香ばしいかおりが漂う台所で、魚の焼き加減を見るなまえの背は傍目にもわかるほど浮ついていた。時折ちらりと振り返る横顔はにこやかに微笑んでおり、弾む胸を懸命におさえつけているようにも見える。 そんな彼女に首を傾げた桃太郎は、同じく朝食を待ち食卓を囲む白澤に問いかけた。 「なんかなまえさん機嫌いいっスね」 「…そうだね」 「あれ?白澤様は悪いんですね、二日酔いでもないのに」 「今日の僕は冗談返せるほど余裕ないから……」 「一体どうしちゃったんスか?」 白澤はテーブルにだらりと身体を預け伏せってはいるが視線はうかがうようになまえへと寄せられている。 上目に彼女を見つめる黒紅の虹彩が寂しげに揺らめくのを認めて、桃太郎はますます首を傾げた。 普段の彼ならばなまえの笑顔を視界に捉えただけでつられたように優しい微笑みをのぞかせるのに、今日は悲哀すらその瞳にたたえて彼女を見るのだからやはり疑問が湧く。 訝しむように眇められる桃太郎の目に気がついた白澤は、ひとつ息をついて口を開いた。 「今日アイツが来るんだよ」 「え?アイツって………鬼灯さんですか?」 「名前も聞きたくない」 「それで拗ねてるんですね…でも」 白澤が過ごしてきた時間に比べれば桃太郎やなまえと出会ってからの日々などほんのひと瞬きほどのものだが、それでも彼の様子がおかしいことはわかる。 いくら心の底から厭う彼が訪れるからといって、なまえが喜ぶのならばと耐えるのが気の優しい彼らしい。しかし今はなまえの笑顔を目にする度に寂寥に揺れる表情を見せるものだから、もしや仲違いの修復に失敗したのではと変に勘繰ってしまう。 そんな胸中を感じ取ったのか、白澤は軽い調子で口を開く。 「あ、なまえちゃんとはもう仲直りしたよ」 「そうなんですか、よかったです。でも、ならどうして…」 「……ごめん、聞かないでくれると嬉しいな」 「白澤様?」 弱ったように笑んでそう囁いた彼に眉をひそめるが、痛々しくも見える表情にそれ以上踏み込むのははばかられる。 結局揃って口をつぐんだまま、なまえが朝食を運んでくるまで2人の間には重たい沈黙の帳がおりていたのだった。 「?どうしたんですか2人とも…」 「あ、いえ…」 「……ううん、何でもないよ。わぁ、今日は和食なんだね」 「はい、鮭が安かったので」 「うん、おいしいよ」 なまえも奇妙な静寂を不思議に思ったのか、どこか心配そうに白澤と桃太郎を見つめる。 そんな彼女の眼差しに打って変わって朗らかな笑みを象った彼に、また桃太郎の心に影が落ちる。いくら極楽蜻蛉でだらしのない上司だとしても、一応は師と崇めるべき位置に居るひとだ。彼らしからぬ、どこか痛ましさすら感じる笑顔には相当な違和感を覚える。 桃太郎は嘘に塗り固められた白澤の横顔と、彼にやわらかな微笑みを向けるなまえとに視線をさまよわせ、ちくりと痛む胸に顔を歪めた。 何が白澤に表面を取り繕うような言動をさせるのかは理解に至らないが、また3人で心から笑いあえる時が来るのを強く願うしか自分に出来ることはないのだろう。 桃太郎はひとり結論付け、ひと波乱起きそうな予感を察し緩くざわめく胸中に、そっと息をついたのだった。 * のどかな日光がうらうらと降り注ぐ昼下がり。鬼灯を想いどうしたって浮き立つ心を抱えながら過ごしていると、不意に視線を感じて顔をあげる。 ぱちりと瞳がかち合い、身じろいだその人に首を傾げながら口を開いた。 「白澤さん?どうしたんですか」 「っいや、ごめんぼーっとしてた」 「そうですか?体調でも悪いんじゃ…」 「そんなことないよ、ありがとう」 いつもの優しい笑みをつくり損ねたような、いびつな微笑を乗せた彼の顔を見つめる。