切った空気が流れゆく其処。
なまえも普段ならばそのくるくると変わる豊かな表情を美しい景色に向けていただろう。しかし周囲に思いを馳せるほどの心の余裕は、今のなまえにはなかった。

鬼灯の背中を追い、桃の実をたわわにつけた木々の道を抜けると一軒の店にたどり着いた。
そこで出会ったのは染みひとつないまっさらな白衣を身につけ、温和な笑みを向けてくれる男性。彼が万物の知識に長けた人物らしい。

挨拶もそこそこにひとりの少女が地獄に堕とされることになった経緯を淡々と説いていく鬼灯の横で、なまえは不安に揺れ動く心を抑えつけるのに必死だった。


「…古来から満月には不思議な力があるって言われてきたけど……なまえちゃんみたいな例は初めて見るなぁ」
「そう、ですか…」


ぽつぽつと交わされる2人の会話を尻目に、鬼灯は笑みを崩さない神獣にその鋭い眼光を向けていた。
白澤が話の中に登場した月と、透き通るような水面を持つ池に関心を示すように眉を上げたのを鬼灯は見逃さなかったのだ。
それに加え、ひどく落胆した様子を見せたなまえに何かを含むような眼差しを向けたように思えたのは気のせいだろうか。その真意は測りかねるが、妙な胸騒ぎを覚えた。

訝しむような視線で白澤を突き刺す鬼神に素知らぬ振りを決め込みながら、彼は項垂れたなまえを気遣うように科白を重ねる。


「世の中には説明のつかないことがまだまだたくさんあるんだし、満月の日だけに開かれる道みたいなものがあってもおかしくはないと思うけど」
「つまり貴方もわからないということでしょう。万物に精通する知識を持ちながら…役に立ちませんね」


なまえは早速喧嘩腰になる鬼灯と白澤を気にも留めず、俯いたままつま先を見つめている。
さらり、とほどけた髪がひと束なまえの頬に散った。おぼろげに触れるくすぐったい感覚と、足に感じる床の固い感触。とく、とく、となまえの中心でいのちを刻む心臓、手のひらの温度。

どれを取っても一昨日までと何ひとつ変わらないのに、今のなまえには帰る場所がない。

この世界で、ひとりぼっち。

足場のない崖に立たされたようで、ひんやりと体温を失くしていく指先をぎゅっと握り込む。自然とたまっていく涙を堰き止めるようにまぶたを閉じた。
そんな彼女に胸ぐらを掴み合っていた2人はぴたりと諍いをやめ、初めになまえへゆっくりと歩み寄って顔をのぞきこんだのは白澤だった。


「力になれなくて本当にごめんね」
「……いいえ」
「でも月が関わってるのは明白だし、きっと1ヶ月経てば帰れるよ」
「確信もないことを彼女に吹き込まないでください」
「オマエ…、せっかくこの娘を元気付けようとしてるのに!」
「月が関係しているという前提が間違っていたら如何するんです、糠喜びさせるだけでしょう。それに月の力というのも単なる迷信でしょうが」


ここでも衝突する2人に、なまえは繕ったような微笑を唇に乗せる。他のことに気を取られた振りでもしなければ、今にも大声をあげて泣き出してしまいそうだったからだ。

どうしようもない焦燥と悲嘆、陰鬱とした思いをひた隠すように作った笑みに、鬼灯と白澤は眉を寄せる。
何かを告げようと口を開いた鬼灯を遮るように白澤が彼女の肩に手を置いた。
彼がなまえに形づくった微笑みは、初対面の人間に見せる表情としては相応しくないものだった。しかし慈しむような憐れむような、慈愛に満ちたそれに包まれてすっと心が軽くなるのを感じる。


「帰る場所がないなら、ここにいたらいいよ」
「え?」
「満月の日まであと1ヶ月。その間ここで店の手伝いでもして過ごしたらいいと思うんだ。…もちろんなまえちゃんが良ければ、だけど。あ、手は出さないよ!」
「私……は、」


思いがけない白澤の申し出に幾許か呆気に取られる。心の整理もつけられないまま迷うように視線を彷徨わせたあと、彼の瞳を見つめ返すなまえの耳に鬼灯の低い声音が響いた。


「………焦って答えを出す必要はありません、今日は一先ず帰りましょう」


そう言った鬼灯に、まるでその場からなまえを連れ去ろうとするかのような力強さで手首を引かれる。
肩越しにちらりと振り返ったなまえに、白澤は優しい笑みをほころばせてくれた。それにぎこちない微笑を返しながら先を行く黒い背を追う。

明るい日差しに溶けてしまいそうになるその漆黒を見失わないよう、目を凝らして足を動かす。
何だかこの世界に来てから鬼灯の背中ばかり見ているな、と考えていた時だった。

戸口で見送る白澤の姿が見えなくなるまで歩いたところで、鬼灯が唐突になまえへと向き直ったのだ。
それがあまりにも突然だったので歩みを止めることが出来ずに、ぽすん、と彼の胸へ飛び込むような形になってしまって。おまけに鼻を強かに打ち付け、なまえは小さく呻く。


「……何やってるんですか」
「すすみません」
「全く、そんな事ではアレのところに行っても一思いに食べられてしまうだけですよ」
「た、食べられ……それってどういう意味で…?」
「色々な意味で、です。…怖いなら、あのまま閻魔殿に身を置いたらどうですか」
「え…」


大きな瞳を一際丸くするなまえの様子をじっと見つめる鬼灯。彼の言葉に虚を突かれて、まともな反応を示すことが出来ない。
それはとても意外な科白だった。彼は軽薄にそんな申し出をするひとには見えなかったからだ。

白澤がああ言ってくれたのは、なまえを少なからず可哀想だと思ったからだろう。彼はきっと慈悲深く優しい性分なのだと思う。故に同情し、己の性質に則っただけだ。

だが鬼灯はどうだろうか。
彼はきっと他人にも自分にも厳しいひと。一時の憐憫に惑わされて浅慮な提案をするような人物ではないということは、なまえとのわずかな接触の中でも明白に認められることだった。

何故、と戸惑いを露わにして鬼灯を見上げるなまえからふいっと目をそらした彼は、浅く息を吐く。


「何となく…なまえさんをあの白豚に渡してしまうと、後悔するような予感がしただけです」
「……鬼灯さん…?」
「らしくないと自分でも思いますよ。………少し頭を冷やします。なまえさんは今後の身の振り方をよく考えておきなさい」


鬼灯に捕まえられていた手をそっと離され、彼はなまえの歩幅に合わせるような緩い速度で歩き出す。
鬼灯のぬくもりを失ってしまった手に少しの寂しさを覚えていると、先ほどとは違い肩を連ねて歩き始めた彼との距離が近づいたことに気がつく。何ともなしに鬼灯を仰げば、彼は前を見据えながら口を開いた。


「ただ、先ほど言ったことは嘘でも冗談でもありませんから」
「え?」
「なまえさんさえ頷けば、いつでも貴女を迎えられる手筈は整っています」


声色に真摯な響きをにじませた鬼灯にあえかにほどけていく心の行く末を思って、なまえはゆるりと吐息した。


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