花盗人は何処 | ナノ




閻魔殿を出ると見覚えのある景色に取り囲まれる。やはりあれは夢ではなかったのだとわずかに表情を沈ませるなまえを肩越しにちらりと振り返った鬼灯は、彼女の気を逸らすように訊ねた。


「現世のどの辺りから来たのですか?」
「あ…えっと、田舎なんですけど」


周囲にぐるりと首を巡らせていたなまえは鬼灯に瞳を戻し、祖母の家の所在地を口にする。
祖母の家は山ふところに抱かれた村にある。知名度も低い其処を知っているか心配になりつつ鬼灯をうかがえば、承知したように目で頷く彼にほっと息をついた。
暫く会話もなく彼に付き従うように歩いていると、ふいに立ち止まった鬼灯がきょろきょろと周辺を探るように見回しているのに気がつく。


「おかしいですね…」
「どうしたんですか…?」
「貴女を見つけたのはこの辺りだった筈ですが、道が見つからないのです」


道、というのは現世と此処を通じているという空間のことだろうか。なまえも自分が現れたのは最初に見た風景と重なるこの辺りだと思うのだが、それらしきものはない。
次の被害者が出る前に塞いでおかなければと考えた鬼灯だったが、その物がなければ対策のしようもない。妙だ、と頭を捻りながら彼はなまえに向き直った。


「すみません、時間を取らせてしまいましたね。現世に向かうので着いてきて下さい」
「いえ、いいんです…」


なまえと同じ状況に陥ってしまう人が増えるよりはずっといい。そう思ってゆるい微笑を唇に乗せながら首を振るなまえを鬼灯は一瞥した。
もう彼女の顔に怯えは影も形もない。その事実に少しの安堵を覚えた自分を自覚しながら再び歩みを進める。
現世におりるには火車に頼むか地獄の門を自らの足で通るかのふたつにひとつだが、火に轟々と包まれる二輪車の方はなまえには難易度が高いだろうと門へと向かった。


「これから驚かせてしまうかも知れませんが、まぁ耐えてください」
「はい?な何か出るんですか?ゆ、幽霊とか妖怪とか……」


そういったものを信じていないとはいえここは地獄。理解に至らない存在を畏怖するのは当然のことだ。
ぎょろりとしたいくつもの目が付いている肉片だとか、綺麗に髪を切り揃えたおかっぱ頭の不気味な少女だとか。
多種多様な妖怪を思い描いてはそれを振り払うようにぶんぶんと頭を横に振るなまえはすっかり青褪めてしまっていた。


「幽霊…というより妖怪の類いですね」
「ううう……」


地獄の門の入り口である重厚な扉を抜け薄暗い柱廊を歩んでいる最中、鬼灯からかけられた言葉になまえはふるりと肩を揺らし慄いてしまう。
思わず先を行く鬼灯の着物の袖を掴もうと手を伸ばしかけたところで、ぐっと思いとどまった。
これ以上彼に負担と迷惑をかける訳にはいかない、そう自分に言い聞かせて心もとなくふらつく足を叱咤しながら進んでいた、その時だった。


「アラ!鬼灯様、どうしたの?視察かしら?」
「いえ、少し野暮用で現世まで……、なまえさん?」
「う、うし、のおばけ…!」


甲高い声と共に姿を現したその巨大な牛のような生物に驚き、腰を抜かすことはなかったものの縋るように目先にあった着物の袖を握る。

ぎゅう、と皺になってしまうかと思うほどの力で鬼灯にしがみつくなまえはかたかたと身を震わせている。鬼灯は案の定怖がらせてしまったと些か反省しながらなまえの恐怖を取り除くようにそっとその細い肩に触れた。


「彼女は牛頭さん、ここの門番を務める獄卒です。私も含め、獄卒たちは貴女を取って食ったりしないので安心してください」
「は、はい……あ、袖を掴んでしまってごめんなさい…!」
「いえ」


聳えたつようなずっしりとした巨体と彼女の首元を飾る頭蓋骨にまた恐怖してしまいそうになりつつ鬼灯から離れる。
それでも背に隠れるようにするなまえに早くここを離れた方がいいと思案した鬼灯は、まだ話し足りない様子の牛頭に断りを入れて足早に門をくぐった。


暗がりから抜け出た途端、立ち込めた厚い靄に侵食されていく視界。彼を見失わないよう、道を照らす提灯のように揺れる逆さ鬼灯を追えばその先で一筋の光が閃いた。
それを目指しているらしい鬼灯にあれは何かと問おうとした時、凄まじい光の洪水がなまえの目の前を埋めつくし、たまらずぎゅっとまぶたを閉じた。
薄い皮膚を突き刺してまで眼前を白に塗りかえてしまうそれが漸く収まった時を見計らい、目を開ける。