くしゃりとひしゃげたそれに思わず眉を下げると、白澤は困ったようになまえを見下ろした。 昨夜も見せたその表情。もうなまえの中では大切な友人と位置づけられた白澤を苛む何かがあるのだと思うと、ただ見ていることはとても出来ない。 力になれないだろうかと唇を割ったその時、からりと戸を引く音がなまえの視線を奪った。 戸口でしゃんと背筋を伸ばし、涼やかな瞳をこちらに向けるのは鬼灯だった。 「あ……」 「久しぶりですね、なまえ」 ずっと焦がれていたその姿を目にすると、胸がじんわりと熱を持つ。濡羽色の鋭い虹彩がなまえを映し出す、それだけで高鳴っていく心音に、火照っていく頬とこの身に彼が好きなのだと思い知らされる。 もう純粋に慕っていたあの頃とは異なってしまった心情にぐらぐらと揺さぶられ顔をうつむかせたなまえは、彼女に寄せられていたもうひとつの眼差しが切なげに離れていくのに気がつくことはなかった。 「桃タロー君、行くよ」 「行くってどこに…あ、待ってください白澤様!」 「…白澤さん?」 「…………」 交わす言葉は少なくても、2人が互いを想いやっているのは彼らから目を背けた白澤にもたやすく汲み取ることが出来た。 鬼灯にあまい心を溶かした瞳を注ぐなまえを一時すら見ていたくなくて、痛む胸に目を瞑った白澤は静かに背を向ける。 まるで2人の一切を拒絶するように閉じられた戸を一瞥した鬼灯は、白澤が消えていった扉をちらちらと気にかけるなまえに視線を戻した。 「こら、久方ぶりに会ったと思ったら目も合わせないなんて失礼ですよ」 「す、すみません、でもいろいろと準備がですね…!」 「何ですか?私に顔向け出来ないようなことでもやらかしたんですか」 「ち違いますよ!」 鬼灯の問いかけに慌てて首を横に振り、なまえは視線を床に這わせる。 どうにも捨てられない想いを見つけてしまっただけで、決して後ろめたい訳ではない。ただ、如何せん初めての恋というやつなのでどんな面もちで彼との談笑に臨めばいいのかすらわからないのだ。 鬼灯の瞳さえまともに見られなくて、とくとくと速まっていく心臓の音に指先まで縛りつけられたように身動きひとつ満足に出来ない。 うなだれたつむじを見下ろしていた鬼灯は小さく首を傾げつつも、普段どおりからかうような言葉を舌にのせた。 「ならその間抜けな顔をよく見せてください」 「なんか釈然としませんけど……これが鬼灯さんですよね」 「何ですか、少し会わないうちに主人のことを忘れたんですか?」 「もう、また犬扱いする…」 何やら緊張しているらしいなまえがまとう、苦しそうに張りつめた気配をほどいてやりたいと思案した鬼灯がつむいだ戯れのような言葉に彼女はようやく笑みをのぞかせる。 それに安堵しながらいつもしてやるように彼女の頭へ手を伸ばすと、弾かれたようにびくりと身体を跳ねさせたなまえに思わず動きを止めた。 彼女の仕草は鬼灯を拒んだように思えて胸がちりっと焼け付いたような痛みを発する。 きゅっと眉根を寄せた鬼灯になまえは焦りを覚えたのか、はぐらかすような笑顔を描いた。 「そそうだ地獄はどうですか?騒ぎは収まりましたか?」 「…………ええ、大方収まったと思いますよ」 「そうですか、よかった」 「もうなまえが戻ってきても支障ないでしょう」 「本当ですか!?」 行き場をなくし、彼女の傍らを漂っていた手のひらはなまえのほころぶような花笑みを受けてそっとおろされた。 彼女の髪に触れることなく垂れ下がった腕に物足りなさを感じながらも、鬼灯はなまえのやわらかに花開く笑顔に瞳をやわらげたのだった。 |