視界いっぱいに展開したのは馴染みのない寂れたあの大地ではなく、きらきらと降り注ぐ太陽の光や、それを浴び青々と芽吹いた木々の葉だ。


「ここって…」
「現世ですよ。移動手段が限られたので貴女の家まで行くのに時間がかかりますが……バスでも使いましょうか」


いつの間にか帽子を目深に被り、角や尖った耳を隠している鬼灯は懐から取り出した懐中時計とバスの時刻表を見比べていた。なまえは鬼でも人間のように交通機関を利用したりするのか、と呆気にとられたようにぽかんと彼を見やる。

傍にあったベンチに腰をおろした鬼灯は座りなさいと催促するようにぽんぽんと隣を叩き、勧められるままに腰を落ち着けたなまえはそおっと彼を見上げた。


「あの、私、散々失礼な態度取ったのにこんなに良くして頂いて……本当にありがとうございます」
「地獄へ繋がる道を管理できていなかったこちらに非があるのです。気になさらないでください」
「そんな訳には…!何かお礼でも出来たらいいんですけど……」
「貴女は無事に帰ることだけ考えていればいいんですよ」


そんな会話を交わしながら、鬼灯の恩に報いることすら出来ないのだと実感する。情けなく眉を下げていると、電灯が点ったようにひとつの考えがぱっと頭に浮かんだ。
特別秀でたところのないなまえが唯一誇れるのは両親の多忙という環境の中で培った料理の腕だけだった。ならばと鬼灯を見やった彼女はそっと唇を開く。


「祖母の家に着いたらお時間を頂けますか…?」
「ですが、」
「ちょっとでいいんです!少しだけ、お願いします」


懸命に頭を下げるなまえを暫く見つめていた鬼灯は、諦めたように息をついて目を伏せた。


「わかりました、それでなまえさんの気が済むのなら」
「はい、腕によりをかけてつくります!」
「おや、手料理をご馳走して頂けるのですか」
「得意なんです。お好きなものは何ですか?」


そんな他愛のない言葉たちを交わせる程度には彼と打ち解けられたことに嬉しさを感じ、なまえはふわりと表情をほころばせる。
鬼灯は想像していたよりずっと話し易くて、ずっと優しいひとだった。決められた別れにかすかな寂寞が過るほど彼にほどけさせられた心を抱えて、やって来たバスに乗り込む。

ゆらゆらと揺られながら村への道をたどる道中、楽しそうにお喋りに興じるなまえは先ほどまで怖じ気づいていた様をかけらも見せない。これが彼女の本質なのだろう。
相槌を打ち、時折雑学を披露しつつ会話を重ねていくと、バスが鈍い振動を伝えながら停車する。
どうやら目的の地に到着したようだった。


「祖母の家はこっちです。少し坂になってますから気をつけてくださいね」
「私としてはなまえさんが転がり落ちないか非常に心配です」
「……鬼灯さんって意地悪なんですね…」


もう、と形だけで怒ってみせるなまえとゆるい坂道を上っていく。中ほどまで来た辺りで後方を振り返ると、山間からのぞく橙の夕日が田畑の隙間に敷かれた畦道や遠くにさらさらと流れる小川を自らの色に染め、穏やかな風は鬼灯を優しく迎え入れるように吹き抜けていった。

ここは何だか懐かしい思いにさせる。故郷でも、ましてや訪れたこともない場所の筈だ。それなのに懐古にも似た思いが鬼灯をやわらかく包み、その心良い感覚は陽光に眇めていた瞳をふっとやわらげた。

やさしい坂を登り切ったところで、なまえが足をぴたりと止める。不思議に思いながら彼女の横顔をのぞきこむと、その表情は驚愕に満ちていて。まるで目先に広がる光景が到底信じられないと言うように小さく見開かれた瞳に首を傾げる。


「なまえさん?」
「……、そんな、何で」


ふらふらと一、二歩前に進んだなまえは弾かれたように駆け出した。
疑問を抱きながらもなまえを追うと、おもむろに足を止めた彼女は寒々しい空き地の真ん中にぽつんと佇んで動かない。
その華奢な背中は寄り辺を失くしたようにひどく頼りなく見えた。


「なまえさ、」
「ない……」
「…?」
「おばあちゃんの家……どこにもないんです…!」


悲痛に満ちた声が鬼灯の胸をずん、と貫いた。湿気をふくんだ薄気味悪い風がなぶるように頬を撫でていく。
先ほどまで心地のよかった空気が嘘のように重苦しく淀んでいき、鬼灯はそれに引きずられるようにして心を曇らせていくなまえを傍観することしか出来ない。かけるべき言葉も探し出せないまま、胸が張り裂けそうなほどの哀切に歪んだ表情を浮かべる彼女をただ見つめていた。


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